第4話 二十五のとき

 何かある日は、高確率で雨が降っていた。

 良い日も、悪い日も、きっかけになる日も。



 大学を卒業した愁也は、管理栄養士国家試験にも合格し、都内の病院に勤務していた。

 成人式のあの日から、もう5年が経つ。

 あの日以来、実家には帰っていない。

 姉が結婚し、その夫が婿養子となり、実質跡取りが決まった。愁也が実家に戻る必要は、ない。

 それに。

 風習を守るために帰ってはならない。愁也はそう思っていた。

 そう思いながらも、ハンドメイドのブレスレットを手放すことはできなかった。

 彼女が嬉しそうに手渡してくれた、マクラメ編みのブレスレット。

 25歳になった今でも、お守りのように、肌身離さず持ち歩いている。

 そろそろソメイヨシノの開花情報が発表されるのではないかと言われ始めた頃だった。

 たまたま外来の廊下を通っていた愁也は、待合スペースのテレビをちらっと見て、その直後に目を疑った。

 ニュース番組で扱われているのは、田舎の土砂崩れの様子。住宅まで土砂が押し寄せ、一部の住人が避難しているという。

 映像に映し出されたのは、土砂崩れに巻き込まれた神社。愁也の実家であった。



 「で、後先考えずに来てしまった、と」

「……ごめんなさい」

 自家用車の後部座席で、愁也はしゅんとなってしまった。

「まあ、想像の範囲内だけど」

 冬悟は車を運転しながら、呟いた。

 愁也は、いても立ってもいられず、すぐに早退して村に向かおうとした。だが、市街地の駅から村へ向かうバスは臨時運休となっており、藁にもすがる思いで冬悟に電話したのだ。冬悟も仕事を早退し、すぐに駅まで迎えに来てくれた。

「親御さんには連絡したのか?」

「いや、それが」

 そこまで頭がまわらなかった。

 ワイパーが規則正しく動き、フロントガラスの雨粒を除ける。

「愁也んちのご家族は、お姉さん夫婦の家に避難している。今のところ、全員の安否が確認されている……ヒメを除いては」

 愁也は、シートベルトをしていることを忘れて身を乗り出しそうになった。

「村の人達の話だと、ヒメ自身が避難を拒んだらしい。皆、ヒメを連れ出そうとしたのに。皆、口に出さないだけで、気にしていたんだよ」

 愁也には、意外に感じられた。

 風習云々を理由にヒメを見殺しにすると思ったからだ。

 冬悟は、路肩に車を停めた。時刻は16時になろうとしている。もうかなり暗い。

「明日の晴れ間に期待して一晩無駄に過ごすことなんか、お前はできないんだろう?」

 この道を真っ直ぐ進めば、村に向かう。右に曲がれば、家族が身を寄せている姉の家に向かう。

「俺はおすすめしないが、俺がお前の立場だったら、きっと、お前と同じことをするだろうな」

 冬悟は助手席の荷物から、ヘルメットを出した。

「どうする、王子様?」



 雨は止むことを知らない。

 神社の拝殿も自宅も土砂に埋もれていたが、納屋は無事だった。

 愁也はヘルメットを手に、スコップを探すために納屋の引き戸を開けた。

 刹那、何かがごろんと転がり出た。

 色褪せた毛布にくるまれた、大きなもの。毛布からは、金にも銀にも映える長い髪がこぼれた。

 嫌な予感が込み上げる。

 愁也は毛布を剥がし、中を確認した。

 毛布の中にいたのは、ヒメと呼ばれている彼女だ。

 肌理きめの細かい頬に、雨粒が落ちる。白い喉元が動き、オパールのような光を宿した瞳が愁也をとらえる。

 咽喉が疼く。

 衝動は、土砂降りのように襲ってきた。

晴佳はるか!」

 力いっぱい彼女を抱きしめる。抱きすくめる。

 彼女もまた、腕を伸ばしてぴったりと愁也に身を寄せる。

「……眠いよ」

 呟く声が可愛く、耳朶を撫でる。琴線を掻き鳴らす。

 言葉にならない感覚。強いて言語化するなら「愛おしい」と言う感情が、優しく降り注ぐ。

 しっとりと雨に濡れながら、ふたりは唇を重ねた。

 何度も何度も、言葉と心と空白を埋めるように。



 彼女は毛布にくるまったまま、石段に腰かける。

 愁也は彼女にヘルメットをかぶせたが、いらない、と返されてしまった。愁也は傘代わりにヘルメットを頭に乗せ、隣に腰かけ、彼女に問う。

「ここにいるつもりか?」

「うん」

 彼女は、明瞭に答えた。

「皆には感謝している。私を家族みたいに受け入れてくれて、記念日にはお祝いまでしてくれて、タブレットも買ってくれて、私は幸せだよ。もう、充分」

 彼女は毛布から手を出し、指を絡めて手をつなごうとする。指先が愁也のブレスレットに触れ、気づいたように視線を落とした。

「まだ、こんなもの、つけてたの?」

「うん。俺のお守りだから」

「こんな下手くそなもの、手放してくれて、いいのに。もっと良いものをつくるから」

「つくってくれるのか!」

 愁也は思わず声を弾ませ、彼女は、失言したとばかりに渋い顔をした。

「つくろうよ。俺も、もっと菓子をつくりたい。もっと上達して、喜んでもらいたい……」

 末尾に呟いた彼女の名は、雨音に掻き消されてしまった。恰好がつかない。

「とにかく! ヒメも避難しろと言われたんだろう? だったら、敷地ここから出ても平気だってことじゃん。神社と心中するつもりか? 誰もそんなことを望んでいないのに」

「でも、ここから出たら、何が起こるか――」

 彼女の言葉を遮り、愁也は手を引いて立ち上がらせた。

 一歩、一歩。石段を下る。

 雨は止むことを知らない。

 辺りはすっかり暗くなってしまった。

 石段の下の外灯が、少しずつ近くなる。

 最後の一段。足を滑らせそうになった彼女を、愁也は抱き止めた。

 地に足がついた瞬間、彼女は、びくりと震える。おそるおそる周囲を見回してから、無垢な表情で愁也を見つめる。

「帰ってきた、気がする。ヒメになる前の、村に」

 変かな、と小首を傾げる彼女に、愁也は、変じゃないよ、と答えた。

「おかえり、晴佳」

 彼女は口を綻ばせた。

「ただいま」



 【完】

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愛しき名は雨音に秘して 紺藤 香純 @21109123

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