雨の衣を身に纏い

黒瀬 木綿希(ゆうき)

雨の衣を身に纏い


 仕事を辞めてはや一ヶ月。日付が変わって無職のまま母の命日を迎えた瞬間、涙が頬を伝った。将来に対する漠然とした不安と母に対する申し訳なさで。

同棲して三年になる彼の体温を肩に感じながら、眠れぬ夜の月を窓越しに見上げた時のことだった。

 とうとう母の年齢を越してしまった。だというのに私はまだ我が子を迎えていない。結婚もしていない。仕事も長続きしなくて、社会から切り離されている典型的なダメ人間だ。

 いやにシンとした空間は時計の秒針がうるさく感じられ、長針と短針が重なった瞬間の音は重厚な木製扉のかんぬきが外されたようでもあった。


 同じベッドで眠る彼の夢を妨げないように身を起こし、すぐ隣の壁に手を這わせながらこの部屋を借りる時に一番の決め手となった両開きの出窓に肘を乗せる。そのまま人差し指を伸ばして窓を押すと肌にまとわりつくような湿った空気が私の頬を撫でた。それは犬に顔を舐められたような不快感と安心感をあわせ持ち、私をより感傷的にさせる。

 洋風なアパートの三階から眺める景色はさして特徴のない閑静な住宅街だけど既に多くの灯りと音が消失しているせいか、違った世界のように感じられた。あと六、七時間もすれば太陽が昇り、スーツを着たサラリーマンや通学する学生、朝のごみ捨てをする主婦たちであふれる道路には今、ひとっこ一人いない。サービス終了が近付いて過疎化が進んだオンラインゲームに一人だけログインしているような気分とでも言おうか。


 昨日の夜は細いアラブの剣のような月が出ていてその少し上にやけに輝く星が一つ見え、どこか遠い国の国旗にありそうな図柄みたいだった。今日は厚い雲に覆われているせいでたまにしか顔を覗かせてくれないけど少しだけ肉付きが良いことが分かる。心なしか、しなり具合も緩やかに見え、剣は弓へと姿を変えていた。外の景色をこれだけしみじみ眺めたのも久しぶりだ。

 私が名も知らぬ星々を眺めていると背後でもぞもぞと動く気配がする。ややあって「どうした?」と寝起き特有のかすれた声がした。

「起こしちゃった? ごめん」

「眠れないの?」

「まぁ、そんなとこ」

 煮え切らない私の様子に彼は何かを感じ取ったのか、身を起こして正座した。太ももの上で握られた拳と袖から覗く手首がなんとなく猫みたいだ。

「私は大丈夫だから寝てなよ」

「自分で大丈夫って言う人間で本当に大丈夫だった奴を僕は知らない」

「また随分と遠回しに心配するね」

 彼は少し捻くれているところがあるので迂遠な言い回しをすることが多々ある。かと思えば過程をすっ飛ばして結論だけ述べることもあるので初対面の人だと少々取っつき辛いと感じるかもしれない。

「でも本当に大丈夫だから」

「それならなんで泣いてるのさ」


 いくら月明かりが差し込むと言っても部屋は暗いから誤魔化せると思ったけどそうはいかないみたい。目ざとく指摘した彼はそうすることが当たり前だというように私の頬を親指の腹で優しくなでた。男の人特有の少しかさついた指先に私の雫が潤いをもたらす。

 そのしっとりとした指先が離れることを惜しいと思ってつい彼の手首を掴んでしまった。一瞬驚かれたけど私の意思を汲み取ってくれたのか、今度は頬全体を手の平で覆ってくれた。大きくて力強く、キーボードを叩くことが苦手そうな手で。

「眠れないなら少し散歩でもしようか」

「今から? でも雨が降りそうだよ?」

「そんなに遠くまで行かないし、降られたらすぐに帰れば良い」

 それから彼はイタズラっぽく笑って「実は夜中に出歩くの、好きなんだ」と言った。そんな趣味があろうとは。

「ひとり暮らしだった頃の眠れない夜はしょっちゅうぶらついてた。不審者扱いされてたまに職質されたけどね」

「私、職務質問なんてされたことないなぁ」

 されたいとも思わないけど一度くらいなら良いかも。記念受験みたいなノリで。それはちょっと違うか。 

「このあたりは近所に交番もないし、治安も良いからおまわりさんの世話になることなんてないさ」

 そう言うと彼は手首を掴んでいる私の指を剥がしはじめた。わざわざ一本ずつ、丁寧に。名残惜しい。さりとて抵抗せずに傍観する私。彼は本気で今から出掛けるつもりらしい。当然ながら私はすっぴんなので少しばかり抵抗がある。

 だというのに「上着、着たほうが良いかな」とごまかす私に「あれ着なよ」と部屋の隅へ置いてあるポールハンガーを差す彼。そこには部屋着としてのみ使っているベージュのロングカーディガンが。

「僕は下だけ変えるか」

 チノパンに履き替えている彼が前かがみになると首元が緩くなったシャツから鎖骨が覗く。思わず箸でつまみたくなりそうな鎖骨だ。ずっと見ていると気付かれそうだから私もベッドから這い出し、カーディガンを手に取った。男の人はなんでも準備が早く、彼は既に玄関で待ち構えていた。


「お待たせ」

「待ってないよ」

「ホント?」

「うん。着替えるところを見てただけ」

「そのほうがタチ悪いよ」

 などと笑って言い合いながら静かに扉を開け、一応は近所に配慮してシリンダーの音が鳴り響かないようカギをゆっくりと締める。

「行こうか」

 部屋の中から眺めるだけの外と実際に足を踏み入れた外とでは雰囲気が違う。アスファルトの地面を一歩一歩踏みしめるごとに高揚感が湧き、悪いことなんて一切していないのに妙な後ろめたさで肌が粟だった。体調が悪くて保健室で休んだり、生理で水泳の授業を見学した時の気持ちと似ている。

「静かだね」

「そりゃ平日の夜だからな。それより寒くない?」

「うん。でもじっとしてると意外と冷えるね」

「そのために歩くんだよ」

 そう言ってあてもなく歩き始めた彼の背中をトテトテと追っている私は迷子の子どもみたいだ。今は人生の迷子。

 私たちはかれこれ十五分ほど無言で歩き続けた。川のせせらぎを聞きながら橋を渡り、貨物列車の力強い轟音をお腹で感じた踏切を渡り、信号がほとんどなく、もろびとこぞりて寝静まった住宅地の生活道路を。

 車が来ないのを良いことに堂々と道の真ん中を通っている彼の隣に並ぶと、ブロック塀の上を歩いている猫を見つけて思わず足が止まった。混じりけのない黒一色で三白眼の黄色い瞳が今日の月みたいに弧を描いている。この子も眠れないのかな、と思って観察していると黒猫も私をじっと眺めてきた。見つめ返すと尻尾が振り子時計のようにユラユラと揺れ始める。フワフワでモフモフとしていて埃を残さず取ってくれる掃除用具みたいな尻尾が。人間に慣れているのか、逃げる様子が微塵も感じられない。


「こういう時に会う黒猫ってさ、なんか、神様のお導きでもあったのかと思っちゃうな。普通じゃない感じがする」

 呟く彼の言っている意味は随分とオカルトチックだが、食べ物がスッと胃に収まったかのように私の心に染みいった。

「言われてみればそうとしか思えなくなっちゃった。渋い声で『なんだ、人の子よ』なんて言いそう」

「実は千年以上生きてたり?」

「うん。それで気に入った人間としばらく一緒に生活して、その人が病気かなにかで死んじゃったら『人の子の生涯は儚いのう』とかも言いそうじゃない?」

「分かる。もう何人も見送ってるんだろうな。ひょっとしたらその中に君とそっくりな人がいたんじゃない? だからこうして逃げずにじっと観察してるとか」

「『まさか……。いや、あやつはもう何年も前に死んだはず』って思ってたりするのかな?」

「そうそう」

 などと妄想が広がる私たちを黒猫はあくび交じりに見ていた。冷静になって考えてみるといい年した大人がなんでこんなくだらないことで盛り上がってるんだろうと恥ずかしくなる。それを誤魔化すように私は「ばいばい、猫ちゃん」と言って喉元を人差し指で撫で、背を向けた。数歩進んで振り返った時には黒猫は既に姿を消していた。


「変わった猫だったな」

「うん。でも飼うならあんな子が良い」

「ウチのアパート、ペット禁止だろ」

「分かってるよ。将来的な話」

 そこまで言ったところで私は後悔した。まるで、彼とずっと一緒にいることが確定しているような口ぶりだったことを。重い女だと思われていないか心配になって横目でそっと窺うと、彼は特に気にした風でもなくただ前を向いていた。

 視線を追った私の視界には場違いなほどに明るい光を放つ自動販売機が映り、さっきまでまるで意識していなかったのに喉が渇きを訴える。

「何か飲もうか」

「でもお金持ってきてないよ」

 私は財布はおろかスマホさえ持ってない。あるのは家の鍵だけ。すると彼は自分のスマホをポケットから出して「文明の利器」と電子マネーで払うことを示唆した。この場合、ちゃっかりと言うべきかしっかり者と褒めそやすべきか悩む。

「お、良かった。まだホットもあるんだな」と、彼は甘いカフェオレを買った。歩いたから体はそれなりに温まっているけどわざわざ冷えた飲み物を買う気にもなれなかったので私も彼と同じ物を買い、歩きながら飲んだ。


「夜中ってさ、昼だと聞けない音でも耳が拾えるから良いよな。これとか」

 そう言って彼は自販機を差す。

「コンプレッサーのゴーッて音、騒がしい昼だと聞こえないだろ? 蛍光灯のジーッて音とかも」

「言われてみるとそうかも。時計の秒針もだよね」

 それはそれとしてゴーやらジーやら、子どもっぽく擬音で表す彼がなんだか可愛らしい。

「夜ってさ、そういう時間なんだよ。何気なく生活してる普段だと意識してないものが虫の知らせみたいにフッと頭に入ってくる。それは長い人生の中で薄れていく記憶を繋ぎ止めるために必要なものなんだ」

「ごめん。もうちょっと分かりやすく」

「家を出る前、夜中に散歩するのが好きだって言ったろ?」

「うん」

「アレもさ、今日の君みたいに眠れない日に仕方なく始めたことだったんだよ。それで、眠れない日ってのは決まって薄れかけていた記憶が呼び起こされるんだ」

「どんな記憶?」

「たとえば――」

 彼はふと視線をあげた。その時、私たちは小学校をガラリと囲む道路を歩いていて彼はフェンス越しにグラウンドと校舎を見ていたようだ。

 私が小学生だった頃と比べると最近の学校は遊具が少なくなってしまった。不審者対策のために放課後の校庭解放をやめる学校も増えているとも聞く。

「――もう一生会うことがないだろう同級生のこととか」

「一生ってちょっと大げさじゃない?」

「じゃあ訊くけど、君は卒業してから一度でも会ったことがある小学校の同級生って何人くらいいる?」

 その問いに私は即答できなかった。高校三年生の春休みに偶然、自動車学校で再会した友だちもいたけど言われてみれば”一度たりとも”会っていない同級生ばかりだ。今の子はSNSの発達で簡単に互いの所在を知ることが出来るけど私の時代にそんな便利な代物はなかった。

「ちなみに僕は五、六人。パーセントで言ったら五パーくらい。二十人に一人って計算になるね」

「私もそれくらいかも」

「それが普通なんだよ。それなりに仲が良かった友人でも卒業したらハイ終わりって関係は珍しくないんだ」

 彼は達観しているようでその実、現代人のドライな関係を嘆いているようでもあった。


「僕もそうさ。放課後に児童館やお互いの家で遊んだ友人、通学路が一緒で毎日一緒に帰っていた友人、それから当時片想いしていた女子。みんな、卒業以来会ってない」

 私たちは体育館の裏に差しかかった。非常口を示す緑色の明かりが館内を薄暗く照らしている様子が道路からでも見える。私は体育が苦手で、みんなが軽々と超えていく跳び箱の段が飛べなくてクラスの男子にからかわれたりした。

「そういえば一時期だけ一人称がボクの女子がいたよ。ボクっ子ってやつ」

「ホントにいるんだね、そういう子」

「あぁ。でもそれ以外はおかしな点もなくて可愛い子だったよ。一人称だって個性みたいなもんだしさ。確か、天貝あまがいさんだった。出席番号がいつも一番だったからよく覚えてる」

 彼が天貝さんとやらの話をしているとなにやら空模様が怪しくなってきた。月が雲に隠れて淡くぼやけていく。普段、眼鏡をかけている人が裸眼で街灯などの光点を見るとこんな感じに映るのだとか。

「そういえば双子がいたな。広光ひろみつさんって子で、姉のほうとは五、六年生の時に同じクラスだったよ。お互いによくちょっかいをかけあうくらいには仲が良かったんだけどさ、一度だけ妹と間違っちゃってさ。相手のキョトンとした反応で初めて自分の勘違いに気づいて……あれは恥ずかしかったなぁ」

 実際にその現場に遭遇したわけじゃないのに私まで恥ずかしくなってきた。共感性羞恥の人が聞いたら身悶えしそう。

「一緒にいた子だと、堀宮ほりみやさんって子も印象に残ってるな。ちょっとポッチャリしていて運動は苦手だったし、切れ長の目も相まって最初はとっつきにくいなぁって印象があったんだ。でも話してみるとすごく愛嬌があってね、ただでさえ細い目を本当に一本の線みたいに細くして笑うんだよ」

 私はこのあたりで相槌を打つのをやめた。たとえ十年以上前の話で相手がまだ小学生だったとしても、ほかの女の子のことを明るく楽しそうに話されたくなかったから。せめて男子を一人挟んでほしかった。彼はいったいどういう意図があってこんな昔話を始めたんだろう。

 それに加えて私の気持ちと同調するかのように空模様がさらに怪しくなり、帰ったほうが良いかもと思う前にポツリ、ポツリと雨が降り始めてきた。空を見上げてみたが月はもう見えなくなっていた。


「今言った子たちさ、もうみんな死んでるんだ」

 その言葉を聞いた瞬間、世界から音が消えた。私は錆びた機械のようなぎこちない動きで首を動かし、無表情な彼を見る。同級生が、三人も。まだ、三十歳にもなっていないのに。

 なぜ亡くなったのか理由を訊きたかったが、話題が話題だけに真っ向から訊ねるのは憚られる。すると彼は私の考えなどお見通しだと言うように「事故と病気と自殺でね」と付け加えた。

「降ってきたし、そろそろ帰ろうか」

 言うだけ言って踵を返す彼。二重の意味での突飛な方向転換に私は「え、あ、うん。いや、そうじゃなくて」と上手く回らない舌に焦れながら彼を引き止めた。

「今の話ってそこで終わって良いの?」

「詳しく知りたいなら話すけど、聞きたい?」

「いや、それほどでもないけど、ごめん、ちょっと意図が分からなくて」

「特に意味はないよ。行き当たりばったりなだけ」

 平然と告げられ、私の頭には疑問符が幾重にも重なって浮かぶ。でもきっと彼の行動には意味があるはず。また過程をすっとばして結論を言っているに違いない、とも思っていた。

「当てもなくぶらついて、たまたま小学校に辿り着いて、偶然クラスメイトのことが浮かんで……本当にそれだけ。思いついたままのことを言ったに過ぎないんだよ」

「どうしてそんな……」

「ただ、君の気持ちをリセットしたかっただけなんだ」

 そう言って彼は再び歩き出す。引き返すのではなく、また別の道へ向かって。私はその背中を不安と期待がない交ぜになった気持ちで追った。なかなか足を踏み入れない道。おまけに深夜。雨の中、夜中に彼と散歩。経験したことのない領域。ここはもはや異世界だ。


「君は何も悪くない。罪悪感なんて覚えなくて良いし、ましてや申し訳なく思う必要なんてない。君のお袋さんのことは残念だけど、お袋さんがこの道を選んでくれたからこそ、僕は今こうして君を夜の雨に打たせられてるんだ」

 一度聞いただけではまるで意味の分からない言い回し。まだ百年前の日本語のほうが頭に入りそうだ。でもおそらく、遠回しな愛情表現なのだと思う。

「帰ったらシャワー浴びないとな」

 今日は寒くも暖かくもない雨の日。冷蔵庫で冷やした包丁の刃みたいな冬の雨とは違って、どこか優しさがある雨。

 あぁ、春の雨だなぁって思えるだけ、私の心はまだ死んでないと思った。

 

〈了〉

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雨の衣を身に纏い 黒瀬 木綿希(ゆうき) @ikarita_kuma

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