3/3 意志を抜き取られた器。

「……どうも、サトルさんの姪の、長瀬保奈美です。えっと、これからどうぞよろしくお願いします」


「えっ」


 思わず声が漏れ出てしまった。ごく普通の自己紹介をされただけなのになぜか驚いている変な人になってしまった。


「……あの、どうかしましたか? わたし、そんな変な顔してますかね?」


「あ、い、いや、そういうんじゃないの。ごめんね。その、これからよろしくね?」


「はい、よろしくお願いします。……あの、舟木真希さん、で合ってますよね?」


 動揺して名乗るのも忘れていた。


「……あ、そうだよ。真希さんとか、真希ちゃんって呼んでね」


「わかりました、真希さん」


 ホナミちゃんはそれが精一杯なのであろう下手な笑顔でそう言った。


 やっぱり、ホナミちゃんは私のこと覚えていないみたいだな……。まあ当然か。


 私はその少女、結婚相手の同居人である長瀬保奈美に、どうしようもなく見覚えがあった。そして名前を聞いて、その見覚えが確信に変わった。そもそもこの家だって見覚えのあるものだった。サトルさんには初めて来た風を装っているが、私は既に一度となくこの家に訪れたことがある。


 ホナミちゃんの印象は約十年前と比べてだいぶ変わっていた。昔はこんな、無表情で瞳の奥が見通せないような子ではなかった。大人に対して、あんな下手な笑顔を向けるような子供ではなかった。


 しかしまさか、人生の中でもう一度ホナミちゃんに会うことになるとは。運命的な力が働いたのか、単に世間が狭いだけなのか。


 まだ、あの事件は終わっていないのか。


 今から十一年と四か月前の、あの事件。私のその後の人生を、私のその後の生き方を、決定的に変えてしまったあの事件。


 私はこの十一年間片時もその事件のことを忘れたことはない。それもそのはず、私の人生にはいつだってその事件が付きまとってきたのだから。何を始めるにしても何をやめるにしても、あの事件のことを考えずにはできなかった。だから確かに私の中では、あの事件はまだ続いている。私が死ぬまで、あの事件は続くことになる。


 しかしあの事件は、一般的に言えば終わっている。起こるべき出来事は既に全て起こって、その後の処理もきちんとなされて事件は記録され、保管庫の中の無数にあるバインダーの一つの中に挟まって今も眠っている。


 しかし私がこうしてホナミちゃんと出会ってしまった以上、あの事件で起こるべき出来事はまだ残されているのかもしれない。


 だから私は今こそ、十一年前のあの事件を改めて振り返るべきだ。


 事件の重要人物である長瀬保奈美と再び邂逅し、そしてこれから付き合っていくことになったのだから、今一度、あの事件について自分なりに処理をするべきだ。今までその事件の結果だけに意識が向きすぎて、その過程についてはあまり考えたことがなかったかもしれない。


 今こそ全ての記憶を整理しよう。


 私が長瀬先生と出会って別れるまでの、その全ての記憶を。





 高校一年生の六月の、美術の時間だった。


 高校に入学して五月病も落ち着いて、ようやく自分のクラスの立ち位置を掴み始めてきたころのことだ。その授業の課題はリンゴのスケッチだった。今から考えてみればだいぶ雑というか、生徒からすればとても楽な授業だった。音楽や書道を選ばなかったのは正解だったかなぁとか暢気に考えながら、私は他の生徒と共に、テーブルに置かれたリンゴを中心として円形になるように机を移動させて、リンゴの絵を描いていた。


 特に絵を描くことが好きでもなかった私は、ただのリンゴをひとつ描くのにどうやって五十分もの時間を費やせばいいのだろうと思案して、最初はなかなか手が動かなかった。そうやって思案するふりをして退屈な時間を潰していた。


 ペンも持たずに腕を組んで白紙の画用紙を睨みつつ、ふと隣を見ると、なんと隣の席の男子は既にリンゴの絵を完成させていた。授業が開始されて三分も経っていないにもかかわらずである。彼は足を組んで膝に肘を乗せて手に顎を乗せて、柔らかい表情でリンゴを見つめていた。不思議に思って彼の画用紙を覗き見ると、そこには確かにリンゴが描いてあった。簡素極まりないリンゴの絵が描かれていた。黒い丸の中に、黒い横線と黒い縦線があるだけの、一秒とかからずに描き切れるようなリンゴの絵だった。私は軽く引きながらまた彼の顔を見た。彼は変わらず、ある一点だけをひたすらに見つめていた。


 最初はリンゴを見ているのかと思ったが、どうやら違うらしい。彼はリンゴの先にある、美術の教科担任の姿を凝視しているのだった。


 美術の非常勤講師である長瀬先生は、確かに美人だ。いや、美人という言葉ではある意味陳腐に聞こえてしまうほど、彼女には美しいという言葉が似合っている。まるで宗教画に出てきそうな、長瀬先生本人が何らかの美術作品のようだった。美しさという一点だけで言えば、私は芸能人を含めても長瀬先生より美しい人を見たことがない。


 そして美しい人にはよくあることだが、長瀬先生の左手薬指は時折光を反射して煌めいていた。長瀬先生は既に数年前に結婚していて、五歳の娘もいた。この学校の女子生徒と比較しても長瀬先生の肌のきめ細かさや髪の綺麗さは全く遜色ないのでたまに忘れそうになるが、長瀬先生はアラサーも越えた三十代半ばである。しかし年齢など関係なく美しいものは美しいので、この学校の男子生徒の中で勇敢にも長瀬先生に告白する人は少なくない。まあ、告白の結果はする前からわかりきっているのだけど。この一秒でリンゴを描いた彼も、そんな男子生徒の中の一人なのだろうか。


 私は四月から美術部に所属しているので、部の顧問である長瀬先生とは少なからず関わりがある。一学年に五、六人しかいないような小規模な部活なので、他の部活よりは比較的顧問の先生との距離は近い。それに部内の雰囲気も長瀬先生の雰囲気も基本的に弛緩しきっているので、長瀬先生と友達のような距離感で話すこともある。そして、私は一年生の中では一番長瀬先生と仲が良い自信がある。


 私が一番、長瀬先生との親愛度が高い。


 と、隣の席の彼につられたように、私も長瀬先生のことを見つめていた。しばらく経ってから、長瀬先生は下を向いて声を殺すように笑いながら立ち上がって、ゆっくりと私に近づいてきて、私の耳元で「ちゃんとやりなさいね」と透き通った氷のような滑らかで綺麗な声で、苦笑交じりに囁いた。私はそこでやっと長瀬先生から目を離した。


 次に長瀬先生は隣の席の彼の画用紙を取り上げて、それをまじまじと観察したあと、「色を付けてみたら?」とだけ言って彼に画用紙を返した。描き直せとは言わないだろうことは予想できていたけど、彼なら色を付ける作業も三秒で終わらせることだろう。長瀬先生は性格が穏やかなのか、ただ面倒ごとを避けているだけなのかわからないときがある。


 隣の席の彼は「はい、やってみます」と意外と素直に頷いて、パレットでリンゴのイメージに合う赤色を作り始めた。長瀬先生のことが好きだから従うのか、それとも彼も、面倒ごとを避けているのか。


 私も意識を切り替えて、どうせ時間をかけるなら陰影の描写にこだわって様々な色を作ってみようと、絵筆を手に取った。長瀬先生はゆっくりとひとしきり教室内を回った後で、また教卓の手前のパイプ椅子に座った。そして長瀬先生も絵筆を持って、自分の絵を描き始める。


 長瀬先生は暇さえあれば絵を描く人だった。とにかく絵を描くのが好きな人だった。自分の頭の中のイメージの世界に住んでいるような人で、その浮世離れしたミステリアスな雰囲気も、長瀬先生の美しさを引き立てていた。


 絵筆を動かしながらも、私はリンゴを見るふりをしてちらちらと長瀬先生を盗み見ていた。長瀬先生は髪を耳にかける仕草をして、黙々と机の上の画用紙に向き合っていた。私はその長瀬先生の仕草に、胸を小さな針で貫かれたような気分になる。


 私が長瀬先生に向けて抱いていた感情は、敬愛や友愛や親愛とは似て非なるものだった。


 私はそのとき既に、長瀬先生に恋心を抱いていた。


 私は長瀬先生に恋をしていた。


 それまで恋をしたことがなく、また同性愛者だという自覚もそのときまでなかったが、私は確かに自分が恋をしているということを確信していた。高鳴る胸の鼓動が、これこそが恋なのだと私に訴えかけていた。


 ぼーっと長瀬先生を見つめる初恋乙女の顔をした私の頬は、テーブルの上のリンゴに負けず劣らず紅く染まっていたに違いない。





「俺は長瀬先生のことが好きだ」


 あまりにも急すぎる恋敵の登場に動揺を隠せない。


「な、なに? 急に」


 放課後に掃除当番として教室に残って、テキトーに箒を振っていた私に近づいてきて、少し小さな声で岸辺くんは私に言った。


 岸辺くんというのは、さっきの美術の授業でふざけたリンゴの絵を描いて長瀬先生をひたすら見つめていた私の隣の席の彼の呼び名である。岸辺くんはクラスの男子の中で唯一身長が百八十センチを超えていて、なおかつひょろ長いわけではなく体格もがっしりとしていて、そして新卒の若い男性の副担任よりも声が低かった。眼鏡はかけておらず短髪で、制服の学ランはいつもどのボタンもとまっていなかった。高偏差値で落ち着いたうちの高校の校風にはミスマッチな風体と性格の持ち主だった。もちろんこのクラスにも体育会系でくだけた話し方と服装の男子は他にもいるが、岸辺くんの場合はなんというか、雰囲気のくだけ方が邪悪だった。そもそも体格以外は爽やかな体育会系とは程遠い。


「長瀬先生の尻を揉みしだきたい」


 そこは胸じゃないんだ、と冷静な分析ができるほど私の頭の中のお花畑の面積は広くなかった。


「だから何? なんで私にそんなこと言うの?」


 同じ掃除当番の班ということで事務的な会話をすることは何回かあったが、私はそれまで岸辺くんと個人的に話したことが一度もなかった。私はあまり興味のない男子に対して無意識につんけんした態度をとってしまう癖があって、このときも岸辺くんに少々冷たい聞き返し方をしてしまった。高校一年生の頃の私は、社会人として外面がまだほとんど出来上がっていなかった。


「お前美術部だろ。長瀬先生と仲良いよな?」


 それほど仲が良いわけでもない女子のことをお前と呼ぶ男子はクラスの中では岸辺くんくらいしかいない。今では、そのほうがかえって男子高校生として健康的なのかもしれないと思ったりするけど。


「俺に協力してくれよ。俺が長瀬先生と付き合うための協力」


「はァ~?」


 私は思いっきり眉をひそめて嫌そうな顔をしてみせた。私だって長瀬先生のことが好きなのだから協力するわけがない、ということよりも、お前は長瀬先生に相応しくないという不平が先に頭に浮かんだ。


「なんだよ」


「あのさ、岸辺くんに協力しても、私には何のリターンもないよね。私が岸辺くんに協力するメリットが何もないように見えるんだけど」


「なんだよそれ。じゃああとで金やるよ。それでいいか?」


「ねぇ、長瀬先生が結婚してるって、知らないの?」


 こんな何を考えているのかわからない恐ろしい男の反感を買わないために言葉を選んで告白を断らなければならない長瀬先生が気の毒すぎる。


「知ってるに決まってんだろ。もちろんそれは承知の上だ」


「え、どうするつもり?」


「考えがある。だが今は言えない」


 岸辺くんはにやりと笑う。岸辺くんは基本的に口を開けて笑うことがない。これは私が今だから知っている情報で、六月時点の私はまだその癖を知らなかった。


「お前の協力がとりつけられないなら、こんな考えに意味はないからな」


「…………」


 いや、そんな思わせぶりな言い方をされたところで別に、私は岸辺くんの考えとやらに興味が湧くことはないのだけど。


「……ほら、もう掃除終わるよ」


 眼鏡をかけた男子がちりとりを持って近づいてきたので、私はそばでしゃがみこんだその男子に、集めていたゴミを近づけた。岸辺くんは既にロッカーに箒をしまいに行っていた。たとえそのほうが効率が良いとしても、二人で足りる作業に三人目が加わる必要はない、という思想の持ち主である岸辺くんが協力なんて言葉を使うのは不適切な気がする。


 私たちは二人で集めた埃をゴミ箱に捨てて、その日の掃除は終わった。私が美術室に向かう準備をしていると、両手をポケットに突っ込んだ猫背の岸辺くんが近づいてきた。


「美術室、ついて行ってもいいか?」


「いきなり何?」


 そのときの私はかなり苛立っていた。いや、岸辺くんとこれ以上関わりたくなくて、苛立ったような態度を装っていたんだっけか。岸辺くんはちょっと図体がでかくて言葉遣いが横柄なだけなのに、昔の私はなかなか酷いことをするよな。


「放課後の美術室って、美術部以外の人間は入っちゃいけないルールでもあんの?」


「そんなの知らない」


「じゃあいいってことだよな」


 私が歩き出すと岸辺くんは後ろからついてきた。階段を上ったところで振り返ると、岸辺くんはにやにやと不快な笑みを浮かべていた。全体的に不愉快な人だと思った。


「え、なに、それ彼氏?」


 美術室に入ると、二年生の先輩が一瞬驚いた顔で岸辺くんを見た後で、茶化すような笑みで私に視線を送った。


「いや全然全く違うんで本当に」


 私は手と頭をぶんぶん振って否定の意を示しながら歩き出す。先輩がすれ違いざまに肘で私の脇腹をつついた。


 私が適当な席に座ると、岸辺くんは首を振ってきょろきょろしながら近づいてきて、そして私の隣の椅子を乱暴に引っ張って座った。


「なァ、長瀬先生は? どこだよ」


「知らないから」私は岸辺くんの顔も見ずに言い捨てた。


「長瀬先生なら準備室だよ」


 さっきの先輩が笑顔で答えていた。私は部活の準備をしながら一瞥するように先輩を睨む。


「おお、ご丁寧にどうも」


 ぐへへとでも言いそうなほど邪悪な笑みで岸辺くんは立ち上がって、美術室の奥の準備室のドアノブをとろうとしたところで私はあわてて岸辺くんの手を止める。


「……ねぇ、長瀬先生に会って、何をする気?」


「なんでもいいだろ別に」


「なんでもよくないでしょ」


「お前には関係ないだろ。あっちで黙って絵でも描いてろよ」


「関係なくないから」


「何の関係があるんだよ」


「……わ、私が一番、長瀬先生と仲が良いから」


「そうなのか?」


 と言って岸辺くんは美術室を見回した。同級生の女の子が一人だけ、ぼーっとこちらを見つめていた。


「おーい! こん中で長瀬先生と仲良い人手ェ挙げてー!」


「いや、ちょっと!」


 室内の美術部員全員が一斉に不思議そうな顔でこちらに注目する。しかし皆困惑したような顔で動きを止めただけで、岸辺くんに従って手を挙げようとする人は誰一人いない。私以外にも部員の中には長瀬先生と頻繁に話しているような人がいるのに、だ。それもそのはず、この部活は、こういうノリに咄嗟の判断でついていくことができない人間の集まりだったからだ。


「ふうん、どうやら本当らしいな……」


 岸辺くんは空気を読むということができない人間らしく、部員たちの反応をそのまま真に受けた。


 そのときの私は、岸辺くんは馬鹿な人だと見下していた。どうやってこの高校の入試に合格したのか不思議なくらいに馬鹿な人だと、甘く見ていた。


「まあいいや。じゃあお前もついて来いよ」


「だから、何をするつもりなの?」


「ちょっと長瀬先生と世間話でもしようと思っただけだ。てか、こんな白昼堂々学校ン中で、危ないことしようとするわけないだろ。俺がそんな頭のとち狂った人間に見えるのか?」


 十分見えるから言ってるんだけどな。


 岸辺くんがドアノブを捻って扉を開くと、イーゼルにたてかけてあるキャンバスに向かう長瀬先生の背中がぴくりと反応した。身体を横に向けて私たちの姿を確認して、不思議そうに小首を傾げる。


「どうしたの? キミは確か……美術部の子じゃ、ないよね?」


「どうも、岸辺っていいます」


 岸辺くんは腰を低くして長瀬先生に笑いかけた。その笑みは快活とは程遠かった。


「キミは……さっきの授業で、超効率重視のリンゴを描いていた男の子?」


 長瀬先生はいつもゆったりとした話し方をする。その声の聴き心地の良さを強調するように、ひとつひとつの言葉を丁寧に発音する。


「そうですそうです。いやはや俺なんかのことを覚えていてくださっていたなんて~光栄です~」


 岸辺くんはテキトーな言葉を雑に並べながら、そこら辺にあった椅子を引き寄せて腰かけた。私も黙ってそばにあった椅子に座る。長瀬先生を頂点として、私たち三人で三角形を作るような構図になった。


「えーっと、何にもないところだけど、ゆっくりしていってね」


 と優し気な笑みで岸辺くんに言った後で、長瀬先生は困惑したような笑みを私に向けた。なんで急に知らない男子を私のテリトリーに連れ込んできたんだ、と目で訴えかけていた。こんな風に、長瀬先生には、教師らしい大人っぽさに欠けている部分がある。十歳以上年下の高校生に頼ることに全く躊躇がない。


「長瀬先生の旦那さんってどんな人なんすか?」


 岸辺くんの目の色がさっきまでとは明らかに変わっていた。岸辺くんの目から少しだけ澱みが消えて、明るさが増したように見える。さっきの美術の授業で長瀬先生を見つめていた目と同じだった。


「うーん、何ていうか、天才?」


「て、天才?」私は思わず声をあげてしまう。


「うん。あの人は間違いなく、絵の天才だよ」


 絵の天才、つまり画家か。長瀬先生は高校の美術教師なんていうごく普通の職業だし、家族構成も妻と夫と五歳の子供という平凡な核家族だったので、てっきり旦那さんも普通のしがないサラリーマンとか、あるいは長瀬先生と同じ教師とかなのではないかと思っていた。


 絵を描くことが好きな人の好きな相手は絵を描くことで生計を立てている人だったのか。


「へぇー。じゃあ今も家に引きこもって絵ぇ描いてるんですか?」


「いや、家じゃなくてアトリエだけど、まあ、そうなるね」


 長瀬先生は笑顔でそう答える。


 長瀬先生が笑顔で応対するのは、基本的にその相手が苦手な場合においてのみだ。私や他の美術部員に対してはいつも真顔で無表情で、他の男性教師等を相手にしているときは笑顔だった。顔の筋肉を動かすのが面倒なのだそうだ。よくそれで社会人としてやっていけるよなと思うけど、おそらく美人だというだけで何でも許されてきたのだろう。長瀬先生の美しさには、不愛想な表情なんて気にならないような、そういう力がある。


 だから長瀬先生が無理をして顔の筋肉を動かしているということは、岸辺くんに対してかなり気を遣っているという証左である。


「……ね、ねぇ、岸辺くんはさ、長瀬先生に言いたいことがあるんだよね?」


 さっさと岸辺くんに告白させて撃沈させて、この問題を終わらせてしまおうと考えた。それが長瀬先生にとっても岸辺くんにとっても、もちろん私にとっても良いことだろう。


「は? いや、別にそんなのないけど」


 岸辺くんはこちらを睨むように見てきっぱり言った。


「え。ね、ねぇ、告白は?」


 岸辺くんとの物理的距離はそこまで近いわけではないのでそこまで声を小さくすることはできず、たぶん今の台詞は長瀬先生に聞かれてしまっているが、私は岸辺くんに耳打ちするような恰好で小さな声で言った。


「今告白したって成功するわけないだろ。頭使え馬鹿」


 なぜか馬鹿に馬鹿呼ばわりされて私は唖然としてしまう。


「長瀬先生。もっと旦那さんのこと聞かせてもらってもいいですか?」


「ん、でも、別に普通の人だよ? 画家で、私より二つ年上で、眼鏡かけてて、ちょっと神経質なところがあるかな。天才だからってすっごい変な人なわけじゃないよ。けっこう普通に大人としてまとも。私変人とは結婚しないし」


「へぇー。俺とは正反対っぽいっすねぇー」


「あはは。そうだね」


 だんだん長瀬先生の顔色が悪くなってきていた。まあ、自分の結婚相手とは正反対のタイプの男から詰め寄られたら気分も悪くなるか。


「……あのさ、岸辺くん。結局、ここに来た用って何だったの?」


「いや、もう用は済んだ」


 この短時間でいつ用が済んだのかは判然としないが、まあこちらとしては都合が良い。


「用が済んだなら早く帰ったほうがいいんじゃないかな。部外者がいつまでも居座っていると、他の美術部員の子にも、長瀬先生にも迷惑だし。ね?」


 岸辺くんがキッと鋭くこちらを睨んだ。この人は実は私のことをものすごく嫌っているんじゃないかと思った。


 長瀬先生もあえて私の言葉に頷くことはないが、内側では私に激しく同意しているはずだ。


「じゃ、失礼しました」


 意外にもすんなりと岸辺くんは私の提案に従って、椅子から立ち上がって珍しく恭しく頭を下げた。


「う、うん。気を付けて帰ってね~」


 長瀬先生は笑顔でそう言って、岸辺くんが準備室から出て行った瞬間に、先生の顔の筋肉は一気に緊張を解かれていつもの真顔に戻った。


「ねえ真希ちゃん。あの子は何?」


 扉のほうからぐいっと私に首を向けて、抑揚に欠ける声で長瀬先生は私に尋ねる。ともすれば怒っているようにも見える態度だが、長瀬先生はこれがニュートラルなのである。


「えっと、なんか、長瀬先生のことが好き、みたいですよ?」


「それは知ってるよ。告白とか言ってたし。そんなことよりさ、真希ちゃんとはどういう関係なの?」


 自分に好意を寄せている人がいると聞かされて、『それは知ってるよ』の一言だけで流せるのは美人として三十年以上生きてきた者の特権か。


「ただのクラスメイト、です。今日初めて話しました」


「ただのクラスメイトの人を勝手に美術室に連れてきちゃいけません」


 小さい子供を諭すような口調で言われた。やっぱり今日の長瀬先生は少し怒っているのかもしれない。


「あの子、ちょっと珍しい雰囲気だね。この高校にはあんまりいないタイプ、ましてや美術部なんかには絶対に入部しないようなタイプだ」


 長瀬先生はポケットからキットカットを取り出して半分に割って、その半分を私に差し出した。私は礼を言いながらそれを口に含む。お菓子をくれる大人は良い大人だ。


「なんかヤンキーっぽい感じしますよね」


「うん。中学のときの彼氏を思い出すなぁ」


 ふふっと春風のように軽く笑いながら先生は言った。長瀬先生も中学時代はステレオタイプ的に不良な男子に憧れていたのか。少しがっかりする。


「真希ちゃん。もうあの子を二度と美術室に連れてきちゃだめだからね」


「出禁ですか。先生にしては厳しいですね」


「うん出禁。あの子、ちょっと危険な感じがする。ヤンキーだからってわけじゃなくて、もっと人として根本的な何かが危険な感じがするんだ。真希ちゃんも、あの子とはちゃんと距離をとったほうがいいんじゃないかな。先生がこんなこと言うべきじゃないんだろうけど」


 長瀬先生がここまではっきり誰かを拒絶したところは初めて見た。長瀬先生の精神は基本的に何もかもゆるゆるなので、その心ももちろん誰にでもゆるく開かれている。そんな長瀬先生が初めて、もう二度とここに連れてくるなとはっきり拒絶した。


「そこまで強く言うなんて、本当に珍しいですね。らしくないですよ」


「らしくなくてもいいの。何十年も生きていたらそういう勘が冴えてくるものなのよ。あの岸辺くん? って言ったかな。あの子は将来、まともな大人にはならないよ」


 ここまで強く誰かを否定する長瀬先生も、私は初めて見た。さすがに岸辺くんが気の毒になってくる。


「ほら、真希ちゃんも美術室に戻りなさい。お菓子あげたことはみんなには内緒でね?」


「それはもちろん」


 長瀬先生はイーゼルの前に座り直し、私はドアノブを捻って準備室をあとにする。


 美術室には岸辺くんの姿は既になく、もちろん荷物もなくなっていた。


「舟木ちゃんの彼氏、もう帰っちゃったけど、追わなくていいの?」


「彼氏じゃないんで追いませんよ」


 先輩がにまにまと私を馬鹿にする笑みを向ける。私は曖昧に笑うだけでそれを無視した。


 岸辺くんは、考えがある、と言っていた。岸辺くんの中には、長瀬先生への告白を成功させるための考えがあるらしい。


 しかし長瀬先生は、ほんの数分しか岸辺くんと対面していないにもかかわらず、私が見たこともないくらい岸辺くんのことをはっきりと嫌悪していた。


 だからたとえ岸辺くんの考えとやらがどんなものだったとしても、岸辺くんの告白が成功することはないだろう。ただでさえ年の差があったり既婚であったり子持ちであったり、長瀬先生と岸辺くんの間には分厚い壁が何枚もあるのに、岸辺くんはそれに加えて嫌われている。そんなの絶対に失敗するに決まっている。


 ただ、その百パーセント失敗するであろう告白は、私のあずかり知らぬところでひっそりと行われ、私の気づかぬうちに終わっていてほしいと願った。





 部活が終わってから校舎を出ると、夕方の薄暗闇の中に岸辺くんの姿を見つけた。見つけてしまった。


「うげ」


「うげってなんだよ」


 ポケットに手を突っ込んだ岸辺くんは不機嫌そうに私を見る。


「ずっと待ってたの?」


「そうだよ」


「私を?」


「他に誰がいる」


「うげ」


「うげってなんだよ」


「なんで私を待ってたの?」


「まあ、とりあえず歩こうぜ」


 ニッと笑ってから、岸辺くんは背を向けて歩き始めた。ここで私が岸辺くんについていかずにずっと立ち止まっていれば、岸辺くんは気づかずにそのまま帰ってくれるのではないかと思った。


「おい、何してんだよ。早くついてこい」


 岸辺くんは意外と普通に振り返ったので、私は不承不承、岸辺くんについていくことにした。


 傍目には一緒に行動しているとはわからないほどの距離をあけて、私は岸辺くんの背中についていく。


「どこに向かってるの?」


「質問が多いよなァ。お前はもっと無知の価値を知れ」


 急に哲学的なことを言われて私は困惑して、そして諦めた。そもそも岸辺くんが私の質問にまともに答えてくれると思わないほうが良い気がする。岸辺くんはそういう人だ。


 そのまま私たちは無言で歩き続けて、途中で岸辺くんが高校の最寄り駅を通り過ぎてしまったところで、帰りが遅くなってしまったらどうしようかという高校生らしい心配が煙のように頭に立ち上ってきた。


 部活帰りの生徒で賑わう駅を通り過ぎて、家の窓の温かい光で彩られた暗い住宅街を進むうちに、岸辺くんが不意に立ち止まった。今まで岸辺くんは私の歩幅のことなど一切考慮に入れずにその長い足をフル活用して歩いていたので、私は必然的に早歩きを余儀なくされていて、私はその勢いのまま岸辺くんの背中に激突しそうになった。


「ちょ、急に止まらないでよ」


 岸辺くんは膝に手を置いて屈んだ。不思議に思って私が岸辺くんの上からのぞくと、そこには可愛らしい幼稚園児らしき女児がいた。無垢で無邪気で輝かしい笑顔だった。


「だ、誰? この子」


「だからお前は質問が多いんだよ。一回黙っとけ」


 岸辺くんの後ろから覗き込む私の顔を押しのけるようにした後で、岸辺くんは一度咳払いをした。


「こんばんは。キミのお名前は何て言うのかな?」


 人の良さそうな笑みを浮かべて、重厚感のある優しい声色で岸辺くんは言った。そんな声も出せるのか。


「こんばんはー! えっとね、わたしのおなまえは、ナガセホナミっていいます!」


 その笑顔のイメージ通り、とても元気の良い女の子だった。私たちのような得体のしれない不審な高校生二人組にも、無垢で無邪気で無償の信頼を向けることができるのが、この子の先天的な明るい人柄をよく表している。


 そう、ホナミちゃんは本来、こういう子だった。笑顔が素敵で明るくて、自分の幸せを他人にも分けてあげられるような、人の失敗より人の成功を喜べるような、そんな子供だったのだ。


「ホナミちゃんか。いい名前だね。それで、キミのお母さんとお父さんのことについて教えてくれるかな?」


「んっとね、おかあさんはほわほわ~ってしてて、おとうさんはでっかくてあったかい!」


 岸辺くんは一瞬だけ怪訝な顔になった。しかしすぐにまた胡散臭い笑顔に戻る。


「お母さんのお仕事って、何かわかるかな?」


「んー……」とホナミちゃんは頭を抱えて考え込むようにした後で目を見開いて「おかあさんはね、がっこうのせんせーやってるよ!」と無駄に大きな声で言った。


 高校生の頃の私はあまり子供が好きではなかった。こういう元気の有り余った子供が近くにいると、すぐに頭が痛くなってしまうからだった。


「そっか。立派なお仕事だね」


「うん! りっぱりっぱ!」


 岸辺くんは「ビンゴだな」と言いながら膝から手を離して立ち上がって、そして私に振り返った。


「こいつが長瀬先生の娘だ」


「いや、それはわかるけど……」


「俺が見つけてきたんだ。すげーだろ」


 岸辺くんはにやにや笑って自慢げに言う。いや、ただのストーカー行為をすげーだろなんて自慢されてもな……。


「この子をどうする気? まさか誘拐なんてしないよね?」


「だから、そんな頭のとち狂ったようなことしないっつーの」


 岸辺くんはまた振り返って、膝に手を置いて屈んだ。


「あのね、ホナミちゃん。俺たちさ、キミのお母さんの学校の生徒なんだけど、お母さんに届け物があるからさ、家の場所、教えてくれない?」


「は⁉」私は思わず驚いて声を出したが、すぐにその口を岸辺くんに塞がれる。

「えっと、オニイサンは、おかあさんのおともだち?」


「うん、そうだよ。俺たちはお母さんのお友達だ」


「しらないひとじゃない、ってこと?」


 おそらく、知らない人に無闇に住所を教えるなといったような主旨のことを大人にきつく言われているのだろう。


「そう。『お母さんのお友達』は、『知らない人』じゃないよ。だから、自分の家に連れて行っても何の問題もないんだ」


「モーマンタイ?」


「そう、モーマンタイ」


 変な言葉だけは知ってるんだな、この子。


「じゃあ、あたしについてきて!」


 絵に描いたような模範的に無邪気な笑顔でそう言って、ホナミちゃんはてくてく歩き始めた。岸辺くんも、その自分の腰あたりまでしか身長がない女の子を追い抜かさないようについていく。私だけがしばらく呆然として立ち尽くしていたが、長い逡巡を経て、私はやっと岸辺くんの横に並んだ。


「ね、ねえ、何をしようとしてるの?」


「長瀬先生の住所を特定しようとしている。見りゃわかんだろ」


「何の目的があって?」


「知ってたら色々と便利だろ」


「やめなよ、こんな悪趣味なこと」


「うるっせぇなァ。俺はお前とは違うんだよ」


「は? どういう意味?」


「お前みたいに、いつまでも何の行動も起こさずに現状維持に甘んじているような人間じゃないっつってんの」


 私は驚いて立ち止まってしまった。


 それはもしかして、岸辺くんは。


 岸辺くんは、私が長瀬先生に対して特別な好意を抱いていることに、既に気づいているのか?


「おい、どうしたんだよ。お前も長瀬先生の住所、知りたいんじゃねーの?」


「…………」


 私は無言で岸辺くんの横に並ぶ。岸辺くんはずっと不快な笑みを浮かべていた。


 それから私たちは、制服姿の高校生が小さな女の子のあとについていくという異様な構図となって、薄暗く静かな住宅街をひたすら歩いていた。けっこうな距離を歩いた。まだ幼稚園児だったホナミちゃんがどうしてあんなに家から遠い場所に一人でいたのか、今でもその理由はわからない。


「ここだよ!」


 ホナミちゃんが立ち止まって笑顔で、ある一角の一軒家を指差した。それは本当にごく普通の、この住宅街に馴染んでいるただの一軒家だった。豪邸でもボロ家でもない。天才画家と美人教師が住んでいるとは一目見ただけでは到底わからないような、平凡で特徴のない家だった。


「ふうん、これが長瀬先生が寝泊まりしてる場所か……」


 岸辺くんは『長瀬』と書かれた表札を覗き込むように見て神妙な顔で言った。


「じゃ、ホナミちゃん。俺たちのことはお母さんやお父さんには言っちゃだめだからね。内緒だよ」


「うん、わかった! またね! オニイサン!」


「あーそうそう。ホナミちゃん、俺がひとついいことを教えてあげよう。世の中ではね、自分が名乗ったら相手にも名乗らせるのが礼儀とされているんだよ」


 ホナミちゃんは少し考え込むようにした。「……んっと、オニイサンのおなまえは?」


「俺の名前はジョニーデップだ」


 やっぱり馬鹿だこの人。


「じょにーでっぷ? へんなおなまえ~、おっかし~」


「そうだ、ジョニーデップ。人の名前はちゃんと忘れずに覚えておくんだぞ」


「うんわかった! またね! じょにーでっぷ!」


 届け物云々の話はすっかり忘れてしまったホナミちゃんは、大仰にぶんぶん手を振って、玄関の扉を開けて家の中の柔らかい光の中に消えていった。鍵はかかっていないのか。父親が家にいるからかな。


「じゃ、帰るか」


 岸辺くんは踵を返して、来た道を戻って駅に向かう。私も電車通学なので、また岸辺くんと一緒に同じ距離の道のりを歩くことになる。憂鬱だった。


「今日、私がいる意味あった?」


「あったよ」


「どんな意味?」


「高校生の男が一人で五歳の女児に話しかけていたら、不審すぎるだろ」


 高校生の男女が二人で五歳の女児に話しかけている構図というのも、それはそれでかなり不審だと思うけど。


「隣に彼女っぽい奴がいるってだけで、男の社会的信用はかなり上がるんだよ。知らないのか?」


 私は十五年間女性として生きてきたのでそんなことは知るはずがない。


「え、私たちって彼氏彼女に見えるものなの?」


「なんにも知らない奴が見たらそう見えるんだろたぶん。まさかお前が同性愛者だとは誰も思わないだろうからなァ?」


 私はまた足を止める。岸辺くんは数歩進んだところで止まって、私に振り返る。


 私を嘲るような、邪悪な笑みだった。


「お前も長瀬先生のことが好きなんだろ?」


「…………」


「女ってホントわかりやすいよなァ。興味ない人間と興味ある人間との差が激しすぎるんだよ。好きな人の前だと、明らかに目の色から表情と、声色まで全部変わっちまうんだから。いや、あんなわかりやすいのはお前だけか?」


「…………」


「お前、こんなことしてていいのか?」


「……あんたが先に言い始めたんでしょ」


「まあ、女からの告白なんて断られるに決まってるもんなァ?」


「…………べっ、別に、そうとは、限らないし」


「心のどっかでそう思ってるからのこのこ俺についてきたんじゃないのか? 何の危機感も持たずによォ。結局自分にはどうやったって長瀬先生には手が届かないんだから、無関係だと思って」


「……な、なんなの、あんたは」


「だから宣戦布告だよ。お前は長瀬先生に手ぇ出すな」


 拳を握る。


「……私、あんたのこと嫌いだから」


「俺はお前のことけっこう好きだぜ。扱いやすいから」


 私は無言で駆け出して、岸辺くんを追い抜いて住宅街を走った。あんな男の顔は二度と見たくなかった。夢中でとにかく足を回した。


 それでも私はこのとき、あの場から逃げるべきではなかったのだと、後になって思う。


 あの岸辺という男に真正面から向き合って、私が一歩も譲らなければ。真っ向から勝負を挑んで、岸辺くんと長瀬先生を取り合っていれば、最終的にあんな最悪な結果には至らなかったのかもしれない。もう少しましな未来がありえたのかもしれない。


 しかし高校一年生の私は未熟だった。あまりにも未熟だった。如何にして義務教育を修了できたのかと不思議なくらい、私の精神は未熟だった。思春期の情動の荒波に耐えきれなかったのだ。


 そして、十一年たった今も、私の精神はあの頃からそれほど成長していない気がする。





「やっぱり長瀬先生の旦那を殺すしかないな」


 あまりにも急すぎる殺害予告に動揺を隠せない。


「……な、何を言ってるの?」


 あれから数週間が経った後の放課後の、掃除の時間だった。掃除当番が変わっていない私と岸辺くんはその日も教室に残ってちんたら箒を振るっていた。


「あ? 別になんでもねぇよ」


 岸辺くんは迷惑そうな顔をして私から離れていった。なぜ私が迷惑がられなければならないのか全く分からなかったがそれよりも、岸辺くんの今の言葉を聞かなかったことにはできなかった。


「殺す……って」


 少し言葉遣いや語彙が未熟な男子高校生であれば『殺す』なんて言葉は日常的に使われる。しかしその言葉通り本当に人の命を奪おうとする男子高校生はまずいない。いてはならない。


 しかしそれが岸辺くんなら。確かに岸辺くんの普段の言葉遣いは粗暴だし、『殺す』くらい日常的に冗談交じりに言いそうではあるが、しかし今回の場合は話が違ってくる。


 よりにもよってその『殺す』対象が長瀬先生の旦那さんだ。


 長瀬先生に好意を寄せている岸辺くんなら、長瀬先生の旦那さんを殺す動機がある。


 岸辺くんが長瀬先生の旦那さんを殺すことに、何の不合理もないのだ。


 いやしかし、殺し、なんて。全く言い逃れできる余地のない、幼稚園児でも知っている完璧に完全な犯罪だ。


 確かに岸辺くんは乱暴で強引で意地悪な人ではあるが、自分の恋愛を成就させるためだけに人を一人殺すことを厭わないような決定的に倫理観が欠けている人には見えない。少なくとも私の前では、倫理観に問題があるような兆候を見せたことはなかったはずだ。


 根本的に人として守らなければらないものは、守ることができる人のはずだ。


 いくら振る舞いが粗暴でやり方が強引だからといって、それ以上立ち入ってはいけないラインは弁えているはずだ。


 私はそうやって馬鹿みたいに常識的に考えて、岸辺くんのことを放っておいた。その頃の私は傍目でも明らかなくらいに岸辺くんと距離を置いていて、岸辺くんの厄介ごとにこれ以上関わるのが面倒だったというのが本音のところかもしれない。


 結果的に、そういう私の油断が、全てを崩壊させるきっかけを作っていたのだろう。


 ほんの些細な綻びによって全てが瓦解してしまうような不安定で不確かな日常の中で生きているという自覚が、あの頃の私には欠けていた。





 五時間目の美術の授業は自習になった。長瀬先生が欠勤していたからだった。


 長瀬先生の旦那さんが自殺して、ショックで寝込んでいるらしい、という噂が流れていた。真偽は不明だった。


 が。


「何をしたの?」


「何の話だ?」


 校門前で呼び止めた私に振り返って、岸辺くんは当惑したような真顔で質問に質問を返した。


「今日、長瀬先生が仕事を休んだのは知ってる?」


「ああ、五時間目が自習だったもんなァ」


「なぜ仕事を休んだのかは、知ってる?」


「あんなのただの噂だろ」


 吐き捨てるようにそう言って、岸辺くんはポケットに手を突っ込んで歩き出した。私はすかさず岸辺くんの横に並ぶ。


「あんたが、何か手を回したんじゃないの?」


「なぜそう決めつける?」


「あんたが、長瀬先生の旦那さんを殺すしかない、とか言ってたの、忘れてないから」


「でも自殺だったんだろ?」


「……そ、それだって、ただの噂で、本当のことなんて……」


「あれは自殺だよ。だって俺は何もしてねーもん」


 悪者扱いを鬱陶しがっているだけのように聞こえる。


「俺みたいなただの高校生が、大人を一人殺して一日以上逃げおおせられるわけないだろ。もし俺が殺してたんなら、今頃ポリに捕まって、学校来てねえよ。ちょっと考えればわかるだろ馬鹿」


「……で、でも」


「芸術家なんてやってたら、ある日突然ふらっと死にたくなったりするもんなんじゃねーの。知らんけど」


 ……いや、岸辺くんは絶対に何かを仕組んでいるはずだ。岸辺くんが殺害予告をした後に急にその人物が自殺するなんて、そんな偶然があり得るわけがない。今まで三十年以上も生きてきた人間がたまたま今になって自殺を選ぶなんて、そんな偶然が。


 確かに本人の言う通り、岸辺くんは直接手を下したわけではないのだろう。


 それでも、絶対に何か、裏があるはずだ。


「ねぇ、本当に……」


 と言ったところで、岸辺くんが不意に立ち止まって足元を見た。私もつられて視線を向けると、五歳の女児がぼーっと岸辺くんを見上げていた。


「どうした? ホナミちゃん」


 岸辺くんはいつもの胡散臭い笑顔になって、膝に手を置いて屈みこんだ。


「あのね、おとうさんをさがしてるの」


 私は息を呑んだ。


「そっか。大変だね」


 岸辺くんは表情ひとつ変えずに優しい声色で、そう答えた。


「じょにーでっぷは、おとうさんがどこにいるか、しってる?」


「うーん知らないなぁ。ごめんね」


「そっか。……あのね、じょにーでっぷも、おとうさんをさがすのてつだってほしいの」


「もちろん。喜んでお手伝いしよう」


「オネエサンも、てつだってくれる?」


 ホナミちゃんは視線を移して、そのつぶらな瞳で私を見上げた。その大きな黒い瞳に私の困惑した顔が映りこんでいた。


「う、うん。手伝う、よ」


「やった! ありがとう! 二人ともやさしいね!」


 それまで無表情だったホナミちゃんは一気に笑顔になって、嬉しそうに私と岸辺くんの手を両手でそれぞれ握った。私はその笑顔を見ていられなかった。


 ホナミちゃんに真実を伝えるべき否か、私にはわからなかった。わかるはずもなかった。だから私はその責任から逃げた。


 ここで私はホナミちゃんにどういう対応をすれば良かったのか、今でも明確な答えはわからない。あれから高校を卒業して大学院まで出たのに、世の中はわからないことだらけのままだった。


「あのさ、ホナミちゃん。もう一度、お家の中をちゃんと調べてみるのはどうかな。ホナミちゃんだけじゃ調べられないところもあるだろうし」


「んー……、うん! そうする!」


 ホナミちゃんは無垢な笑顔で頷いて、私たちを先導するようにてくてく歩き始めた。またこの前と同じく、幼稚園児に道案内をされる不審な高校生の男女二人組という構図になる。


「今度は何を企んでるの?」


「ちょうどいいから長瀬先生の様子を見に行こうとしてるだけだよ。お前も気になるだろ?」


 ……そりゃあまあ、気になるけど。


「そんなの、勝手にいいの?」


「勝手じゃないだろ。ちゃんとホナミちゃんの許可取ってるんだから」


「あんたさぁ……」


 そんなのただの屁理屈だ。幼稚園児が許可を出したって何の効果も持たないだろう。


「ねぇ、そんなことより、長瀬先生の旦那さんって……」


「あのさぁ、それってお前に関係ある話なのか?」


「……い、いや、そういう問題じゃなくて」


「お前は長瀬先生の旦那に会ったことないだろ? 顔も知らないだろ? だったら関係ないよな?」


 そういう問題じゃない。理屈じゃない。


 長瀬先生にとって大事な人は、私にとっても大事な人なのだ。


「まあ、俺にも関係ない話なんだけどな。長瀬先生の旦那がどういう死に方をしようが俺には関係ない」


「…………」


 長瀬先生が好きなものといえば、絵と夫と子供だった。もっとも子供というのは子供全般が好きなのではなく、ホナミちゃん限定の話だったけど。


 だから長瀬先生は基本的に絵と夫と子供の話しかしない。絵と夫と子供の話をするときだけは目が輝いていた。その三つが長瀬先生にとってかけがえのないもので、長瀬先生の人生に絶対に欠かせないものだということは、美術部員なら全員知っていた。


 長瀬先生の一家は、話に聞く限りでは、それこそ絵に描いたように幸せそうな家庭だった。毎週のように家族の思い出を残しているようだった。休日に家族以外の人と過ごすという選択肢が初めから存在しないようだった。あの家族だったら、日曜日の昼間に居間に三人で集まってぼーっとテレビを眺めているだけでも、それが一つの素敵な思い出となってしまうだろう。


 誰もが羨む、幸福で満ち満ちた家庭。そんな環境で育ったからこそホナミちゃんは誰かに元気を分け与えられるような稀有な子供に育ったのだろうし、長瀬先生もあの奇跡ともいえる美貌をいつまでも保っていられるのだろうと、本気でそう思える。


 そんな家庭が昨日、決定的に瓦解した。


 長瀬先生の夫、ホナミちゃんの父親が亡くなったことによって、完全に完膚なきまでに瓦解した。


 長瀬先生が好きなものの一つが、永遠にこの世から消え去った。長瀬先生にとって欠けてはならないものが、一つ欠けてしまった。


 光が強ければ、そこに差す影もまた暗さを増す。


 幸福が大きいものであればあるほど、それが壊れたときに現れる不幸も大きくなるのではないか。


「着いたな」


 長瀬家は、この前に初めて訪れたときと全く変わりなかった。相も変わらずごく普通の一軒家のままだった。


「長瀬先生の旦那って、この家で死んだわけじゃないよな」


 もしこの家が死亡現場であるのなら、もう少し何か変化がないとおかしいだろう。警察が出入りしていたり、黄色い規制テープが張られていたり。もう処理が全て終わって撤収した後という可能性もあるが。


「おかあさんいがいはだれもいないよ? はいって?」


 ホナミちゃんが重そうにゆっくりと玄関の扉を開けて、私たちに中に入るように促す。今日も鍵はかかっていないようだった。岸辺くんは特に躊躇することなくさっさと家の中に入っていく。私はおそるおそるおっかなびっくり緩慢に玄関の扉を開けて、家の中に入った。


 家の中は薄暗く、不気味なほど静かだった。人の気配を一切感じなかった。


「お、おじゃましま~す……」


「はい、どうぞいらっしゃ~い!」と、返事をしたのはもちろんホナミちゃんである。


 玄関周りは花瓶や芳香剤が置いてあったり、比較的落ち着いた色使いの油絵が飾ってあったりと小奇麗に整えられていた。フローリングにもざっと見た感じ目立つ埃は落ちていない。


 清潔だった。長瀬先生の見た目のように。


「ねえ、ホナミちゃん。お母さんがどこにいるのか、案内してもらってもいいか?」


 岸辺くんは既に靴を脱いで床にあがっていた。私も靴を脱いで、自分の靴と雑に脱ぎ捨てられていた岸辺くんの靴も整頓しておいた。


「なんでおかあさん? おとうさんをさがしにきたんだよ?」


「お母さんが、お父さんの行方について何か知っているかもしれないだろ?」


「うん。でもね、おかあさんね、おへんじしてくれないの」


 私はまた息を呑んだ。


「話しかけても、答えないのか?」


「そうなの。おはなししてくれないの。ことばわすれちゃったのかな?」


「……そうかもしれないね。よし、俺が言葉を思い出させてやらないと」


「ね、ねぇホナミちゃん。お母さんがいるお部屋、どこだかわかるかな?」


「んっとね、にかいの、おかあさんのへや」


「…………」


 それじゃあ私たちにはわからないんだよなぁ。


「まあ、二階の部屋の扉を片っ端から全部開ければ、どっかに長瀬先生がいるってことだろ」


 言いながら岸辺くんは既に玄関のそばの階段を上り始めていた。私も慌てて後をついていく。ホナミちゃんは階段を上らずに、どこか別の部屋へと消えていった。居間にでも行ったのだろうか。


「……長瀬先生の匂いがするぜ……」


「……気色悪い」


 片っ端から扉を全部開けるといっても、豪邸というわけでもない一般的なサイズの一軒家なので、二階の部屋数は全部で四部屋だけだった。それでも私の家より多いが。


 そして四つ目の扉、一番奥にあった部屋のベッドの上に、長瀬先生の姿を見つけた。こちらに背を向けて、壁を見つめるような体勢で横たわっていた。カーテンが閉め切られた、薄暗い部屋だった。


 私は咄嗟に口を開いた。が、まるで金縛りに遭ったように、喉から声が出なかった。言うべき言葉はいくらでもあった。こんにちは、大丈夫ですか、お邪魔してます、元気ですか、私でよければ頼ってください。しかしそのどれもが、かけるべき言葉であるのと同時にかけるべきではない言葉に思えた。だから、喉が上手く震えなかった。


 急に、職場の生徒でしかない私たちが家に押しかけてきて、迷惑以外の何でもないだろうし。


「……こんにちは」


 沈黙を破ったのは岸辺くんの低い声だった。長瀬先生はぴくりとも反応しなかった。そりゃあそうだ。実の子供であるホナミちゃんの言葉に反応しないのだから、無関係でなんなら嫌ってすらいる岸辺くんの言葉に反応するはずもない。


「…………し、心配、しましたよ」


 今度は私が言った。岸辺くんが沈黙を破ったことで喉が動きやすくなった。もし岸辺くんが黙っていたら私もずっと黙っていたままだったわけで、情けない。


 長瀬先生はその丸い背中を私たちに向けたままで、動かない。


「先生。何があったのか、俺たちに話してみてくれませんか」


 ちゃきん、という金属音が、突如室内に響いた。


「…………私は死にたくない」


 いつもの長瀬先生の綺麗な声だった。しかしその声は綺麗で滑らかだったからこそ、より長瀬先生の感情が如実に表れているような、痛々しい声色だった。


 ちゃきん、と、また金属音が響く。


「私は絶対に死なないの。死なないから。死にたくないから。私は死なない。死ねない」


 譫言のようにそう呟いている長瀬先生をよく見ると、手元に裁ちばさみを持っていた。さっきからちゃきんちゃきんと、意味もなく空を切っている。


「私は死なない。あんたたちはいつか死ぬかもしれないけど、私は死なないから」


「……ね、ねぇ、やっぱり今日は帰ったほうがいいんじゃない……?」私は少し背伸びして岸辺くんの耳元に口を寄せて小声で囁いた。岸辺くんは一歩も退こうとする様子がない。


「……死んだら、また旦那さんに会えるかもしれませんよ」


 は、と声が出そうになったところで、長瀬先生がむくりと身体を起こして、こちらを見据えた。なんというか、身体中の何もかもが荒れ果ててしまったような表情をしていた。瞳がきらりと赤く光ったような気がした。


「……真希ちゃん。その子を私に会わせるなって、私言ったよね?」


 刺すような冷たい声で、長瀬先生は言った。


「岸辺くん、や、か、帰ろう……」


「しんだらおとうさんに会えるの?」


 そこで、私たちの背後の扉がきぃっと少し開いて、そこからひょっこり女児の顔が現れた。


「しぬってなに?」


「ほ、ホナミちゃん……」


 もう何をどうすればいいか何もわからなくなってきた。


 とりあえずホナミちゃんを部屋から追い出して、そのついでにどさくさに紛れて私もこの家から出て行ってしまおうかとか思いながらホナミちゃんの背中を押していたら、背後から肩を掴まれた。


 裁ちばさみを持った長瀬先生が立っていた。


「私の子に触らないで」


「あ……は、あ、え……す、すみま、せん……」


 私は情けなくも反射的に両手を上げて降参のポーズをとって、長瀬先生から必死に目をそらしながらホナミちゃんから離れた。


 長瀬先生はなにやらただならぬ様子でホナミちゃんを見下ろし、対するホナミちゃんは無表情でぼーっと長瀬先生を見上げている。岸辺くんはその二人を険しい顔つきで窺っていた。そして私は、緊張で早まった心臓の鼓動を抑えて何もできずにいた。 


 ここで私は、怖気づいて何もできず立ち尽くしているべきではなかったのは、当時高校一年生の私にもわかっていた。岸辺くんは何を考えているのか全く分からないし、ホナミちゃんはまだ五歳で、目の前の母親が今どういった状況に陥っていてどういった精神状態となっているのかを推量することすらできない年齢だったのだから、私が動き出すしかなかった。


 私が動き出して、不意をついて足を引っかけて長瀬先生を転倒させて裁ちばさみを奪い取り、そしてホナミちゃんの手を引っ張って脇目も振らずに家の階段を駆け下りて外に出て、ひたすらにどこか遠くへ逃げればよかった。そうすれば、少なくともあんな、考えうる限り最悪の事態は避けることができたかもしれない。


 それでも、悲しいことにこんな後悔には何の意味もない。どうしようもなく過去は凝り固まってしまっていて、もう変えることはできないのだから。


 そのときの私は一歩も動くことができなかった、というどうしようもなく変えようのない厳然たる事実が、ただそこにあるだけなのだから。


「ねぇ、お父さんに会いたい?」


 長瀬先生はいつもの穏やかな口調だった。


「おとうさんはどこにいるの?」


「お父さんは、もうこの家にはいないのよ」


「おうちにいなかったら、どこにいるの?」


「そうね。ここからものすごく遠い場所。何年かかってもまだまだ到底手が届かないような、途方もなく遠い場所に行っちゃったの」


「もう、おとうさんにあえないの?」


「いや、会えるよ。お母さんと一緒に、一瞬でその遠い場所に行ける方法があるの」


 私は必死に、泣きそうになりながら、長瀬先生の腕を掴もうと手を伸ばしていた。


「俺は長瀬先生に生きていてほしいですよ」


 岸辺くんは落ち着いた口調で言った。岸辺くんがこのとき何を考えていたのかは今もひとかけらもわからないし、わかりたくもない。


「違う。私は死なないわ。ただ遠い場所に行くだけ」


 結局、全部私が悪かったのかもしれない。私がホナミちゃんと岸辺くんを家に連れてきたから、こんなことになってしまったのかもしれない。私があの日、欠勤していた長瀬先生のことなんか考えずに、岸辺くんのことも無視して、いつも通り真っ直ぐ家に帰っていればこんなことにはならなかったかもしれない。


 しかしこんな急展開を予想することは、私にはできなかった。


 この場に至っても私は、この状況を少しも理解できていなかった。何か普通ではないことが起きている、という程度のことしかわかっていなかった。


 岸辺くんが裏でどういう手の回し方をしていたのか全く把握できていなくて。


 長瀬先生の考えていることなんて、大人の考えていることなんて、わかるはずがないのだと浅く割り切っていて。


 それは私が長瀬家に足を踏み入れてからほんの数分後の出来事で。


 そんなことに対応できるはずも、なくて。


 いや、今更言い訳を並べたところで何かが変わるわけでもない。


「私たち三人家族は、絶対に離れちゃいけないんだ。一人でも欠けてはならないんだ。ずっと三人で肩を寄せ合って生きていこうって、約束したんだから」


 そもそもこの事件は、私とは無関係のところで進んでいたものだった。


 これは岸辺くんと長瀬家を巡る事件であって、舟木真希という人物はずっと蚊帳の外にいたのだ。


 たまたま、その場その瞬間に私が立ち会っていただけで。


 しかし、そんな考え方ができるほど、私の精神は図太くなくて。


「あなたは少しの間目を閉じているだけでいいの。私もすぐに後を追うから、勝手に一人で先に行っちゃだめだからね。ちゃんとお母さんのこと待ってなきゃだめだからね。ちょっと痛いかもしれないけど、我慢してね」


 長瀬先生の振り上げた裁ちばさみが、鈍く銀色に光った。


「な、長瀬先生、やめて、ください! やめろ! 生きて!」


 私は最後に、力を振り絞ってそんな言葉を発していたかもしれない。後になって私が無意識に罪悪感を軽減するために後付けしたのでなければ、長瀬先生は私のその声を聴いたはずだった。


 長瀬先生に本気で恋していた私のその言葉を、長瀬先生は聞いたはずだった。


 そのとき、視界が激しく明滅した。それはあまりにも白く眩しい光で、そのまま眼球が焼けて失明してしまうのではないかというほどの強い光で。


 私はその決定的な瞬間に、目を閉じていた。


 だから、私が次に目を開けたとき、何がどうなってそんな状況になったのか、すぐに理解することはできなかった。後になってみても、正確に理解することは難しい。

私はゆっくりと徐々に目を開ける。


「…………」


 どくどくと腹から血を流す長瀬先生が倒れていた。


 鮮やかな血を上半身に目いっぱい浴びた岸辺くんが、血液の滴る裁ちばさみを持って、呆然と立ち尽くしていた。


 そしてその隣に、顔面を自分の母親の血で真っ赤に染めたホナミちゃんが、その真っ黒な瞳で、長瀬先生の倒れた姿を見下ろしていた。髪の毛先から、ぽたぽたと血が滴り落ちていた。


 当然のように吐き気を催す。


 その場にへたり込んで、フローリングの溝を流れてくる長瀬先生の血液から逃げるようにどたどたと後ずさって、口を押さえる。


 私はその光景を理解することができなかった。いや、その光景を決して理解してはならないことを本能的に悟っていた。


「鉄の臭いがするな……」と、岸辺くんが呟いた。


 完全にこいつは気が狂っている、と、その言葉の意味を理解して感想を述べることができるような精神的余裕がそのときの私にあるはずもなく、私はとめどなく溢れる涙を流しながら、ただただ口を押さえていた。目を閉じてその光景から逃避するという思考すら抜け落ちていて、私は何も考えずにずっとその光景を見つめていた。


 だから、その光景が脳裏に焼き付いてしまった。忘れたくても忘れられなくなってしまった。


 私が、動き出さなかったせいで。私が、岸辺くんと向き合わなかったせいで。


 私が何か手を打っていれば、この惨状は回避できたはずだった、と。


 私は何度も思い出すことになる。


 この光景が、私のその後の人生を全て決定づけることになる。


「……ああ、しんじゃったな」


 それがホナミちゃんの言葉だったのか、長瀬先生の最期の言葉だったのか、永遠にわかることはない。




 そのあとのことは当然の如く覚えていない。気が付いたときには私は普通に学校生活を送っていた。私はものすごく驚いた。あの状況から急に、昼間の教室の数学の授業に飛ばされていたのだから、そりゃあ驚くだろう。


 はっと気づいて岸辺くんの席を見ると、やはりそこに岸辺くんの姿はなく空席だった。逆に私が今こうして平然と授業を受けているのが異常なのだった。


 岸辺くんがいないとなると、私が最後の記憶として持っているあの光景は現実に起こったものである可能性が高くなる。


 放課後に美術室に行くと、鍵がかかっていた。つまり中には誰もいないということになる。なんとなく怖くて、他の部員に部活の有無を訊く気にはなれなかった。


「あの、すみません。長瀬先生って、どうなったのか知ってますか?」


 帰り際、昇降口のそばの花壇で、緑色の大きな如雨露で花に水やりをしていた上級生に話しかけた。それまで何の関わりもなかった人にそれとなく尋ねるのが、私が一番踏ん切り良く真実を知ることができる方法だと考えた。


 背が高くすらりとした体形の女子生徒は如雨露を傾けるのをやめて、無表情でこちらを振り返った。その女子生徒の黒く大きな瞳は、あの元気で明るい女児に似ているところがあった。


「……あなたは、長瀬先生の何?」


「…………えっと」


「長瀬先生は殺されました。この学校の、悪逆非道な男子生徒によって」


 女子生徒は私が答えるよりも先に、無感情にそう言って、花に水をやるのを再開した。


 そうして私は呆気なく、真実を知った。現実に起こってしまった変えようのない出来事を、知った。


「そうですか。ご親切に、どうもありがとうございます」


 私はできるだけ明るい声色で、品の良い笑顔を浮かべて言った。


「いいえ」


 女子生徒は私に背中を向けたままで答えたので、私の笑顔を見ることはなかった。それでも私はしばらくの間、笑顔のままだった。


 意識的に微笑むのは、ずいぶんと久しぶりのことだった。


 



 あのときに私は、ただでさえ不透明であった自己という存在を完全に見失ってしまったのだと思う。


 高校一年生のときから私はずっと、分厚い猫を被って生きてきた。高校一年生のときから私は、笑顔で明るく、あたかも幸福であるかのように装って生きてきた。


 笑顔で明るく、人当たり良く、欺瞞に染まった幸福を振りまいて、生きてきた。


 それが私なりの贖罪だった。


 あのとき長瀬先生の死を退けられるのは私しかいなかった。私だけが唯一、あのときに長瀬先生と岸辺くんを止めることができた。それでも私は止めなかった。止めようともしなかった。


 長瀬先生はちゃんと死んでいた。あの後救急車がやってきて応急処置が間に合って、多少の後遺症は残るものの奇跡的に一命はとりとめた、というようなご都合主義的展開は起こらなかった。裁ちばさみで腹を刺されれば、人はちゃんと死ぬ。


 岸辺くんはあの後どうなったのかわからない。とりあえず高校を退学になったということだけは確かなようだった。岸辺くんの今後の人生がどうなっていくのか、私には想像すらできない。


 そしてホナミちゃんは。


「だ……、だれ、ですか……?」


 ふと長瀬家の様子を見に行ったときに、玄関前でばったり出くわした。私が家の前に着いた瞬間に、家の扉が開いてホナミちゃんが出てきた。


 ホナミちゃんは足と肩を震わせて顔を伏せて、私に対してものすごく怯えているようだった。そして私のことを完全に忘れていた。ホナミちゃんからすれば私なんてものすごく印象に薄い人物だろうから、忘れていても不思議ではないけれど。


 いくら五歳の女児が記憶にない高校生に会ったからといって、知らない人に注視されていたからといって、そのあんまりな怯え方は、異常だった。


「……な、なんでもないよ~」


 私は笑顔でそう言って、その場を立ち去った。途中で振り返ると、ホナミちゃんが足を震わせたままで睨むようにこちらを窺っていた。私の姿が見えなくなるまで、ホナミちゃんはそうして警戒態勢を解かなかっただろう。


 かつての明るい人柄は、そこにはなかった。


 それでも、ホナミちゃんが、両親が二人とも死んでしまった今もあの家に住み続けているということはわかった。まさか五歳児が一人暮らしなんてするはずがないから、親戚か何らかの繋がりのある保護者と住んでいるのだろう。


 それだけ確認して、私はその場を立ち去った。


 私だけが、何の変化もなく、いつも通りの日々をのうのうと生きていた。


 長瀬先生やホナミちゃんが生きたかった、平穏で平静で幸せな世界に、私だけが留まっていた。


 だから私はその世界を存分に楽しむことにした。そうしていないと失礼だと思った。長瀬先生が死んでも手に入れたかったものを私が手にしているのに、それを持て余して、以前までと同様につまらなさそうな顔をしてこの世界を生きていくのは、長瀬先生にものすごく失礼だと思った。


 そうして私は笑顔で高校生活を送った。途中、様々な嫌で辛くて面倒なことが起こった。それに比べて心から楽しいと思えることは少なかった。それでも私は何でも楽しもうと努力した。そうしたらより楽しくなくなってしまったけれど、楽しい振りをした。そんな三年間だった。


 大学生活も高校生活と同じく、心から楽しむことはできなかった。それでも楽しそうに振舞った。きらきら輝いた華やかでオシャレな女子大生を演じた。そうして、あっという間に時は過ぎさって、私は大学院を卒業して仕事に就いた。大学院まで出たにしてはあまり収入の良い仕事とは言えなかったけれど、私は文句ひとつ言わずにいつも笑顔で働いた。仕事柄、変人奇人のクライアントと接することが多かったが、私は笑顔を絶やさなかった。


 この十一年間、外面を取り繕う技術だけが洗練されて、内面の精神は全くと言っていいほど成長しなかった。


 だから私は今でも、皮を一枚剥ぐだけで、いつでも高校一年生に戻ってしまう。







 その人はいつも、顔のどこかに絆創膏を貼っていた。まるでやんちゃな少年のようだった。


 私とその人が、まだそこまで関係の深くなかった頃に、私はその絆創膏の理由を尋ねた。するとその人は照れたように苦笑いをして、「いつも飼い猫に引っ搔かれるんですよ」と答えた。動物に嫌われるような人には見えなかったので意外だった。「へぇそうなんですね」と相槌を打っただけで、私はそれ以上訊かなかった。


 その内、私は自然な流れでその人と付き合うことになった。あまりにも自然すぎて違和感がなくて、自分でも驚いた。本当に相性の良い運命の人とは、案外こんな風に、特にドラマチックな展開もなく自然に惹かれ合うものなのかもしれない。


 そうしてその自然な流れは止まることなく、私はその人と婚約した。


 そんなある日のことだった。


 最近、その人は毎日大きな四角い絆創膏を貼ってきていたので、さすがに猫だけでそこまで大きな傷ができるわけがないだろうと疑問に思って、また何か新しいペットでも飼い始めたのだろうかと予想しながら、私は改めてその絆創膏の理由について尋ねた。


 するとその人は真剣な顔で、答えた。


「……前に、姪と同居してるって言っただろ。その姪がさ、夜になると暴れるんだよ。これはそのときに姪につけられた傷。うちは猫なんか飼ってない」


 まるで夜になると村で人狼が暴れだすような言い方だった。すぐには話を理解できなかった。


「姪は精神の病気なんだ」


「……それって、姪の子は無意識にやってるの?」


「わからない。朝になると、夜に暴れていた記憶はなくなっているみたいだけど」


 こうしてその人の絆創膏の謎は解けたわけだけど、いまいち腑に落ちなかった。そんなやばい子供を家に抱えているのに、この人は暢気に私と結婚なんかしていて大丈夫なのだろうか。


 そして、その私の婚約者の姪の、精神の病気を抱えている人の正体が長瀬保奈美だった。私の婚約者はホナミちゃんの母方、長瀬先生の弟で、長瀬姓ではなかったので、そんな偶然は考えもしなかった。


 ホナミちゃんは長瀬先生に似て、美人に育っていた。しかし、学校ではそれほど話題にはなっていないようだった。最近の高校生は見る目がない。


 私がサトルさんと結婚したからには、ホナミちゃんの保護者としての責任の一端を負うことになる。そういう自覚はあった。そういう自覚を持って、私はホナミちゃんに接しようとしていた。


 しかし私には、一人の子供の保護者なんていう責任は重すぎたのかもしれない。だって私の精神は未だに高校一年生のままなのだから。高校二年生のホナミちゃんよりも、私は未熟だったのだ。


 いや、そんなこと、ただの言い訳でしかない。


 結局私は今回も、動き出すことができなかった。何らかの手を打つことができなかった。何も気づくことができなかった。


 私はあまりに未熟だった。あまりに愚かだった。あまりに迂闊だった。本当に少しも成長していなかった。


 だから、ホナミちゃんは私の目の前で、精神と物質の狭間へと旅立っていった。





 やっぱり男のキスはまずい。ゲロの味がする。


 私が口を離すと、マコトくんは喉を押さえて過呼吸になっていた。女の子とキスしたあとに顔を青ざめるなんて、男としてどうかと思う。


 そして私は、マコトくんの上下する胸の上で泣いた。大人げなく泣いた。そもそも私は大人になれていなかった。


 するとマコトくんは私の頭を撫で始めた。二十七歳が高校二年生にあやされていた。死にたくなった。


「私はね、本物のクズなんだよ」


 その後、マコトくんと二人で学校の外に出て、私がマコトくんの手を引いて、二人で学校近くの川沿いを歩いた。ランニングをしていた六十代くらいのおじさんとすれ違った。


「私は本当にどうしようもなくて、自己中心的で、臆病で、卑怯で、脆くて、何もできない軟弱者なんだ」


「……そうなんですか」


 最初、マコトくんは内気な子だと思っていた。しかしこの子は、内気というわけではなかった。他人と深く関わるのが怖いだけで、浅くなら、誰とでも関わることができる。ただ、相手の内側の深い場所を知ること、また、相手に自分の内側の深い場所を知られることを極端に恐れていた。だから、マコトくんはいつまでたっても嘘や建前で脚色された言葉しか使うことができない。


 私の生き方と通ずる部分があった。


「私はずっと子供のままなんだ。大人になることができない、哀れな二十七歳の人間」


「そんなこと、ないと思いますよ」


 私は靴を履いたままでざぶざぶと川の水の中に入った。そうして、水深の浅い川の中で、くるくると踊るように跳ね回った。自分が酒に酔っていることは自覚していた。


 川の水面が夕陽を反射して煌めいていた。


「アッハハハハハハハハハ! もう生きるのやめていいかなぁ?」


 マコトくんは、川でみっともなく水遊びをする成人女性の姿を冷静に見つめていた。


「あなた以外に、あなたの死を望む人はいませんよ」


 私は辺りが真っ暗になるまで、川で水遊びをしていた。数年ぶりに心の底から楽しめた。何が面白いわけでもなかったが、心の底から笑った。幸い誰にも通報されることはなかった。自分が若い女で良かったと思った。


 マコトくんは私が全身びっしょりになって川を上がってくるまで、土手に座り込んで私の様子を眺めていた。それは私を監視しているようでもあった。


「もう、帰りますか?」


「………………帰る」


 私たちは二人でタクシーに乗った。全身ずぶ濡れの成人女性と制服姿の男子高校生という異様な組み合わせに運転手は少し面食らっていたが、特に何か尋ねてくることもなく、安全運転で私たちをそれぞれの家まで運んでくれた。もちろん代金は全額私が払った。


 その翌日から、マコトくんは用もないのに、頻繁にカウンセリング室を訪れるようになった。


 今日はクラスでこんなことがあったんだとか、最近観た映画にこんな台詞があったんだとか、知らない女子に告白されて困っているんだだとか、自分の友達がどんな人間なのかだとか、そういう、幸せな家庭の食卓で、小さな子供が一生懸命親に言って聞かせるような種類の話題を、マコトくんは私に話していた。何やら必死だった。ホナミちゃんの話は一切出てこなかった。


 私もその話を黙って聞いているわけにはいかないので、相槌を打ったり、私もマコトくんにはほとんど関係ないような話題を振ったりした。


 そういう、毒にも薬にもならない会話を二人でひたすら重ねた。


 時々、カウンセリング室を本来の理由で訪問する生徒が来たときは、マコトくんはいそいそと素早くカウンセリング室を出て行った。もちろん相談者の子はそのマコトくんの姿を目撃しているわけで、私とマコトくんの関係は一時期校内で噂になったりしたが、マコトくんはカウンセリング室の訪問回数を抑えなかった。私もマコトくんも、そんな噂を気にしていられるような精神の余裕がなかったのだと思う。


 そうして、私たちはホナミちゃんについて一切言葉を交わさないまま、マコトくんが卒業する日がやってきた。


 卒業式の日、カウンセリングしている内に仲良くなった元相談者である卒業生の女の子と一緒に写真を撮った後、タイミングを見計らっていたのか、マコトくんが一人で私に近づいてきた。相談者の女の子に向けていたものと同じ笑顔を、私はマコトくんに向けた。


「卒業おめでとう、マコトくん。立派になったね」


「……ありがとう、ございます」


 言いながらマコトくんは少し顔を伏せた。しかしすぐに、真剣な表情と眼差しを携えて顔を上げた。


「舟木さんが死ぬまでに僕が死ぬことはありませんよ。僕が舟木さんより先に死ぬことは、ありません」


 マコトくんは念を押すようにそう言って、軽く頭を下げて、私の目の前から立ち去って行った。私は何も答えることができなかった。


 その日を最後に、私は今に至るまで、マコトくんと一度も会っていない。

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