2/3 希望の風に乗って。

「お前の両親は交通事故で死んだんじゃあない」


 私の目の前におっさんが立っていた。いや、その男はお兄さん成分六割おじさん成分四割みたいな見た目をしていたから、おっさんというには幾分若さが残りすぎているかもしれない。


「お前の両親はなぁ、俺がこの手で、明確な殺意を持って殺したんだ」


 高校入試の帰り道でのことだった。その日は雨がしとしと降っていて、吐く息は白かった。


「……あなた頭おかしいんじゃないですか?」


 私はその背の高い男を見上げて言った。男の傘から滴り落ちる雨水が私の傘へと流れていた。


 男はにたりと口角をあげて、


長瀬ながせ保奈美ほなみ。俺のこと忘れてるのか?」


「初対面ですよね?」


 なぜ私の名前を知っているのだろう。


 腹の奥底から恐怖心がぐつぐつと湧き出てきて、私の喉を塞ぐようだった。今から全力で逃げだせば助かるだろうか。


「そうか。そうだなぁ……、俺の名前はジョニーデップだ」


 絶対に違うということだけはわかる。


「思い出せないか?」


「……わたしの知っているジョニーデップとあなたの顔は、全然違います」


「そうかぁ、そうだよなぁ……」


「…………わ、わたし、もう行くので」


 言いながら私は歩き出した。顔を伏せて、傘を手が白むほど強く両手で握って。


「お前は自分の犯してきた罪のひとつひとつを全て覚えているか?」


 私はそこで足を止めた。足を止めてしまった。止めるべきではなかった。


「罪っていうのは、法律に違反するから罪になるわけじゃない。お前が罪だと思うことは全て罪だ。その罪を、お前は全て覚えているか?」


 今まで捨ててきたゴミのひとつひとつを覚えているわけじゃないから、犯してきた罪の数も覚えていない、と昔誰かが言っていたのを思い出した。改めて今考えてみても支離滅裂だ。


「虫を殺した、物を壊した、人を傷つけた、約束を破った、人の信頼を裏切った、とにかくなんでも。お前はその遍く罪を──」


「覚えてません」


 私はきっぱりと断言した。


「そんなの、全部覚えていられるわけないでしょう。頭がパンクしてしまいます」


 人は無意識に嫌な記憶にふたをしてしまうことがあるという。自分の精神衛生を守るために、記憶を封印して、思い出そうとしても二度と思い出せないようにしてしまう。


 本当は失うべきではない記憶も、無意識のうちに封印してしまう。


「……そうか。そうかそうか。忘れたか。でもな、お前は絶対にそれを忘れちゃいけなかったんだよ」


 これは、私の喉を塞いでいるのは、恐怖心じゃない。


 これは、真っ黒な絶望。


 私が、封印した記憶は。そんな、そんなものは、そんな記憶は、最初から存在しない。


「昔、俺とお前は友達だったんだ。俺と、舟木真希と、お前」


 私は無我夢中で駆け出した。ぴちゃぴちゃと地面の雨を弾いて、マンホールに滑りそうになっても走り続けた。色とりどりの傘と様々な中学校の制服を着た受験生たちの間を抜けて、とにかく家へとまっすぐ走った。煩わしくて、途中から傘は閉じた。


 家に着く頃には、私は上からバケツを被ったように全身が濡れそぼっていた。


「はぁ……はぁ……っ」


 カバンの中まで雨水が浸水していて、持ち帰ってきた問題用紙も全て黒く濡れていた。自己採点はすぐにはできそうになかった。


 玄関のそばに置いてあったタオルを取って、テキトーにわしゃわしゃ頭を拭く。靴を脱いで靴下も脱いで、そのまま素足でぺたぺた風呂場へと直行した。


 もう受験は終わったし中学校にも無理して行く必要はないので、風邪をひいてもそれほど困ることはないのだけれど、なんとなく気持ち悪かったのでシャワーを浴びることにした。あわよくば、私の喉につっかえているものも一緒に洗い流せれば良いと思った。


 温かいシャワーを浴びていても胸の下あたりだけがずっと冷たいような、嫌な感覚がした。


 私の両親は、私が五歳だった頃、今から十年前に死んだ。


 しかし私には両親の記憶がほとんどない。朧げながら両親の姿形の記憶があるだけで、両親がどんな人だったのか、私と両親が何を話していたのか、私と両親がどういう思い出を残していたのか、ひとつも思い出すことができない。最近まで、十年前の記憶がないくらいは普通のことだと思っていた。五歳の頃のことなんてみんな憶えていないだろうと思っていた。でもそれは違うらしい。五歳の頃だったら、みんな普通に思い出せるのだ。


 なぜ、私だけが思い出せないのか。


 私が無意識に封印した記憶があるからだ。


 ……あの変質者の言葉に感化されすぎているかもしれない。ただ私の脳の機能が人よりも少し劣っているだけの可能性もあるし。


 しかし、あの男は私に声をかけて、昔お互いに友達だったとか妙なことを言って。


 単にあの男がロリコンで、なんでもいいから女子中学生に話しかけたかったのであれば、あの場には私以外にもたくさんの女子中学生がいたし、私よりもかわいい子だってたくさんいた。それなのにあの男はあえて私に声をかけて、あんな意味深長すぎて逆に意味が薄いようなことを言った。


 私は何か重要なことを忘れている。忘れてはいけなかったことを、忘れてしまっている。


 それを本当に思い出さなくてはならないのか、思い出すべきなのか、思い出す必要はないのか、私にはわからなかった。



 なんとなく高いところに行こうとしていたときだった。


「たぶん屋上の鍵閉まってるんじゃないかな」


 階下から声がしたので振り向くと、前髪が長くていかにも神経の細そうな陰鬱な雰囲気の男子生徒が私を見上げていた。私のスカートの中を覗こうとしているのかと思った。


「階段の下からじゃどうやってもパンツ見えないよ」


 という事実をなぜ私が知っているのかといえば私が日常的に女子生徒のスカートの中を覗こうとしているからではなく、豆知識としてたまたま知っていただけだ。階段の種類にもよるかもしれないが、少なくともこの学校の階段の角度では下からスカートを覗くのは不可能である。そもそもスカートを短くしている女子が少ないというのもある。


「はァ? 何言ってんの?」


 男子生徒は一気に怪訝な顔になった。


「えっと、……黒川くん、だっけ?」


 私が名前を言い当てると、黒川くんの怪訝そうな顔はより深まった。


「あー、わ、わたしは長瀬保奈美っていいます」


 テンパって言葉に不慣れな外国人みたいな喋り方になってしまう。とりあえず階段を降りて、黒川くんに近づいてみる。


「なんで僕の名前知ってんの?」


 階段の踊り場まで降りてきた私を見下ろして、黒川くんが少し高圧的に言う。黒川くんがかなり身長の高い人だということがわかった。


「……キミは、えー、不良だから。ちょっとした有名人なんだよ。気づいてないかもしれないけど」


「そこまで問題行動は起こしていないつもりなんだけどな……」


 本人はそう言っているが、黒川くんが不良と見なされちょっとした有名人になっていることは事実だ。黒川くんは授業をサボりがちだし(現に今も授業中だったりする)、遅刻してくることもままあるし、テストの点数も毎回全教科赤点ギリギリだし、どの教師とも仲が険悪だし、そのせいもあってかクラスの人間関係の中でも少し浮いている、らしい。そんなような話をこの前クラスメイトから聞きかじった。不良を積極的に学校から排斥しようとする訳のわからない独裁者的な人種はいないけど、それでも、少しサボりがちなだけの人が学年の中で話題になったりするほどに、この学校は不良が少ない。いや、少ないというかいない。


 そして、かくいう私も最近は授業をサボりがちだ。


 なんだか、何もかもがどうでもよく感じてきてしまっていた。


「屋上、行かなくていいのか?」


「いや、いいよ別に。鍵が壊れてるって噂があったんだけど、全然壊れてなかったし」


 もし屋上の鍵が壊れていなかったら、私は扉を開けて屋上に出て、容赦なく太陽が照りつけるコンクリートの上を上履きで進んで、柵に手をかけて、それで。


「長瀬は、授業出なくていいの?」


 私がなんとなく階段に座り込むと、黒川くんも私の隣に座ってきた。女慣れしている感じがしてちょっと嫌だった。


「なんか、椅子に座ってじっとしてるのが嫌になって……。黒川くん、も、授業サボってるよね?」


「あー、まあ、現代文の授業嫌いなんだよな。何言ってんのかよくわかんないし、あんなことに何の意味があるのかわからないし、何よりあの教科担任がうざい」


 現代文の先生はおっとりした若い女性の先生で、男女問わず生徒から人気がある。あの先生をうざいなんて評すのは黒川くんくらいしかいないだろう。噂通りの変な人だ、と思った。


「どうせテストには教科書の文章なんか一切出さないのに、授業で教科書の文章を読解したって意味がないと思わないか?」


 そんなこと言ったって、どうせ黒川くんは毎回赤点ギリギリなのだから関係ないじゃないか、と思ったけれど言わない。「そうかもねー」と言って私は適当に流した。黒川くんも、まさか自分の成績を知られているとは思っていないのだろう。


「最初見たとき、黒川くんは階段をひたすら歩き回って、女子が通るのを待って、それで下からスカートの中を覗こうとしてるのかと思った」


「だからそんなことするわけないだろ……。なんなんだそれ」


 本当は私は、初対面の人を相手にこんなことを言うような人間ではない。最近、何に対しても態度が投げやりになってしまって、ここで黒川くんに心の底から嫌われたって構わないと思えた。


 黒川くんより私のほうがよっぽど変な人になっているかもしれない。


「どうせほとんどの女子は下に短パンとかスパッツ穿いてるんだろ」


 黒川くんもそれなりに女子のスカートの中に興味があるのだろうか。なんとなく黒川くんは女子を好きになるような感性が抜けていそうに見えたから意外だった。初対面の同級生の女子に対して狼狽えることなく普通に会話できる男子高校生は、そもそも女子を恋愛対象だと見なしていない場合が多い。


「夏だと穿いてない子もたくさんいるよ。すーすーするのが気持ち良いんだって」


 私が言うと、黒川くんはなぜかものすごく苦い顔になった。まるで知らないほうが幸せだった事実を知ったときのような。知っていたほうが幸せになれる事実を教えたつもりなのに。


「……まあ、いいや。見る機会ないだろうし」


 ここで私が自分のスカートをめくって黒川くんにその中身を見せてあげたらどうなるんだろうとふと思った。やらないけど。


「長瀬は、授業中に屋上なんか行って何しようとしてたんだ? 青春ドラマの真似?」


 黒川くんは膝に肘をついて気怠そうに言った。眠そうな顔だった。常に生きるやる気がない人なんだろうな、と思った。


「………………ん、んー、風に当たったら気持ち良いかな、と思って」


 まさか、飛び降りようとしていた、とは言えないし。


「長瀬は髪が長いから、そんなことしたら頭が滅茶苦茶になるんじゃないか?」


「それでも気持ち良ければいいよ」


「そっか」


 そこで授業終了のチャイムがうっすら聞こえてきた。屋上への階段は校舎の隅っこにあるので、放送の音が届きにくい。


「お、もう終わりか」


 黒川くんが呟いて、少し表情が明るくなった。四時間目が終わって次は昼休みだから、なのか。黒川くんに昼休みの居場所はあるのだろうか。


「じゃ、僕もう行くから」 


「え、あ、うん」


 よっこらしょ、と言いながら黒川くんは立ち上がって、階段を降りて行こうとした。私は座ったままで、衝動的に黒川くんのワイシャツをつまんで引き止めた。


「ん? どうした?」


 黒川くんは不思議そうな顔で振り返った。その表情にどこか柔らかいものを感じて、ひょっとするとこの人はかなりモテるんじゃないか、と思ったりした。


「あ、……いや、えっと、とー……」


 目を逸らして頬を掻く。なんとなくこの時間を終わらせたくないと思って、後先考えずに引き止めてしまった。


 久しぶりに、同種の人間に会えた気がした。いや黒川くんは同種の人間じゃなくて……、一緒にいても息苦しくない、人。久しぶりすぎて不思議な感覚だった。この学校には肩の力の抜き方を知らない人が多くて、私もそんな空気にすっかり慣れてしまってずっと肩が強張ったままだった。しかし黒川くんはそんな空気を全く意に介さずに、自然に肩の力を抜いて気怠げににやにや笑っている。だから私は黒川くんの前では身体の力を抜くことができて、安心できた。初対面の異性なのに、不思議だった。


「……い、一緒にお昼ごはん、食べない?」


 黒川くんは一瞬目を見開いて、しかしすぐににやりと笑った。


「ああ、いいよ。じゃあ後で校舎裏に来い」 


 ここだけ聞くと不良が喧嘩をふっかけるみたいな言い方だった。黒川くんは実際に不良だから、本当にその可能性があるかもしれない。


「うん、わかった」


 私が返事をすると、黒川くんは滑るように階段を駆け下りて行った。


 私も立ち上がって、振り返って階段の上の屋上の扉を見上げた。その扉のまわりだけ薄暗くて埃も積もっていて、まるで別世界のようだった。


 まだもうしばらくはあの扉の鍵を開ける必要はないな、と思った。



 自分の家の中で、今まで一度も開けたことのない部屋がある。その部屋にはいつも鍵がかかっていて、その扉を開ける鍵がどこにあるのかわからない。


 小さいころから、十七歳の今に至るまで、私はその部屋に入ったことがなかった。外から窓をのぞいてみても、内側から厚いカーテンが閉め切られているので中の様子を窺うことはできない。


 絶対にその部屋の中に入ってはいけない、と言われていた。


 その部屋の中に何があって、誰がどういう用途で使っているのか、そもそも今もその部屋は使われているのか、私には何も知ることはできないけれど、大人がああいう風に入らないように念を押すということは、その部屋の中には何かしら私に見られてはまずいものがあるはずだ。


 あの部屋の中には、確実に何かがある。


 無理やりドアを蹴り破ることは私の身体能力を考慮するとできそうにないので、何らかの強力な鈍器でドアをぶち破る等の強硬策を使えば、一応私もあの部屋の中に入ることはできた。それでも私は十七年間、あの部屋に入らなかった。


 大人に言われずとも、私はあの部屋に、えもいわれぬ漠然とした根拠のない曖昧な、本能的な恐怖を感じていた。


 あの扉が視界の端に映るたびに、あの部屋に入ってはいけないという信号が頭の中で響くのだ。


 興味がないと言えば嘘になる。しかし、興味よりも恐怖が勝ってしまう。


 だが、私はあの扉の鍵を開けることになった。


 扉を開けて、部屋の中の光景を目の当たりにして、自分の過去と向き合って。


 それから。


 私はあの日、屋上から飛び降りようとしていた。



 高学歴の女性は独身率が高いらしい。だから、私が将来に素敵な殿方と結婚して、玉のような愛らしい子供を産んで幸せな家庭を築き、紆余曲折ありながらも夫と協力して子供を育て上げ、そして最終的にたくさんの家族に見守られながらぽっくりと安らかな死を迎えるためには、今は勉強を控えたほうが良いのである。という世迷言じみた考えが頭に浮かんでから、私は勉強に対するやる気をほぼ失った。もとから勉強が好きなタイプではなかったけれど。


 独身率云々の話は差し引いても、大学に進学する気は現時点ではあまりない。大学で学びたいこともなければ、大学に行かないとできないような仕事に就くつもりもない。それになにより、サトルさんにこれ以上お金を出させるのはさすがに申し訳なかった。高校だって、公立ではなく私立の高校に入学してしまったし。


 サトルさんというのは私と同居している叔父のことだ。私の両親が死んでから、母の弟であったサトルさんが私を引き取ってここまで育ててくれた。普通に考えれば当時まだ二十代半ばであったサトルさんが五歳の子供を引き取るのは何かがおかしいように思えるけれど、私の両親はほとんどの親戚との仲が最悪で、その子供である私を引き取ろうとする人がサトルさんしかいなかったらしい。だから私は一度も自分の祖父母に会ったことがない。サトルさんも会わせたくないようだった。


 サトルさんは自分でも自負するほど仕事の稼ぎが良いらしく、私の両親が遺したお金もあるのだろうけれど、私の養育費は基本的にサトルさんが管理してサトルさんが出している。保護者がサトルさんしかいないのだから当然といえば当然なのだが、それでも、サトルさんのような一人の若い男の人が私という小さな子供を高校生まで育て上げたのはかなりすごいことだと思う。


「なあ、ちょっといいか」


 なんて風に部屋のベッドに寝転んで自分の過去や未来についてぐだぐだ考えていたら、サトルさんが控えめに部屋のドアを開けた。スーツ姿のままだった。頬には痛々しい大きな四角い絆創膏が貼られていた。


 サトルさんはだるそうに歩いて、私の勉強机の椅子にどかっと腰を下ろした。私も起き上がってベッドに座る。サトルさんがこうして私の椅子に座るときは、何か話したいことがあるときだけだった。


「……あのさ、今度結婚することになった」


「えっ?」


 耳を疑った。


「えっ。えっ。え、え?」


「結婚することにしたから、来月からここに新しく女の人が一緒に住むことになる。俺の妻になる人、なんだけど……」


「え、いや、急すぎるよ……」


「なんか、恥ずかしくて言いにくかったんだよ」


 サトルさんは照れたように目を逸らして頭を掻く。子供か。


「え、……え、どんな人、なの?」


 あぁ、と言って、サトルさんはポケットからスマホを取り出して操作し始めた。写真を見せてくれるらしい。


 しかし考えてみれば、サトルさんが結婚するのはなんら驚くべきことではないのかもしれない。私という実子のような存在が家にいるけれど、サトルさんはまだ三十五歳で、そして未婚だ。それにサトルさんは社会的地位も低くなく、そこまで清潔感に欠けるような出で立ちでもない。結婚適齢期の女性からしてみれば十分に優良物件と言える。私という厄介な居候もあと一年半もすれば高校を卒業することだし。


「ほら、この人」


 その写真はなんらかの集合写真の切り取りらしく、少し画像が粗かった。それでも、その人の姿ははっきりと映っていた。


 その女性は、隣にいる誰かと肩を組んで、頬の横にピースサインを置いて、楽し気に笑っていた。


 明朗な笑顔だった。きらきら輝いているようにすら見えた。私には一生かかっても再現できそうにない表情だった。


 ちょっと苦手なタイプの人かもしれない、と、まだ写真を見ただけなのに私はそんな印象を持ってしまった。


「明るそうな人、だね」


「それは大学時代の写真らしいけど、今でもあんまり見た目は変わってないよ。髪型も髪の色も変わってないし」


 どうしてわざわざ大学時代の写真を引っ張り出して見せたのだろう。サトルさんと二人で撮った写真とかはないのだろうか。些細なことだが妙に気になった。


「ど、どれくらいの歳の人?」


 ここで職業ではなく歳を聞いてしまうあたり、私はまだまだ子供なのだろうと思った。


「今二十七歳だから、まぁ、俺と比べるとだいぶ若いのかな」


 つまり私と比べると年増ということだ。


「なんか、色んな所でカウンセラーやってるらしい」


 カウンセラーか。よく知らないけれど、なんとなく珍しい仕事だなと思った。


「名前は?」


「舟木真希さん」


 自分の結婚相手をさん付けで呼んでいることに若干の違和感を持ちながらも、そのどこかで聞いたことのあるような名前に少し動揺した。


 昔、いやかなり最近に、どこかで聞いたような気がする。


「明日、その真希さんが家に来るから、軽くでもいいから挨拶してほしいんだよね」


「あ、明日?」


「え、何か用事あったりするの?」


「え、いや、ないけどさ……」


 あまりにも急すぎる。いきなり明日、これから少なくとも一年以上は同じ屋根の下で暮らすことになる同居人と顔を合わせるなんて……。いややっぱり、こういうのは急すぎるくらいがちょうどいいのかもしれない。


 まあ、女の人だし明るそうな人だし、何とかなるだろう。


「じゃ、明日、よろしくな。あとたまにはちゃんと勉強しろよ。こんなに良い部屋と机があるんだから」


 サトルさんはその重そうな腰を上げながらそう言って、開け放たれたままだった部屋のドアから出て行った。


 なんだか嵐のような時間だった。


 サトルさんが結婚をする可能性は状況から見れば十分にあり得るものだったのに、今まで私は少しもその可能性について考えていなかった。特に根拠もなく、私がこの家を出て行くまでは新しい同居人は増えないだろうと思っていた。


 しかし別に、同居人が増えることに特に不満があるわけではなかった。もしかすれば、私に割り当てられている家事の分担を全てその舟木さんに押し付けることができるかもしれない、とかそのときの私は楽観的に考えていた。


 馬鹿みたいに、まだ何も舟木さんについて知らないのに、私は暢気にわくわくを募らせていた。


 馬鹿みたいだった。



 死後の世界を夢想することがある。


 死んだ後の世界に、天国や地獄や三途の川やらなにやらかんやら、そういう実体のあるものが待ち受けているとは思わない。


 死んだ後に行くのは、精神と物質の狭間にある闇。どこまでも無限に続く、そしてどこまでも無限に深い、闇だ。


 死んだ後に、私はその闇の中で自分で自分を抱きしめて、静かにゆったりと思う存分、絶望に浸る。現実のしがらみや不安から解放されて、目を閉じて、ただただ絶望に浸る。


 何も考えなくていい。何も心配しなくていい。何も焦らなくていい。何も不安にならなくていい。


 無限の時間に身を任せて、無限の闇の中で、無限の絶望にどっぷりと深く入り込む。


 最高だ。


 死後の世界は無だ、と言う人もいる。闇も、ある意味では無だとは言えないだろうか。黒と白、どちらが無でどちらが実体なのか。私は黒が無だと思う。


 死後の世界が無であるのなら、それは闇の世界であったらいいと思う。


 ああ、早く死んでみたいなぁ。



 通学路を歩いていると、急に片方のイヤホンが外れて、半身だけが現実世界に引き戻されたような気分になった。その外れたイヤホンを行方を探そうとすると、一昨日に見たばかりの満面の笑みを見つけた。


「おっはよ~、ホナミちゃん」


 私のイヤホンをつまんで微笑みかける真希さんに、私も曖昧な笑いを返す。


「こんな大爆音で音楽聴いてたら、鼓膜がびりびりに破けちゃうよ」


 イヤホンからは、耳から離れていてもはっきりと歌詞がわかるほどの音量で音楽が鳴っている。確かに耳から外してみると、音量が大きすぎるようだった。


 そんなに音量を上げていたつもりはないのに。


「真希さん。……えっと、おはようございま、す」


「あはは。そんなにかしこまらなくてもいいよー」真希さんは言いながら私にイヤホンを返す。「ホナミちゃん、本当にこの学校の生徒さんだったんだ。頭良いんだね」


「え、ええ、まあ。はい」


 真希さんは制服似合ってるよとか言いながら笑顔のままで私の隣に並んで、私たちは二人で高校までの通学路を歩き出した。制服の高校生しかいない道を私服の成人女性と並んで歩いていると少し目立つので恥ずかしい。


 結論から言えば、結果的に私が真希さんの写真を一目見たときに抱いた印象が覆されることはなかった。つまり真希さんは実際に会ってみても苦手なタイプの人だったのだ。常に向日葵のように明るい雰囲気を纏ってはいるが、その笑顔は心からのものではない、真希さんはそういう女性だった。


「あのさ、授業サボりたくなったらいつでもカウンセリング室来ていいからね。体育の授業とか、嫌でしょ?」


 耳がぞわっとして思わず真希さんから一歩距離をとった。真希さんが私の耳に口を寄せて、甘く囁くような声で言った。聞いた瞬間に胃がふわっと浮くような、そういう空恐ろしさを感じさせる声の出し方だった。


 私は距離をとってから真希さんを見た。明朗な笑顔だった。


「どうしたの? 顔色悪いよ?」


「……い、え、いや、その」


 私は目線を下に向けた。人の笑顔を見ただけでこんなに不安になったのは初めてだった。


 この前真希さんが私の家に訪問したときに気付いたことだが、真希さんが私を見るときの目とサトルさんを見るときの目は、何かが違う。真希さんの瞳の奥の揺らぎの質が、違うような気がする。真希さんと私が初めて顔を合わせたその瞬間、真希さんの瞳の奥がぐにゃりと歪んだのを私は見逃さなかった。その歪みが何を意味するのかは、今の私にはわからない。わかりたくもない。


 サトルさんは、私を一目見た瞬間の真希さんの様子の変わりように全く気付いていないようだった。こういう人間の表情の小さな違いは、男性にはわかりづらいのだろうか。


「ホナミちゃん、まだ私と話すの、緊張してる? 無理せず、ゆっくりでいいんだよ」


「え、い、いや、そういうわけじゃ、ないんですけど……」


 私は頬を引き攣らせて無理やり笑顔をつくる。この世には、笑顔の相手にはこちらも笑顔で応対しなければならないという暗黙のルールがある気がする。


「あ、そうだ! 今度さ、私とホナミちゃんの二人でどっか遊びに行こうか!」


 何かを閃いたときに本当に握り拳で手のひらを叩く人を現実で初めて見た。


「えっ。え、なんでですか」


「なんでって、そりゃあ、これから一緒に暮らすことになるんだし、せっかく女の子同士だし、もっと仲良くなっておきたいから」


 真希さんは人の良さそうな笑顔で言う。その笑顔には邪悪な思惑なんてひとかけらも含まれていないように見えた。


「どう? 嫌なら別に、全然断ってもらって構わないけど」


「い、え、いいですよ、行きますよ。はい」


「ホントにぃ~? よーし、ホナミちゃんから敬語が抜けるまでは絶対帰さないぞ~!」


「はは、は、ははは」


 それから私と真希さんは、適当な雑談をしながら高校までの道のりをともに歩いた。といっても私は相槌を打ったり笑ったりしていただけで、主に真希さんがずっと喋っていた。その間、私は一度も真希さんと目を合わせなかった。合わせることができなかった。


 生きた心地がしない朝だった。



「…………あ」


 数学の授業中だった。ある生徒が先生に指名されて黒板に解答を書き移しているとき、暇だったので窓の外を眺めていると、校門のあたりに私の新しい同居人の姿を見つけた。


 真希さんと黒川くんが、授業中なのにも関わらず外に出て、なにやら楽しそうに話しながら歩いていた。


「……なに、してるんだろ」


 右手のシャーペンをふらふら揺らして左手で頬杖をついて、窓の下の地面を歩く二人の姿を見下ろす。この階からだと、二人の姿は虫のように小さく見えた。


 やがて二人は閉め切られていた校門を少しだけスライドして、その身体を滑らせるようにしてこっそりと学校の外に出た。白昼堂々、無断で学校外へと出て行った。いや無断かどうかは知らないけど。


「どこ行こうとしてるんだ……?」


 そこで指名された彼が黒板のチョークを置く音が授業中の静謐な教室内に響いた。私はしぶしぶ首を黒板のほうへ向きなおして、ノートの上にシャーペンを滑らせる。書き終わった後にまた窓の下を見ると、真希さんと黒川くんの姿は跡形もなく消え去っていた。校門も、いつの間にか閉め切られた状態に戻っていた。


 幻、ではないよな。


「あの二人、知り合いなのかな」


 真希さんはこの学校に勤めているカウンセラーで、黒川くんはこの学校に通っている生徒なのだから、二人が接点を持っている可能性は十分にありえる。それに黒川くんは、最近はかなりましになったとはいえ、私が黒川くんと出会った頃、私と黒川くんが一年生だった頃は、黒川くんのサボり癖はそれは酷いものだった。だから、もしも黒川くんのサボり癖が再発して、学校にサボり場所を見つけるため藁をも掴むような思いでカウンセリング室に赴いたのであれば、あの性格の真希さんはサボりを容認して容易く黒川くんを受け入れるだろうし、黒川くんもそれに簡単に甘んじることだろう。サボり癖のことを考えれば、黒川くんは他の生徒よりも真希さんと知り合いになる可能性が高いと言えるのかもしれない。


 まあしかし、考えようによっては、真希さんが黒川くんと行動をともにしているというのは、真希さんがちゃんとこの学校のカウンセラーとしての仕事をしているという証左なのかもしれない。カウンセラーの仕事が具体的にどういうものなのかなんて知らないけれど。


「あ、お弁当どうしよう……」


 それから二十分ほど数学の授業が進んだ後で、私は昼食のことに思い当たった。お腹がすいたのではない。


 黒川くんがもう学校に戻ってこないのであれば、私が黒川くんのために作って持ってきたお弁当が無駄になってしまう。それはあまりにもったいない。


 どうしよう。


「…………」


 まあ、サトルさんの今日の夕食にでも回せばいいか。


「…………はぁ」


 大きくため息を吐いた。


 それから私は足を組んで頬杖をついて、教壇から見ればさぞ悪く見えるであろう授業態度でその後の授業を受けた。大学に進学するつもりがないのに、自他ともに認める進学校であるこの学校の授業を受けるのは、あらゆる行為のなかでもかなり無意味な部類に入るだろう。それでも高校を卒業するためにはこの授業を受ける必要がある。


 ふあ、とあくびを漏らす。


 私もカウンセリング室に行っておけば良かったかな。


 授業が終わった後で、クラスの友達から、隣のクラスで無断欠席した人がいるらしいことを聞いた。たぶん黒川くんのことだろうなと思った。私は苦笑しながら友達の話に相槌を打った。


 今日の昼食は一人で食べなければならないと思うと、憂鬱だった。


 

 勉強ができるから無知ではない、という等式は成り立たないと思う。たとえ高校の教科書の内容が全て頭に入っていたとしても、その人は無知であることがありうる。


 この世界を生きていくうえで本当に重要なのは高校の勉強なんかじゃない、ということをちゃんと理解していない人が、この学校には少なからず存在する。社会に出てから高校の勉強が何の役にも立たないという事実はみんな知識として知っているが、みんな心の奥底で『勉強さえしていればなんとかなる』という意識がある。勉強ができれば何でも解決できると思っている。


 そういう人は、とても幸せだ。


 つまりそういう人は、本当に何でも勉強で解決してきたのだ。その人の人生には、勉強で解決できるような事柄しか登場してこなかったのだ。人に認めて欲しかったら勉強すればいい、人を見下したかったら勉強すればいい、将来の不安を取り除きたかったら勉強すればいい。そんな風にして、なんでも勉強で解決してきた。


 それでも、そういう人の人生にももちろん、勉強で解決できない事柄は一応存在していた。存在していたけれど、その人自身がそれを事柄として認知していないのだ。それを、解決しなければならない事柄として認知するまでもなく、そういう人は無意識にその事柄を解決してしまう。だから、そんな事柄は最初から存在していないのと同じなのだ。そうやって、認知しなくてもいいものを認知しないままで生きていくことができるから、勉強でなんでも解決できると思い込む。何も認知せずに無知のままでいれば、そう思い込むことができる。


 私は、そういう、煩わしいものを煩わしいものとして扱わないような人生に、憧れていた。


 今となってはもう、やり直せない。



 放課後になって校門から学校を出ようとすると、後ろから肩を掴まれて、私の身体は一瞬びくっと震えた。我ながら情けない身体だった。


「今から遊びに行こうか!」


 聞き覚えのある声だったので振り返ると、笑顔の真希さんが立っていた。この人は話しかける前に人の身体に触れる癖でもあるんだろうか。


「えっ、今からですか?」


「この前一緒に学校行ったときに、今度一緒に遊びに行こうって話してたでしょ? だから、今」


 だから今なんて言って、なぜ今なのかの説明がないけれど。


「い、今は……」


「何か先約があるの?」


「いや、ない、です、けど」


 個人的に苦手だと思っている相手と二人だけでどこかに出かけるには、それなりの心の準備というものが必要になってくるのだけど……。


「じゃあいいよね!」


 言って真希さんは私の手を握って引っ張りながら歩き出した。年齢を感じさせない、柔らかくて温かい手の平だった。


 私は引っ張られるままに歩き出す。


「あ、あの! どこ行くんですか?」


 私が真希さんの隣に並ぶと、真希さんは私の手を握り直した。


「それは行ってからのお楽しみ〜」


 言いながら真希さんは私と繋がった腕をぶんぶん振り始めた。


 腕の付け根が痛い。


「ちょ、ちょっと」


「あ、ごめん。テンション上がっちゃって」


 真希さんは急に腕を振るのをやめた。私は勢いを殺し切れずに前につんのめってすっ転びそうになった。


 この人の行動の乱高下にはついていけない。


「…………あのさ、ホナミちゃん」


 それからしばらく無言で歩いた後で、さっきとは打って変わって落ち着いた声色と微笑みで、真希さんは言った。


「昨日、マコトくんと一緒にお昼ご飯食べてたよね」


「え? ま、まあ、はい」


 マコトくん、というのは黒川くんのことかな。確か下の名前がそんな風だった気がする。というか、私が一緒にお昼ご飯を食べる相手は、黒川くん一人だけだ。


「あのお弁当って、ホナミちゃんが作ったの?」


「そうですよ。私が二人分、作りました」


 一昨日は黒川くんが真希さんと一緒に学校から逃亡してそのまま帰ってこなかったので、昨日、私は初めて黒川くんにちゃんとしたお昼ご飯を食べさせてあげた。いつもあの変なパンを食べていた反動からか、黒川くんはとても美味しそうに私のお弁当を食べていた。そして今日も、私がお弁当を作って、それを黒川くんが食べた。


「へえ、ホナミちゃんお料理上手なんだ。羨ましいな」


「真希さんは、料理しないんですか?」


「私もね、できないわけじゃないんだけど、あんまり上手ではないかな」


 まあ私も、自分で自信を持てるほど上手いわけでもない。ただ人から言われたら否定しないというだけで。


「ホナミちゃんは、マコトくんと仲良いの?」


「仲は、良いですよ。普通に、友達です」


「どのくらい仲良いの?」


「どのくらい、って……」


「ホナミちゃんはマコトくんに対して、どの程度のことまで話せるの?」


 なんとなくカウンセラーっぽい質問だと思った。いやカウンセラーにしては聞き方が直接的すぎるかな。


 どの程度まで話せるか。黒川くんは友達だと言っても、所詮友達は友達で他人でしかなく、肉親でも幼馴染でもないので、当然、私のことについて私が黒川くんに話していることよりは、まだ話していないことのほうが多い。それに黒川くんにはどこか遠慮したところがあって、いつも二人きりで昼食を食べる仲なのに、ほとんど私という人間の内部に立ち入ってこない。本当は私に一ミリも興味なんかないんじゃないかと思わせられることもある。


 黒川くんとは付き合いが長いだけで、距離は全然縮まっていない気がする。


「……どの程度って言われても、よくわかんないです」


「じゃあ質問を変えようか。もしホナミちゃんがなんらかの事情で人生の岐路に立たされたとして、そのとき、黒川くんに相談したりする?」


「……しない、と思います」


 現に今も、私は黒川くんに何も相談していない。黒川くんは何も訊いてこないし、私も何も言わない。黒川くんが私の抱えているものに気づいているのかはわからないけれど。


「じゃあ、私には相談してくれる?」


「え」


 この人はなんて残酷な質問をするんだろう。


「……す、するんじゃないですかねー」


 私は目を逸らしながら曖昧に答えた。こう答えるしかなかった。


「そっかぁ、私はマコトくんよりも上かぁ」


 そうは言ってないのに。


「マコトくんは、ホナミちゃんともっと仲良くなりたいみたいだったよ?」


「え?」


 どういう意味だろう。あの黒川くんが。最初に適切な距離感まで一気に歩み寄って、その後は一切距離を縮めようとしないあの黒川くんが。


「ま、私のほうがホナミちゃんと仲良くなるけどねー」 


 黒川くんが真希さんに個人的に相談するようなことがあって、そのときに私について、黒川くんがそんなことを言っていたのだろうか。いやそもそも、黒川くんがわざわざカウンセリング室まで行って相談をしに行くというのは考えにくいけれど。


 黒川くんも、カウンセリングを受けに行かなければならないような実は大きな悩みがあったりするんだろうか。


「ホナミちゃんって、徒歩通学?」


「え? はい、そうですけど」


「そうだよね家から近いもんね。じゃあ切符買わなきゃだ」


 と、そこで、真希さんが駅に入って行こうとしていることに気付いた。いつの間にそんなに歩いていたのか。


「いや、あの、そんなに遠いところは……」


「大丈夫だよ、そんなに遠くないし、帰りはちゃんと送ってあげるから」


 言いながら真希さんは片手で機械を操作して、私の分の切符を買った。


「じゃあ、行こうか」


 この駅は主にうちの高校の電車通学組が利用していて、放課後になった直後の今は列に並ぶ全員が制服姿だった。その中で、成人女性とがっちりと仲睦まじく手を繋いでいる私の姿はそれなりに目立った。やたらじろじろ見てくる人もいる。


「あの子、友達?」


 舟木さんが、十メートルくらい距離のある位置で私たちをちらちら窺っている男子を指して言った。真希さんが指すと、その男子は急に何事もなかったかのようにぐいっと正面に向き直った。


「いえ、知らない人です」


「なんでめっちゃこっち見てたの?」


「……真希さんが美人だからじゃないですかねー」


「きっとホナミちゃんが美人だからだね」


 そんな会話をしながら私たちは電車に乗車した。電車内では、私たちは一言も喋らなかった。近くに溜まっていた女子高生集団がうるさくて、私もなんとなく喋る気になれなかった。


 やがて、ショッピングモールや映画館やゲームセンターやレストランが乱立する、ここら一帯でもかなり大きな駅で降車して、私たちは手を繋いだままで歩き出した。ここまで結構な距離を歩いてきたので、お互いに手汗が滲んできている。


 人が多く歩道も狭いので横並びに歩くことはできず、手を繋いだまま真希さんが前になる形で、真希さんに引っ張られるようにして歩く。そうして真希さんは不意に、とあるネットカフェの前で立ち止まった。


「……どうしたんですか?」


「今日の目的地はここです!」


「えぇ……」


 真希さんは自信満々に、腰に手を当ててそう宣言した。


 まさか、とは思ったけれど。


 ネットカフェ、か。生まれてこの方入店したことは一度もない。


 真希さんの見た目の雰囲気的に、てっきり値段が高めのアンティークで大人な雰囲気漂う喫茶店だとか、オシャレで女の子らしい雑貨屋とか服屋とか、そういう場所を想像していた。


「こういうところって、女子高生だけだと入りづらいでしょ?」


 それはそうかもしれないけれど、そもそも入りたいと思ったことがない。


 真希さんは私の返答を待つことなく手を引っ張って入店して、手を繋いだままで手際よく受付を済ませた。


 ネットカフェって、それぞれの個室に簡易的な仕切りがあるだけで、天井はなく音も他の客にダダ漏れのようなところを想像していたけれど、最近では完全防音完全個室で、しっかり一つの部屋としての機能を果たしているものもあるらしい。


 大量の漫画がささっている本棚を抜けて、真希さんが扉を開ける。


 部屋はものすごく狭かった。これが本当に二人用の部屋なのか。真希さんと私が雑魚寝したら普通に床が埋まってしまう。いや、ぎりぎり二人で雑魚寝できるスペースがあるから二人用ということなのか。


「私がおすすめの漫画取ってきてあげるから、ホナミちゃんは私の分のジュースも取ってきてくれる?」


 あ、普通に漫画読むんだ、と思ったのも束の間、真希さんはするりと私の手を離して、さっさと出て行ってしまう。がちゃりと扉が閉まって、私一人だけの空間ができた。耳鳴りがする。


 荷物を適当に放ってから、私も部屋から出た。しかしこんなところは初めて来たので文字通り右も左もわからない。とりあえず部屋の番号だけは忘れないようにしないと。


 それから私は店内の本棚の間をひたすら迷い歩いて、十数分経ったあとにようやくジュースのサーバーを見つけた。店の入り口付近にあった。時間を損した気分を拭えずに少し苛立ちながら二人分のジュースを用意して、両手に紙コップを一つずつ持って部屋に戻った。


 手を使わずに腕だけで扉を開けると、真希さんが横になってすうすうと寝息を立てていた。


「え……」


 牧歌的に安らかに気持ちよさそうに無防備に眠っている成人女性を見下ろすも、何の反応も得られない。眠っている真希さんの顔にコップの中身をぶちまけたらどうなるのだろうという悪戯な企みが脳裏をよぎったが、とりあえずコップは机の上に置いた。机の上には少年漫画が五冊平積みされてあった。これが真希さんのおすすめの漫画だろうか。真希さんはこんな男くさい漫画を読む人なのだろうか。


「…………あ、あの」


 この密室に一人でどう時間を潰せばいいかわからなかったので、真希さんを揺り起こすことにした。軽く真希さんの肩を揺らすと、真希さんはだるそうに寝返りを打って、目を擦った。


「……んー……、あ、ホナミちゃんやっと戻って来たんだ」言いながら真希さんは目を開いて、すっくと身体を起こした。「もー、喉乾いて死んじゃうかと思ったよ」


 真希さんはそう笑ったあとで、机の上のコーラをぐいっと一息に飲み干した。そんなことをしてゲップが出ないのが本当にすごい。


「その漫画、めっちゃ面白いから読んでみて」


「あ、はい」


 私は机の上の漫画を一冊手に取って、床に足を伸ばして、漫画本を開いた。


「…………」


 私は黙って漫画を読んで、真希さんは黙ったまま私の顔を凝視している。


 なぜか真希さんはじーっと、私の顔を見つめている。


 ……落ち着かない。


「……あ、あの、真希さんは、漫画読まないんですか?」


「うん。私あんまり漫画好きじゃないし」


 じゃあなんでネットカフェなんかにつれてきたんだ。意味がわからない、本当に。


「……じゃあ、もう帰りますか」


「え、いやいや、帰らないよ。ホナミちゃんから敬語が抜けるまでは帰らないから」


 本気だったのか、あの言葉。


「それにもう三時間分の料金払っちゃったし、一時間も経ってないのに帰るのはなし」


 そんなことを思うなら、その料金のもとをとるために漫画を読むなりパソコンを触るなりすればいいのに。なんで私の顔をひたすら凝視するだけなんだ。


「…………」


 真希さんはいつもの笑顔ではなく、なぜか神妙な顔で私の顔を見つめていた。この人は何が目的なのだろう。切実に今すぐ教えてほしい。


 真希さんにおすすめされた漫画の内容は、やたらとグロテスクな描写の多いバトル漫画だった。バトルシーンは基本的に何が起こっているのかよくわからないし、私はグロテスクな描写に本能的な恐怖を感じてしまうタイプなので、読んでいると少し気分が悪くなってしまった。それでも、やめどきがわからなくなるようなシナリオの面白さはあった。


 私が二巻を取ろうと机に手を伸ばすと、真希さんが横から素早く二巻の漫画本を取った。


「ホナミちゃん、こっちで読もうか」


 真希さんが自分の足と足の間のスペースをとんとん叩いた。


「え、っと?」


「ここで、私を背もたれにして読んでよ」


「な、なんでですか」


「そうすれば私も一緒に同じ漫画読めるでしょ?」


 漫画はあんまり好きじゃないんじゃなかったのか。


「ほら、女の子同士だし、これから一緒の家で住むことになるんだから、これくらい、ね?」


 私が困惑して躊躇っていると、真希さんは追い打ちをかけるようにそんなことを言う。こうなると、私がそっちに行くまで真希さんは私を促し続けるだろう。


 私は仕方なく、恐る恐る、真希さんの身体を背もたれにするようにして、真希さんの足の間に座った。真希さんの決して控えめではない胸が私の背中と接触して、真希さんの体温を感じた。


「にへへへ。ホナミちゃんの背中あったか~い」


 真希さんはふにゃふにゃした甘い声を出しながら、優しい手つきで私の頭を撫でた。


 全く漫画に集中できない。


「ねえ、サトルさんとこういうことするときってあるの?」


「な、ないですよ、そんなの」


「小さい頃とかは?」


「それもない、です」


「そっか。これからはいっぱい私に甘えていいからね~」


 真希さんが私の髪を手櫛ですくようにした。


「あ、甘えない、です。もう高校生ですし」


「ふうん。そう?」


 真希さんは私に後ろから抱きついた。身体が完全に密着する。私の肩に真希さんの顎が乗る。


「なっ、なにを」


「ホナミちゃんは本当にかわいいね~」


「はあ?」


 スキンシップをするような家族もおらず、じゃれあうような友達もいなかったので、数年ぶりにこうして他者と身体を密着させた。


 頭が熱くなってきた。指先が震える。肩が強張る。唇がわなわなと震える。


 真希さんは私の身体を両手で撫でまわし始めた。


「ホナミちゃんほど美人な人は、ホナミちゃんの他には一人しか見たことがないよ」


 漫画なんか読んでいる場合じゃなくなってきた。


 なんで、真希さんは私の身体中を触りつくすような真似をするんだろう。

 

 なんで、私とこんなに密着したがるんだろう。


 真希さんは、なんだ。


 真希さんは、何か、変だ。


 どこか、変だ。


 私のことを、特別視している。


 私に対して、何か、変な感情を持っている。


 何か、異常な思いを、私に向けている。


「ねえ、今からエッチしよっか」


「……はっ!?」


 私は一気に真希さんから離れて、反対側の壁際によった。狭い密室内なので、そこまで距離をとることはできない。


 警戒心全開で、真希さんを睨みつける。


「なっ、なんなんですか、あなたは」


「……えっ。いや、あ、その」


 真希さんは困惑したような焦ったような曖昧な笑顔になって、私から目を逸らした。若干顔色が悪くなっていた。


「ち、違うの。ちょ、ちょっとした、冗談なの。そう、じょーだん」


 絶対に冗談じゃないだろ。あんな、およそ大人が絶対に子供に向けないような甘すぎる声色だったのに。


「ね、ねぇ、そ、そんなに、怒らないでよ。ごめんね? ご、ごめん。ごめんなさい」


「あなたは、何を考えてるんですか」


 エッチしよう、なんて。


 第一に私は女だし、いや。


 真希さんは、同性愛者なのか?


 同性愛者なのに、サトルさんと結婚するのか?


「あなたは、わたしのことを何だと、思ってるんですか」


「ち、違うの。その、違うの。あまりに長瀬先生に似てるから、その、ちょっと血迷っちゃっただけで。本当に、純粋に、仲良くなりたかっただけで……」


 長瀬先生、とは。


 私はまだ高校生だけど。


 私と同じ苗字の、真希さんの恩師だろうか。それか、昔好きだった人か。


 その私と同じ苗字の真希さんの恩師が、私と顔が似ている?


「……意味が、わかりません」


「そうだよね、わからないよね。だってホナミちゃんは……、ごめん、なんでもない」


 とことん意味がわからない。私が何だ。私が何だったら長瀬先生という言葉の意味がわかるんだ。


「ま、真希、さんは、女性が好き、なんですか」


「…………………あのね」


 真希さんはへたり込むような体勢で、下を向いた。私は今になって初めて、真希さんの笑顔の裏に隠されていた、本当の表情を見た気がした。


 それは、この世の遍く苦しみを全て一手に引き受けたような、とても、悲壮感のある表情だった。


 真希さんの向日葵のように明るい雰囲気は、まるでそんなものは最初からなかったかのように綺麗さっぱり消え去っていて、そこには痛々しい闇があるだけだった。


「あのね、ホナミちゃん。ホナミちゃんはまだ高校生だから理解できないかもしれないけどね、その、自分が好きな人と、結婚したいと思う人は、それぞれ違うんだよ」


「……………」


「昔、私にも好きな人がいたの。見た目も性格も話し方も仕草も何もかもが好きだった。その人の好きなものは私も好きだったし、その人の嫌いなものは私も嫌いだった。そういう人が、私にもいたの」


 今更ながら、この部屋が防音仕様で良かったと心から思う。


 なんだか喉が渇いてきた。


「でもね、私の好きな人は、死んじゃったの。主に私のせいで」


「…………」


「そのときは本当に辛かった。私も後を追って死んじゃおうかと思った。でもそんな自分勝手なことできないよね。やっちゃだめだよね。私のせいで死んじゃったのに、私もすぐに後を追っていいなんて。あの人は全然死にたくなんかなかったのに、私のせいで死んじゃって。それなのに私だけは勝手に死んでいいなんて、虫が良すぎるよね。だから私には、生きる責任がある。あの人が生きたかったこの世界で、死なずに生きていく責任があるんだ」


「…………」


「私は笑顔で、楽しそうに、この世界で生きて居なきゃいけないの。どれだけ苦しくても、どれだけ辛くても、どれだけ罪悪感に苛まれても、どれだけ死にたくなっても、どれだけあの人に会いたくても、私はこの世界で生きていなくちゃいけないんだ。私は幸せに、真っ当にこの世界で生きる責任がある」


 ……何の、話だ、これは。


 この話がどうなったら私に性欲を向けることになるんだ。


「私にとって好きな人っていうのは、あの人以外にいないの。あの人は女性だったけど、別に女なら誰でもいいってわけじゃない。ホナミちゃんだって男なら誰でもいいわけじゃないでしょ。だから、そういうこと」


「…………」


「私はホナミちゃんに恋愛感情を持っているわけじゃないから、安心して」


 ……いや、安心できるわけないだろ。


 エッチしよう、なんて言ってたのに。


 恋愛感情は持っていなくとも性欲は持っているんじゃないのか。


「だから、とりあえず、今日のことは、水に流してくれないかな?」


 何かに怯えたような弱々しい笑顔で、真希さんはおっかなびっくりといった風にこちらを窺う。


「ホナミちゃんと仲良くしたい気持ちは変わらないの。もちろん、友達として、親戚として、家族として、だよ?」


「……それは、わかります」


「その、この件でホナミちゃんと気まずくなるようなことは、できるだけ避けたいんだ。だから、明日からも、私には変わらず接してほしいな~、なんて」


「……わ、わかりました。私も、気まずくなりたくは、ないですし」


「本当に!? わーホナミちゃんは偉いねー! 精神年齢たかいたか~い」


 言いながら真希さんは私の頭を撫でようとして、しかしその手は空中で止まり、そのまま私の頭に到達することなく戻っていった。


 真希さんが遠慮してるじゃないか。


「……今日は、もう帰ろうか」


「そうですね」


 私は荷物を纏めて、真希さんは漫画本を元に戻して、ネットカフェから出た。外はまだ太陽が落ち切っておらず、だいぶ明るかった。


 真希さんは約束通り、私を自宅の最寄り駅、つまり最初に乗った高校の最寄り駅まで送ってくれた。まだあたりが暗くなっていないような時間帯なので別に大人に送ってもらう必要はなかったが、真希さんは駅から降りた後も、家のそばまで一緒についてきた。


 その間、私たちは一言も話さなかった。もちろん、手も繋がなかった。


 唯一、去り際に、さようなら、とだけ言葉を交わした。 


 もう、真希さんの笑顔が苦手だとは、思わなくなっていた。



 私には生きる資格がない。


 私のせいで、私の大事な人が死んだことがある。その出来事によって、私は生きる資格を失った。


 真希さんも、そういう経験があると言っていた。


 真希さんは、自分には生きる責任がある、と言った。だから、どれだけ死にたくなっても自分は生きていなければならないのだ、と、そう言った。


 同じような経験をしているのに、私には生きる資格がなくて、真希さんには生きる責任がある。


 私と真希さんの意識の差異は、結局、その過去をどう認識しているかどうかだと思う。


 私はあの過去と向き合って、自分の犯した罪と向き合って認識して、自分には生きる資格がないのだという結論に至った。


 真希さんも、自分の過去と向き合って認識して、自分には死ぬ資格がない、生きる責任があるのだという結論に至った。


 どちらも何も間違っていないだろう。


 結局人の行動なんて、認知の差異というくだらないことで百八十度変わってしまうものなのだ。人の行動にロジックなんかない。その人がどう思ってどう行動するか、そんなことに法則などないのだ。だから人間は複雑だ。理解ができない。


 私という人間のことも、誰にも理解できないだろう。


 誰もが本当の意味で理解し合うことはできない。たとえば私は今日、真希さんが同性の人に恋をした過去があることを知った。昨日までは知らなかった。昨日までの私はそんなことも知らないまま真希さんと関わっていた。それを知らないということすら知らずに、真希さんと普通に話していた。勝手に真希さんを常識の枠にはめ込んで、真希さんは異性愛者であるはずだと決め込んでいた。私は真希さんを理解しようともしていなかった。無自覚に理解を拒んでいた。


 もちろん、初対面の相手に自分のことを何でもひけらかすことのできる人はほとんどいない。しかし、だからこそ、まだ少しも理解していない人同士で普通に会話できるような感覚を、人間のほとんどが共有している。共有してしまっている。


 だから黒川くんは、私の過去について何も知らないにもかかわらず、私と普通に会話しているし、私のお弁当を食べることだってある。


 私のせいで、私の大事な人が死んでしまったという過去。


 私が、私の大事な人を殺してしまったという過去を、黒川くんは、まだ知らない。



 一歩一歩確実に、息が上がってしまわないようにゆっくりと、踏みしめるようにして学校の階段を上る。自分の足音以外の音は何も聞こえなかった。


 屋上の扉を見上げると、埃は積もったままだったが、かつての薄暗さはなくなっていた。むしろ神々しい光が差しているようにすら見える。


 最後の階段を上り切って、鍵を差し込んで扉のドアノブをひねると、少し冷たい風がそっと頬を撫でた。想像していたよりもだいぶ風は弱いようだった。


「ようやく来たか」


 ポケットに手を突っ込んだ制服姿の男子生徒が、ゆっくりとこちらを振り返る。不敵な笑みを浮かべていた。


「岸辺さん……」


 岸辺さんは不敵な笑みを浮かべたままこちらを窺っている。私は眩しい日の光に目を細めながら、岸辺さんに近づこうとした。


「今日、死ぬのか?」


 岸辺さんの言葉に私は立ち止まった。なぜ彼がそのことを既に知っているのか、理解できなかった。


 でも、そんなこと、もうどうでもいい。


「……はい、そのつもりです」


「本当にいいのか?」


 この人は何を言い出すんだろう。私にあれだけのものを見せて、私の意識の奥底に眠っていた幼少期の過去を掘り起こしたのは他の誰でもない岸辺さんなのに、今更になってそんなこと。


 私を馬鹿にしないでほしい。


「……愚問だったかな」


 岸辺さんはふっと息を吐いて、また私に背を向けた。そんな岸辺さんを見ているとなぜか無性に笑みが零れた。


 妙に気分が良い。


 腕を振り上げ足を大きく広げて、私は屋上のコンクリートの上を進む。そのまま岸辺さんも追い抜かして、フェンスに手をかけて足を引っかけようとした。


「ホナミちゃん!」


 振り返ると、この前私をエッチに誘ってきた人が、階段を駆け上がってきたのか膝に手をついて息を荒くして、強い眼差しでこちらを見据えていた。岸辺さんは真希さんのことなど全く意に介さずに、前髪を靡かせながら空を見上げていた。


「ほっ、ホナミちゃん、は、な、何を、しようとしているの?」


「ここから飛び降りようとしています」


 フェンスを掴んだ体勢のまま動きを止めて、私は真希さんを睨みながら答える。


「なっ、ななんで、そんなこと、しようとしてるの! とりあえず、フェンスから手を離しなさい」


「離しませんよ」


 真希さんは荒い息を整えながら、ゆっくりとしかし猛然と、こちらに近づいてくる。真希さんも、岸辺さんのことは全く意に介していない様子だ。


「……ねぇ、な、なんでそんなことをしようとしているのか、私に教えてくれる?」


 心持ち穏やかな口調で真希さんは語りかけてくるが、その顔はいつもの笑顔でもネットカフェのときの悲壮感漂う表情でもない。獲物を狙う肉食獣のような、強い意志のこもった眼差しと表情だった。


「……私には生きる資格がないからです」


「ねえ、どうしてそう思うの?」


 真希さんの口角は微妙に吊り上がっていた。意識の上では笑顔であろうとしているのかもしれない。


「……私が、人殺しだからです」


 真希さんの足が一瞬止まる。しかしすぐに歩き出す。


「…………殺人犯だって、全員が死刑に処されるわけじゃないんだよ」


「司法なんてどうでもいいんです。私が私を生きる資格がない存在だと思ったら、もう私には生きる資格がないんです」


「…………私は、ホナミちゃんのこと、生きる資格のある人だと思うよ?」


「真希さんがどう思うかなんて関係ないです」


 真希さんが私の腕を掴んだ。掴んだだけで、引き戻そうと腕を引っ張ったりすることはない。


「一旦冷静になって、私と二人で話し合ってみようよ。生きる資格がない人なんていないよ。きっと何か、生きていける道があるはずだよ。ホナミちゃんはまだ十七歳なんだから、これからの人生、私なんかよりも数億倍可能性が広がっているんだよ。大丈夫だから。一回、私と一緒に、落ち着ける場所に行こう?」


「……真希さんは、自分は死にたくても死ねないって言いましたよね」


「………………うん」


「自分には死ぬ資格がないって。真希さんの好きだった人が自分のせいで死んだから、死ぬ資格がないって、言いましたよね」


「……うん」


「それと同じですよ。私も私のせいで大事な人をなくして、私には生きる資格がないと思ったんです」


「……で、でも」


「真希さんが死ぬなら、私はこれからも生きます」


「……………」


「死ぬ資格のない真希さんが死ぬのなら、生きる資格のない私も生きていていいって思えるので」


「………………とりあえず、屋上から出ようか。カウンセリング室でも喫茶店でも家でも、ホナミちゃんの好きなところでいいからさ、一回落ち着いて話そうよ」


「……………」


 私と真希さんはずっと見つめ合ったままだ。真希さんが私の腕をより強く掴む。


 ぽん、と肩を叩かれた。


「そんな奴ほっとけよ」


 真希さんのすぐ隣で、岸辺さんが穏やかな微笑みで私の肩に手を置いていた。


「岸辺、さん……?」


「…………え、ホナミちゃん、岸辺のこと思い出したの?」


 思い出したというか、真希さんのすぐ隣に本人がいるじゃないか。


 そういえば、真希さんは屋上に来てから一度も岸辺さんのほうを見ていない。まるで岸部さんの姿が見えていないかのように。


「お前がお前の意志で決めたんだろ? お前が自分で、自分には生きる資格がないって断定したんだ。だったら最後までやり通せよ。生きる資格がないなら、それなりの行動を示せ」


「ねえ、岸辺のこととか、色々全部私に話してほしい。私でも協力できることがあるかもしれないから。私にも解決できることがあるかもしれないから。ねぇ、お願いだからフェンスから降りて」


 二人の人が同時に私に向かって言葉を投げかける。


「私は、私はあなたが死んだら、もう、ダメなの。私は全部知ってるんだよ? ホナミちゃんにも生きる責任があるんだってこと、知ってるんだよ。ねえ、岸辺のことは思い出せるのに、お母さんのことは思い出せないの? あの人は、ホナミちゃんにも生きる責任を負わせたはずだよ。ホナミちゃんはその責任から逃げるの? ねえ、そんなことって許されないよね。ホナミちゃんだって、死にたくても死ねない人のはずだよ。私と同じ、過去に縛られて、雁字搦めにされて生きている人のはず」


「なあ、舟木はちょっと精神がおかしいんだ。こいつは昔からやべー奴だったんだよ。こんな奴の話に聞く耳持つんじゃねえぞ。お前は誰にも邪魔されずに、ただ己の信じる道をひたすらに歩めばいいんだ。ほら、いってこい」


 私は目を閉じた。目を閉じて、瞼の裏に広がる闇の中で、私は揺蕩っていた。何も考えたくなかった。


 お母さんのこと。私の両親のこと。


 私のせいで死んでしまった、両親のこと。


 私の両親が、私に負わせた責任のこと。


 何も考えたくなかった。


「そこから飛び降りれば、お前は全てから解放される。この約十年間、お前の笑顔を奪い続けてきたその過去からも、お前は解放されるんだ」


 そうだ、ここから飛び降りれば、全てから解放される。全てが解決する。


「ホナミちゃん。あなたが死んだら、私は絶対にあなたを許さない。責任逃れなんて、絶対に許さないから」


 どうでもいいよ、もう。勝手にしてくれ。


「真希さん。わたし、猫を被っていない真希さんのことは、けっこう好きですよ」


 私はフェンスを登る。フェンスを登って頂上について、そこから転がり落ちるように私は空中に飛び込んだ。


 風が気持ちよかった。とにかく気持ちよかった。気分がよかった。何のしがらみも何の心配事も何の不安もない、私の心の中にあったのはただただ多幸感だけだった。人生で一番気持ちよかった。


 まあ、人生はもうすぐ終わるのだけど。


 溢れ出してしまいそうなほどの幸福感で満たされた私の身体は地面に打ち付けられ四肢がもげて内臓が飛び出て神経が外気に晒されて頭蓋の中身がびしゃりと飛び出してrぼあうばいkbじょいjぱkf









































 女性の叫び声が聞こえた。


 

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