ライター・イン・ザ・ハウス

焦り男

ライター・イン・ザ・ハウス

 消えかけの炎が揺らめいている。

 吹けば灯りは潰えて、深い暗闇が満ちるのみ。

 存在意義など疾うに消失した、果てた夢の在り処。

 頼りない炎が、今も幽かに揺らめいている。


 何の為に生きてるのかと問われたとして、

 真っすぐに答えることができたあの日は、いつまで遡る。

 二〇十九年、十二月九日。

 俺はあの日を忘れない。

 あの瞬間の虚脱感と──を、忘れることはない。



 友人だった。

 小説家なんて無謀な夢を共に志す、唯一無二の友人、名は八凪やなぎといった。

 きっかけは俺だったはずだ。高校時代に執筆を始めた俺に感化されて八凪は文章を書き始めたのだと、そう記憶している。

 俺の駄文と八凪の拙文。どこかで読んだようなストーリーにどこかで見たようなキャラクター。書き始めた頃は楽しさだけで駆動できたから、構成も何もかもが滅茶苦茶で、それでもとにかく書き続けていた。

 何の気なしにネットに上げた一作が、幾らかの人の心に留まった。評価がついて賛否が分かれて、俺は小説の体を気にするようになった。

 対して八凪は、まだ滅茶苦茶な小説を書き続けていた。彼の作品よりも俺の作品の方が見られていたし、少しばかり人気だった気がする。

 だから俺は一歩先を進んでいるのだと錯覚していったのだろう。


 就職が近づいた時期、新人賞に応募してみようという話になった。

 「働き始めたら今みたいに書く時間は取れないだろうし、思い出作りにもなるしな」そう語る八凪に、「仕事が始まったら書かなくなるのかよ」と訊く。「分からないけど、たぶん続けると思う。お前は?」訊き返す八凪に、

「小説家にならなきゃ、俺の人生である意味がない」俺はそう真っ直ぐに言い放った。



 学生時代に送った新人賞の結果が出たのは、社会人半年目の秋頃だった。

 残業疲れでベッドに倒れ伏せたところに、ちょうど着信が入った。鬱陶しいと内心で思いつつ、スマートフォンを取る。八凪からの電話だった。


「おい! 一次選考の結果来たか?」

「なんのだよ」

「新人賞のさ」


 久しく聞く声、前置きもなく話し始める八凪に懐かしさを覚える。卒業後は互いに仕事が忙しく、こうして話せる機会もなかった。

 ベッドから上体を起こし、手元のタバコに火をつける。


「そういや応募したな……」

「メール見てみろよ! 俺は通過してたぞ!」

「へえ。ちょっと待ってくれ、メール見てみる」


 重たい煙を吐き出し、メールボックスを開く。

 この時の俺は自分が受かっているものだと確信していた。八凪が突破できた一次審査を自分が落ちているはずがないと、半ば見下しのような安心感を持ってメールを遡っていた。

 最近は時間が確保できず書けていないから何とも言えないが、学生時代は俺の方が文章力、構成力、共に優れていたはずだ。当人である八凪もよくそうやって褒めてくれていた。

 だからこの結果が、心底予想外だった。


「見つかったか?」

「……ああ」

「どうだった?」

「……」


 通話越しに息を吞む音が聞こえる。

 俺も受かっているものだと考えて勢いのまま電話してきた八凪は、きっと今慰めの言葉を考えているのだろう。

 それが余計に俺の喉を刺した。


「……お前が受かってて俺が落ちてるわけないだろ。当然通過してたよ」

「だ、だよな! 何だよ、驚かせんなって」

「はは、悪い悪い」


 渇いた喉で言葉を紡ぐ。落選の通達メールをぼうっと眺めながら。

 はっとして、矢継ぎ早に俺は語った。


「それより、ここから先が重要だぜ。二次選考が本番なんだ。よく言うだろ、一次選考は最低限文章になってれば通るって。ストーリーやキャラクターを評価されるのはこれから──」


 ──俺の小説、文章にさえなっていなかったんだ。結構、自信あったんだけどな。

 自分の言葉に心を抉られながら、俺はそれでも嘘を貫いた。


 八凪に同情されるのが嫌だったから?

 八凪に劣ってしまった事実を隠したかったから?

 どちらにせよ、負けていたという現実だけがそこにあった。

 そこからの会話はよく覚えていない。


 通話を終えてすぐ、俺は新人賞に応募した作品を読み返していた。


「……ここ説明不足だったな、ここの展開は無理矢理すぎて違和感凄いし……はは、おまけにギャグも滑ってる……所詮、学生のお遊びだったんだ」


 あの時は魂を込めて書いていたし、確かに最高傑作ができたつもりでいた。

 時間が経った今じゃ思い出にすら至らない、傷跡を眺めているような、そんな感覚だけがある。

 全身全霊で挑んだ過去も、経過した時間が全部殺してくれた。

 あの頃に浸った名文は、理想を真似ただけの凝り固まった残骸に。

 あの頃に掴んだ感覚は、背伸びしただけの青臭いガラクタに成り下がった。

 過去なんてものは全部燃やしてしまえばいい。燃やして然るべき恥の足跡だ。

 だから八凪、あの頃のお前が認められてちゃ困るんだよ。

 まるで俺が置いていかれたみたいになるだろ。


 短くなったタバコを灰皿へ押し当てる。ぼんやりとした火が力なく消える音。

 ……明日も仕事だ。

 消灯後の部屋に温もりはない。



 仕事に追われる日々が続く。

 それに伴い上達した仕事振りを上司は褒めてくれた。顧客に対する愚痴を同僚は笑って聞いてくれた。

 嬉しかったはずだ。達成感があったはずだ。

 けれど心の何処かにずっと蟠りがある。立ってる大地が透明で、地に足がついていない感覚。今は仄暗い、けれど昔は輝いていたような、そんな蟠り。全ての感情にそいつが付いて回る。

 時々心が濁るのだ。日を追うごとに膨れ上がる混濁が心の脆い部分を蝕んでいる。



 とどめになった一日がある。


 二〇十九年、十二月九日。

 新人賞の受賞結果が発表される、応募者にとっては運命の一日。

 その日の晩、一通のメッセージが届いた。八凪からのものだった。


『佳作入賞した。半年後を目安に出版予定らしい』


 あまりの衝撃に眩暈がした。

 声が出ない。幾重にも感情が絡まって、思考すら及ばない。

 入賞、佳作入賞、出版予定……理解を拒むように滑らせた目とは裏腹に、一つずつだが情報を飲み込み始めた脳。心臓は早鐘を鳴らし続けている。

 一次選考合否の際の通話からしばらく経った。二次選考を突破したという報告がなかったから、落ちた可能性も考えていたが、まさか入賞を果たしているとは。

 めでたい話だ、友人が夢を叶えた。嬉しい限りだ。

 俺は、それだけで終われるような出来た人間ではない。

 途方もない虚脱感に襲われる。その奥で何かが身を潜める。

 次の日、俺は上司に仕事を辞める旨を伝えた。



 三ヶ月が経って、無職になった俺は部屋で一人、パソコンに向かい合った。

 ……八凪への返信は保留したままだ。


 『おめでとう。応援してるからな』


 三ヶ月間眠らせた下書きの送信を未だに悩み続けている。

 ふと、手元にあったライターの火を点けた。

 職場の付き合いで始めたタバコ。その為に買ったライター。

 仕事を辞めてから、驚くほどすっぱりタバコを断つことができた。だからこれはもう不必要な物だ。

 火が揺らめいている。

 目が痛くなるような炎の輝きに、自らを立ち返った。


 ……なんで俺、仕事辞めたんだよ。時間がないとか、言い訳利かなくなるだろ。

 退路を断ったつもりか? それとも全部どうでもよくなったのか? お前が何考えてるのか分からないよ。

 給料も良かったはずだろ、人間関係もようやく馴染んできて。

 小説家になったら印税で大金持ち? 上位何パーセントの話だよ。

 そもそも小説家になんてなれるかよ、八凪がなれたからって俺もなれるとか、そんな甘いわけないだろ。

 この際だから認めるよ、思い返せば八凪の作品には光るものがあった。

 それに比べて俺の作品はどうだ? 本当は気づいていたんだろ。何もかもが無難で、くすんだ作品だ。

 そんなので小説家志す気か? なれるわけないだろ。

 その創作力に見合った、無難でくすんだ生き方を選べよ。

 諦めろよ、みっともなく縋りついて恥ずかしくないのか。

 傷は浅いうちに終わっとけ。いつまで夢見てんだ。

 諦めろ。

 取り返しがつかなくなる前に、次の就職先でも探そうぜ。

 諦めろ諦めろ諦めろ。

 どうせ叶わない夢なんだからさ。


「────俺、小説家になりたいから生きてるんだ」


 ……何の為に生きてるのかと問われたとして、

 真っ直ぐに答えることができたあの日は今日だ。


 ──風が吹いた。

 消えかけの炎にとどめを刺すような、かき消してしまうような風が吹いたと、始めはそう思った。

 だがそれは思い違いだ。

 生きるための酸素を風は届けてくれていた。もう一度燃え上がるための薪をくべてくれていた。

 あの日に感じたのは虚脱感だけじゃない。奥底にあった敵愾心てきがいしんが顔を出していたのだ。それを悔しいと思うことができていたのだ。

 青臭く夢に燃えることを、俺たちは大人になった今、再び良しとしたんだ。


 傍から見れば愚かな決断だと、自らの首を絞めているようにも思えるだろう。

 ……俺だって思ってるよ。

 これから何回も、幾度となく後悔を重ねることだろう。

 ……そんなことは分かり切ってんだよ。

 火の着いた心臓がいつか鎮火するかもしれない。火の着いた脳がたちまち焦げ付き、焼き切れるかもしれない。

 ……でも今は、このまま燃えていたいんだ。

 寝ても醒めても夢を見る生き物に生まれた、この意味を忘れてしまいたくはないから。


『本当におめでとう。お……』


 気が付けば俺は、八凪へのメッセージを打ち直していた。

 あいつが待っていた返信は、きっとこんなものじゃない。俺が待たせてしまった返答は、もっと驕り高ぶっているべきなんだ。


『本当におめでとう。追いつくからな』


 これは本心からの願いだ。驕りだとしても紛れもない本心だ。

 渇くほど強く燃える思いに、もう一度狼煙が上がった気がした。


 炎が揺らめいている。

 吹いた風に灯りは焚き付けられ、燦然とした燈火が部屋を満たす。

 存在意義はここだと叫ぶ、果てなき夢の在り処。

 再燃した炎が、今も確かに揺らめいている。

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