六章五話

 イーケンを交えて作戦の立案をするということで話がついたので、史門は屋敷の奥の方へと向かう。これまで入ったことの無かった場所にはほとんど人間の気配が無い。

「史門閣下」

「閣下? ああ、フラッゼでの将への敬称か。慣れないから止めてくれ」

「では史門様、これから作戦の立案をすると伺いましたが、なぜこんな奥まで来たのでしょうか。他の部屋でもよろしいのではありませんか?」

「白苑殿下直属の武人を統率する男が昨夜不寝番だった。まだ寝ているかもしれないから呼びつけるより叩き起こした方が早い」

 起きるのを待ってやるという発想がないのか、と思ったイーケンの隣を歩く朱真が間伸びした声で問いかける。

「待てばいいじゃないですか、史門様ァ」

「時間が惜しい。話が済めばいくらでも寝かせてやるからかまわん」

 朱真は呆れてため息を吐いた。汎要など何もかもを諦めた顔をしている。

 無遠慮な足音をさせながら歩いた史門はとある部屋の前で足を止めた。かと思うと勢いよく部屋の扉を叩く。叩かれた扉の蝶番が軋む音に、汎要は千尋の谷もかくやと言わんばかりのため息をついた。イーケンが汎要に密やかな声で問いかける。

「汎要殿」

「何か?」

「史門様は、殿下の御前ではこのようなことはなさっておられなかったような気がするのですが……?」

「我が主はお疲れだ。ゆえに力の制御も常識もお忘れになっている」

 げっそりとしか表現できない汎要の表情に、イーケンは口を閉じた。

 史門に十回ほど叩かれて悲鳴を上げていた扉の向こうから返答は無かったが、内側から物音がする。

「将軍、壊れたらどうなさるおつもりですか……」

 という気怠げな声とともに扉が開いた。扉の向こうから現れたのは、灰色の長髪とすがめられた右目だった。左目は髪に隠れて見えない。史門は尊大さの滲み出る声音で問いかける。

錦晴きんせい、名乗りもしていないのによく私だと分かったな」

 どこか満足そうな史門に、錦晴は文句を押し込んだような顔で慇懃な返事を寄越した。

「こんな勢いで扉を叩くのは大陸中探し回っても、将軍ただお一人ですからな。考えるまでもございません」

「そうか。それはともかくこれから軍議だ」

 自分を叩き起こしたことに関して、錦晴は何も言わなかった。錦晴と呼ばれた男は灰色の髪を掻き上げながらイーケンとアルンに尖った目線を向ける。普段は束ねられているであろう髪のせいでイーケンの位置からはよく顔が見えない。

「かしこまりました。……して将軍、そこの男とめでたい髪は?」

 めでたい髪、という言葉にアルンの眉がわずかに痙攣する。当然だが周囲の者は誰も気が付かない。

「男はフラッゼの軍人で銀髪の方はフラッゼの王家専属の者だ。貴様らとさして違わん立場だと言えば分かるかな?」

「ふむ……。まあ構いません。銀虎将軍の目を信じましょう」

 寝起きの彼の声はひどくかすれており、イーケンは次第に錦晴が可哀想になってくる。もっと穏やかに起こして身支度の時間くらい与えてやってほしかったと、心の底から思い始めた。意味も無く申し訳なくなってイーケンは錦晴から目を逸らす。

「この男が白苑殿下の御身をお守りする近衛衆筆頭で、錦晴という。我が氏族の分家の当主でもある」

「将軍、その紹介はお止めになってくださいと申し上げたはずです。それで軍議とは? 殿下直々の御命令ですかな?」

「そうだ。身支度を整えたら東の大部屋に来い。貴様の副官も連れて来ると良い」

「は、そのように致します」

 一礼してから錦晴は部屋に引っ込んだ。

 東の大部屋に来ると、汎要と珊瑛が大きな机に港一帯の地図を広げ始める。他の者が筆記用具などを用意している間に錦晴が副官と思しき男を伴って現れた。

 群青色の衣と同じ色の帯を一欠片の隙もなく身につけ、灰色の髪は後ろで結わえられている。靴は金具の一つに至るまで一点の曇りなく磨き上げられていた。錦晴が歩くのに合わせてほのかに漂う上品で清潔感のある香りのおかげで、武官とは思えない。錦晴の後ろに控える副官も錦晴同様、身なりが整っている。彼らの入室とほぼ同時に軍議が始まった。

 軍議は大いに白熱した。あらゆる案が出尽くして作戦内容が決定したころにはとっくに日が沈んでいた。剣戟の代わりに言葉で戦い尽くしたその場の者達は、慣れないことをしたせいかどことなくぐったりしている。げんなりした顔で片付けをしている朱真に続き、イーケンも大きめのため息をついてからふとアルンを見た。

「天竜乗り、真奏という女が主導して薬を牙月とフラッゼにばら撒いていたという俺の認識は正しいか?」

「正しいですよ。フラッゼの場合はばら撒かれる寸前で食い止められましたが」

「何が目的なんだ? こんなことをしでかしたら戦争は回避できないが、前回の戦争で疲弊しているはずの汰羽羅に大国を二つも相手取れる力が残っているとは思えん」

 イーケンとは違って普段と変わらない様子のアルンは、その疑問に淡々と応じる。

「まず間違いなく軍資金でしょうね。真奏率いる汰羽羅は、自分達から搾取する牙月に対して反旗を翻そうとしてるのでしょう」

「金?」

「牙月の場合は市場で普通に売られている薬を加工し、それをばら撒きました。原料となった薬自体は大変安価なものだと聞いています。そうですよね、汎要殿?」

 突然話に巻き込まれた汎要は、居住まいを正しながら首を縦に振った。

「ああ、そうだな。安価な薬だから町医者などが仕事のために大量に購入しても何らおかしくない。それゆえに買い占めが頻発しても我々は異常を感じなかった」

「今思えば、三回もの買い占めが報告された時点で御前会議の議題にすべきだったのだ。それを薬師寮の者どもが見落としおったせいで、こちらにまで余計な手間が……」

 史門は低い声でそう言って眉間を押さえる。それから書記として忙しくしていた珊瑛に目線をやった。珊瑛は彼の意を汲んで口を開く。

「しかし、この件で真に恐ろしいのは汰羽羅の技術でしょうね。薬も過ぎれば毒となるとは言え、ただの薬から麻薬を精製できる技術があるとは誰一人思っていなかった。解決が難航していた頃にフラッゼの女王陛下より内密に協力の申し出をいただきました。そして派遣されてきたのが、銀髪の若い天竜乗りと顔に傷のある天竜乗りだったというわけです。これが昨年の終わりのことです」

 珊瑛の目がアルンに向き、そこでようやくイーケンが感じていた謎が一つとけた。アルンにはそれなりの信用があることを不思議に思っていたのだ。アルンの汎要に対する遠慮の無い態度、牙月の風習に慣れている様子などもこれで理解できる。

「麻薬は異常な中毒性を持ちます。中毒者は一度身体に麻薬を入れると何度でも身体に入れようとします。そして薬を渡す方は法外な値段で売る」

 逸れかけた話を引き戻したアルンの言葉にイーケンはまた疑問を返した。

「薬断ちをして身体から薬を抜くことはできんのか?」

「試しましたが、牙月では飲みすぎて薬を抜く前に死んでしまう者も……」

 アルンの銀髪が左右に揺れて、悩ましげなため息が溢れる。そして返って来た返事は重い。

「一度身体に入れたら、それ以降は普通に生きるのは無理でしょう。手を出したら一巻の終わりですよ。本当にフラッゼに広まるのを防げて良かったと思っています。これほど肝が冷えたことはありませんね」


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