その6

「せっ、先生! 誰かが通った跡があります!」

 おれが点検口から声をかけると、「あぁそう。引き続き頼む」というつまらなさそうな声が返ってきた。いやリアクション薄! びびりちらしたこっちの身にもなってほしい。

 とはいえまたチョークスリーパーをかけられてはたまらない。文句をたれるのは心の中だけにして、おれは一郎氏の部屋の点検口に手をかけた。このときになって「どうやって天井側から開けるか?」ということをまったく考えずにきたことに気づいたが、幸いにして蓋の縁が少し歪んでおり、そこに車の鍵を突っ込むと持ち上げることができた。ていうか、こういう痕跡があるってことは、やっぱり誰かがここから出入りしたんじゃないか……天井裏で犯人と遭遇しなくてよかった。本当によかった。

 ハンガーにかかった衣類をかき分けるようにクローゼットの中に降りたおれは、人の気配がないことを確認して外に出た。

 部屋はさっき死体を発見したときのままだった。作業台と見られる大きな机の上には、ドライバーなどの工具や何かの基盤が置きっぱなしになっている。棚にずらりと並んだキャビネットには、用途のわからない機械だの手の塑像だのマトリョーシカだのが飾られている。本棚にも本や写真集がみっちりと並んでおり、事前に調べた一郎氏の人物像が伺えるような部屋だった。

 山中太郎氏は出窓の近くに、うつぶせに倒れていた。背中には生々しい刺し傷がいくつもあり、辺りには血の臭いが漂っている。ぴかぴかに磨かれた木の床にも血痕が広がっており、見ているだけで全身から血の気が引いて気分が悪くなりそうだ。とはいえ空手で帰ったら、先生に何をされるかわかったもんじゃない。

 おれはスマートフォンのカメラを起動し、動画を撮りながら部屋中をゆっくりと移動した。隅々までカメラに収めたあと、最後に窓際の死体を――あまり撮りたくないのだが――よくよく撮影しようとしたそのとき、ふと何かが聞こえた。

 最初は気のせいだと思った。が、動画を撮るために死体の側面に回り込んだおれの耳に、今度は「……でしょう」と呼びかけるような男の声が、小さいが確かに飛び込んできたのだ。

 背中に怖気が走った。

 声が聞こえたのはたぶん、窓の方だ。一郎氏が転落して死亡した、まさにその現場である。

 おれは手が震えそうになるのを押さえ、なんとか動画を撮り終えた。その間にも囁くような声が何度か耳に届いたが、何を言っているのかはわからなかった。わかりたくもなかった。大急ぎでクローゼットの中に潜り込み、天井裏に上って、開けっ放しにしておいた客間の点検口から部屋に戻った。

「せ、先生ー!」

 後先考えずに飛び出すと、先生は部屋にいなかった。どうしてこんなときにひとりぼっちにするんだ! おれはクローゼットからなるべく離れ、備え付けのテレビを点けた。賑やかなバラエティ番組の声に、ほっと一息つくことができた。

 先生が戻ってくるまでの数分間が、やけに長く感じられた。

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