第3話
ある晩、客が訪れた。
階段を登る音が、かなり下の方から響いている。サラスは、パウロへの咆哮の講釈を終えて、一息ついていた。
遠くの空を、パウロが飛び回っている。
サラスは、ウィルだろうと検討を付けていた。老体に
意思が、少し揺らいでいた。
扉を叩く音。かんぬきが外れる。ウィルは、体から黒い砂を払った。サラスは眉をひそめた。ウィルは挨拶代わりに頷いた。後ろでかんぬきが閉じた。
茶色のマントは、やはりひどく傷んでいる。
「わたしも簡単には諦められないのだ」
ウィルは同情的に言った。
サラスは返事をしない。少し胸騒ぎがした。扉前でウィルが肩を払っている姿が、別の記憶と共に脳裏に再生された。
ウィルは様子を伺っていたが、話を続けた。
「気候の変動がおかしい」
「名の無い怪物が来る」サラスはようやく返事をした。「そう言いたいんじゃろう?」
ウィルは頷いた。
「この間、竜の共喰いが起こった。かの怪物が姿をかくしてから、見たことの無い光景じゃ」
「だからあんたが必要だと言っているのだ」
「わしの知っている知識を、どう使うつもりなのだ。ウィル?」
ウィルは少し意外そうに老人を見た。
「教える気になったか」
「そうではない。原初の民の知識が世界にどう影響するのか? その答えがあの怪物だ。なぜウィルが、そのような物を詮索する?」
ウィルは何も言わなかった。
ウィルが手を振った。塩壺に、ヒビが走った。黒い砂となって、崩壊した。
「早く気付くべきじゃったよ」
サラスが言った。深い悲しみが、声に通底している。何冊かの本がはじけ飛んだ。そのまま崩落して黒い砂となった。
砂が渦をまいて、怪物にまとわりつく。
「墓場まで持って行くのだろう?ならば望みを叶えてやろう」
濁った低い声だ。
「さっさとやるがよい」
サラスは冷たく言った。
包丁が三本、空を切った。見えない何かに阻まれ、怪物にとどかない。包丁は黒い砂となって崩壊した。
部屋中の物が一斉に浮き上がった。八方から、敵めがけて弾け飛ぶ。
ウィルの周りで、全ての物が木っ端
「お前が気にかけていた王の魔法か」
怪物は楽しげに笑った。背後で黒い砂が集結して、何か大きな塊を形作っている。
「師匠の手で殺されたというのに、健気な事だ。パウロと言ったか?」
黒い砂は、数本の刃となった。サラスに狙いを定める。耳栓が二つ、へやを横切る。サラスの両耳に収まったかと思うと、床に振動が走る。窓を見やると、パウロの子馬ほどもある頭。
縦長の瞳孔が、怒りで真っ赤に染まっている。パウロは大きな顎を開き、咆哮した。
空間が歪んだかのように、一瞬思われた。
怪物の周りで、薬瓶の棚やまきの山が消し飛ぶ。やはり怪物には当たらない。
部屋中に、光の粒子が生まれた。
あっと驚くウィルと目が合う。
ウィルは手を振り下ろした。
無数の刃が、矢のように飛ぶ。
サラスは古代語で「風」と唱えた。パウロの大きな顎がサラスをひったくる。刃が壁にぶつかって、砕け散った。
「風」が、短く空を切る音。
ウィルの鎖骨からみぞおちに、血の切れ目が走る。ウィルの口から短い叫びが漏れた。
パウロは再び咆哮した。骨にしびれが走るような、強烈な地鳴りが床から這った。
ウィルの立っていた場所には、壁に付いた肉片と血しか無い。
階段をのぼる足音が響いてきた。
「ウィルの手の者じゃろう」
パウロは首を傾げた。瞳孔が元に戻っている。
壁にかかっていた、竜の鞍が飛んでいった。カラビナが施錠される乾いた音。
竜は老人がくらに収まるまで、微動だにしなかった。
部屋に散乱した山の中から、擦り切れたカーテンのシーツがすっ飛んで来た。シーツは老人に巻きついた。ロープが飛んできて、シーツとカラビナをしっかりと結びつける。
パウロはそっと飛び立った。サラスの外行きのマントが、あとを追ってきた。しばらく空をたゆたっていた。一定の距離から先へは行けず、魔力を失って落ちていった。
さらばだ、友よ。サラスは、かつて息子のように愛した弟子に心で呟いた。マントは雲間に隠れて見えなくなった。
塔は遥か遠くに、小さくなっていた。
老人と竜〜 七千文字短編ファンタジー小説 伯爵 @hurito
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