韜晦の板

真花

韜晦の板

 恋人は星を見ながら祖母から聞いたと言う話をした。彼は同じように星を見ながら、決して彼女と同じ星を見てはいないまま、相槌を打つ。

「仮面を着けて生き始めたイアクオはそれまで仲違いをしていた村人と、一緒に笑ったり泣いたりするようになったの」

 彼はチラリと彼女の顔を見る。どうしてその話をするのだろう。胸の中に棘を刺されて、そこをハンマーで打たれるようだ、彼は彼女から遠い方の手で、こっそりと胸を守った。初夏の夜の熱気が二人の間に横たわり、話をしている彼女の声がその濃密な空気によって霞み、それを通り抜けた言葉は濁りを含んでいた。彼にとってはそれが、物語さえも鈍くするように、自らの手だけでなくもう一つの自分の守りのように感じられた。それでも彼女は次の言葉を放ち、折り重なれば杭打ち機のように段階的に彼に刺さった。だがロマンチックの延長線上で柔らかく踊る彼女のためには、彼女がそうなるように努力をして来た彼自身のためには、呻き声を上げる訳にはいかないし、聞き流して「そう言えばこの前犬がね」などとなかったことにする訳にもいかない。彼は耐えた。これまでずっとそうして来たように、心と顔の間に板を立てて耐えた。

「イアクオはずっとずっとそうやって生きたわ。そしたら、仮面が取れなくなった。取れない仮面がいつの間にか彼の顔になっていたの」

 それはまさに俺のことだ、彼の腹の中に悲愴が滞留した。だけど板があるから表には出ない。いや、表に出さないために彼は非常な努力をして板を支え続けていた。板を立てるのは壮大な作業だった。覚悟を要した。だけど、一度完成してしまえば維持することは大概の状況で容易で、特に職場――板を始めたのは新しい職場に就職したときから――では労力を必要としなかった。プライベートにまで板を持ち込むか最初は迷った彼だったが、彼女と職場での出会いから付き合いが始まったので、なし崩し的に板を保つことになった。彼女はそれに気付いたのだろうか、彼はその可能性について吟味してみる。だけど、そうである証拠もそうでない証拠も見付けられなかった。かと言って、「君は僕のことを言っているの?」と問えば馬脚を露わすから、「仮面が取れなくなったんだ」と続きを、正確には話の終わりを、促すことしか出来なかった。

「彼は元の自分の顔がなくなったことを嘆いたわ。でも気付いたの。ずっとやって来た仮面の方が本物の自分の顔なんだって」

 彼は粗暴ではなかったが相手が理不尽であったり、傲慢であったり、もっと単純に愚かであるときにへつらうことが出来なかった。血が頭に上れば言い合いになったし、殴ったことはなかったが、その寸前にまで発展したこともあった。職場ですらそうなのだからプライベートではさらにぶつかりが多かった。歴代の恋人は全て喧嘩別れだった。彼自身はそうは思っていなかったが、恋人との関係は自分が優位でないと気が済まなかった。何度も繰り返す失敗の末に彼は、板を立てて別の自分を、職場では、少なくとも仕事だけでも安定させたいと言うのが根本の動機だったから、一人称も「俺」から「僕」に変えて、笑って過ごすようにした。それは屈辱的であったが、戦略的な行為であることで持ち堪えている内に、慣れた。

「それで、イアクオは死ぬまでそのまま仮面で生きたんだって」

 語り終えて自分の方を向く彼女の瞳がどの星よりも優しかったので、彼は逡巡した。恋人同士となって日が浅い、だったら、今ここで自分の正体を明かして、それでも一緒に生きていくのか訊いたらどうだろう、彼の中央にその考えが鎮座した。その周囲をもう一つの、そんなことをして彼女を失うのは惜しい、と言う考えが回り、さらにその外周に、正直に自分を曝け出すことこそが真摯な行為だし未来に繋がる、と言う思考が踊り、さらにその外側に、彼女の童話の通りに死ぬまで板を立てていれば問題ない、がうろつく。彼女が幸せなのはどっちだろう、俺が幸せなのはどっちだろう、考え達の上方で二つの疑問がぶつかる。

「どう思う? イアクオのこと」

 彼は決心した。

「俺は本当は僕じゃないんだ。イアクオと同じだよ。君との未来のために、正体を出した方がいいと思ったから、俺は俺に戻るよ」

 彼女は凍り付く。その表情は屍蝋を連想させ、彼はこの告白だけでもうこの恋は終わったと直感した。それでも一縷の望みに賭けようと、全身に力を入れて口を開く。

「俺がどんな奴か分かって、嫌なら別れよう。隠していたのは俺だから、君がそう思うならそうすればいい」

「本当のあなたがどんな人か、私は分からない。仮面のあなたを好いていた。だから、正体が分かってからどうするか決めるわ」

「……ありがとう」

 彼等はもう星を見ていなかった。二人の未来も見ていなかった。死体のようだった彼女に生気が戻り始めた。彼も同じ顔をしていた。二人はまだ恋人であることを確かめるように手を繋いだ。

 彼は宣言通りプライベートでは仮面を取り外し、彼女を支配しようとした。彼女は抵抗した。二週間後、彼女が彼の頬を平手で打った。

「何だよ!」

「いい加減にしてよ! 女は男の奴隷じゃないのよ」

「知るかそんなこと。黙って言うこと聞けよ!」

 彼女は息を大きく吸い込んで、その息が目から出てくるのではないかと思える程に両目を開いて彼を睨む。

「別れる」

「あ!?」

「あなたの正体は、酷過ぎるわ。さよなら」

 彼女は振り向きもせずに去って行った。彼はしばらく興奮していたが、そのうちに落ち着いて、ああ、やっぱりダメか、と頭を抱えた。プライベートでも板を立てておけば上手くいったのかも知れない。やり直せたら、彼は望むけど、その想いは空に溶けて消える。


「どう思う? イアクオのこと」

 彼は決心した。

「そう言う生き方もあるんだね。面白い話だったよ」

「私の大好きな話なんだ」

 彼は自分もイアクオだと言うことを隠した。彼女は何の疑問も持たないような顔をして、野に咲く花のように微笑んでいた。これでいいんだ、これでいいんだ。彼は何度も自分に言い聞かせて、板が揺らがないように注意した。交際は順調に進み、二人は結婚した。その初夜、ご祝儀袋の中の金を数えながら、彼女がまたイアクオの話をする。彼はどうしてこのタイミングでその話をするのか疑問に思いながらも、特別な日だからと言って特別なことを話さなくてはならないこともないか、と耳を傾けた。話の内容は初めて聞いたときと何も変わりがない。彼の内面で起きる葛藤も同じで、正体を晒すべきか否か、ただし前回よりも全体的に大きい。彼女の語りの間中彼は板を取り去るかどうかを悩み続けた。彼女は語り終えて、彼を向く。

「どう思う? イアクオのこと」

 彼は決心した。

「俺は本当は僕じゃないんだ。イアクオと同じだよ。君との未来のために、正体を出した方がいいと思ったから、俺は俺に戻るよ」

 彼女の勘定の手が止まる。真っ青に張り付いた顔。失われた生気の中で視線だけが鋭く彼を刺す。

「嘘でしょ?」

「嘘じゃない。それが不服なら離婚してもいい」

「結婚したの今日だよ? ……ちょっと様子を見てから、決める」

「……ありがとう」

 新婚旅行はハワイに一週間滞在した。元の顔に戻った彼は彼女を支配しようとし、彼女は抵抗した。ことあるごとに衝突し、ついに彼女が彼の頬を打つ。

「いい加減にしてよ! 妻は夫の奴隷じゃないのよ」

「知るかそんなこと。黙って言うこと聞けよ!」

 彼女はそこでは堪えて、日本に戻って来てからすぐに離婚した。一人取り残された彼は、ああ、やっぱりダメか、と頭を抱えた。板を立て続けておけば上手くいったのかも知れない。やり直せたら、彼は望むけど、その想いは空に溶けて消える。


「どう思う? イアクオのこと」

 彼は決心した。

「前もそう言ったけど、面白い話だね」

 今回も隠す。今のところ上手くいっているのだ、敢えてリスクを取る必要はない、彼は後付けでそう考えた。

「大好きな話なんだ」

 新婚旅行はハワイに行き、戻ってから一緒に生活を始めた。彼は会社では「僕」を貫いて、その成果として人間関係が円滑になり、退職を迫られることもなく、穏やかな日々を送っていた。やがて、彼女が妊娠し、男児を出産した。彼は喜び、育児休暇を取得して、べったりと家で彼女と共に子供を見ていた。が、次第にずっと家で板を立てているのがしんどくなって来た。そんな中、彼女が三度みたびあの童話を話した。これは呼び水なんじゃないのか、彼は彼女からそのようなものが出ることに当惑し、またあの考えの塊を胸の中に建てる。言うべきか言わざるべきか。

「どう思う? イアクオのこと」

 彼は決心した。

「俺は本当は僕じゃないんだ。イアクオと同じだよ。君達との未来のために、正体を出した方がいいと思ったから、俺は俺に戻るよ」

 彼女の表情が固まって、それが波及して子供に害がないか彼は不安になり、息子を抱き寄せた。

「嘘」

「嘘じゃない」

「……分かったわ。しばらく一緒に生活してみて、ダメだったら離婚しよう。養育費は貰うけど」

「それでいい」

 育児休暇でふんだんにある時間を彼女の支配に投入した彼を、彼女が平手で打った。

「いい加減にしてよ! 妻は夫の奴隷じゃないのよ」

「知るかそんなこと。黙って言うこと聞けよ!」

 離婚した。一人取り残された彼は、ああ、やっぱりダメか、と頭を抱えた。板を立て続けておけば上手くいったのかも知れない。やり直せたら、彼は望むけど、その想いは空に溶けて消える。


「どう思う? イアクオのこと」

 彼は決心した。

「何度聞いても飽きない話ってあるんだね」

「私にとっても、そうだよ」

 育児休暇を目一杯使って、その後も第二子、第三子が生まれ、彼は父親になっていく、仕事も順調なのは板のせいだろう。いずれ歳を取って、定年した。その次の日、妻と家にいたら彼女が何十年ぶりにあの童話を、イアクオの童話を話す。もう職場で板を立てる必要はない。家でも元の自分だったら楽だろう。童話が終わったとき、彼の中にはこれまであったような葛藤はなかった。

「どう思う? イアクオのこと」

 彼は決心した。

「俺は本当は僕じゃないんだ。イアクオと同じだよ。君との未来のために、正体を出した方がいいと思ったから、俺は俺に戻るよ」

 貼り付けられた顔の彼女は青く、白く、しかし目には力がある。

「これまで何十年も一緒にいたあなたが偽物だって言うの?」

 彼は深く頷く。

「元の自分に戻りたい」

「……分かったわ。でももしその元のあなたが受け入れられなければ別れましょう」

 久しぶりの支配的な自分にそんなにすぐに戻れるのか疑問のあった彼だったが、やってみるとすんなり、スイッチが切り替わるように変貌した。子供達は独立して、二人きりの生活、その全てを彼女に投入した。二週間後、彼女が彼の頬を平手で打つ。

「いい加減にしてよ! 妻は夫の奴隷じゃないのよ」

「知るかそんなこと。黙って言うこと聞けよ!」

 熟年離婚に多少の抵抗はあったようだけど、離婚した。妻が出て行くと思ったら彼が家を出された。寒空に彼は、ああ、やっぱりダメか、と頭を抱えた。板を立て続けておけば上手くいったのかも知れない。やり直せたら、彼は望むけど、その想いは空に溶けて消える。


「どう思う? イアクオのこと」

 彼は決心した。

「そう言う生き方もあるかも知れないね。でも僕には関係ない」

 彼は板を立てたまま定年後の時代を過ごした。いずれ、妻は弱り、もう余命いくばくかとなったとき、病床で彼女は再びあの童話を彼に語って聞かせた。彼はもう彼女が終わるまでずっと板を立てておこうと思いながら話の結末を聞いた。話し終えた彼女の瞳はいつか最初にこの童話が語られたときと同じ、星を見ているようで、彼にはそれは見えなくて、もうすぐ彼女は死ぬのだ、そう思ったら急に悲しくなった。それでも、今彼女に涙を見せることはしたくない、と彼は堪えて、いつもの穏当な笑顔で彼女を見詰める。彼女が星から彼に視線を移す。

「どう思う? あなたのことよ」

 彼は凍り付いた。真っ青になり、逃げたくなった。でも彼女の瞳がそれを許さない。彼は決心してやっと言葉を発する。

「僕は、本当は俺で、イアクオと同じ……気付いていたの?」

「あと少しで私は死ぬわ。そこまで、やり続けて貰っていい?」

 彼は頷く。彼女の望みと、自分を出すことを天秤にかけるまでもなかった。

 それから彼女は亡くなり、彼は一人になった。

 元の「俺」を出すことは自由だけど、彼はもうそれをしようと思わなかった。


(了)

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