しあわせ4号

秋冬遥夏

しあわせ4号

抱えきれない幸せをコインロッカーに預けた。300円を払って、4号の鍵をかける。僕は世界を見上げて、ため息をついた。人には容量というものがある。今日も彼女がたくさん買った洋服やらスイーツやらを、僕が持ちきれなくなるように。感情も自分の容量を超えたら、それはどこかで手放さなくてはならない。だから僕は、事あるごとにこの「感情コインロッカー」に自分の感情を預けていた。1号はさみしさ。2号は悲しみ。僕がこの4号を開いて幸せを預けるのは、今日がはじめてだった。

 皮肉なことに僕だけでなく、この4号(しあわせ)を使う人は、ほとんどいない。そもそもこのコインロッカーが作られたのも、閉鎖された現代社会で感情を抱えきれず死んでしまう人(自殺者)が増えてきたからなのであった。簡単に死ねたら楽だけど、友達や家族もいるし、そんな勇気もない。そんな人をターゲットに「300円で少しだけ楽に生きる」というキャッチフレーズで、開発されたこのコインロッカーは、瞬く間に世の中に浸透していった。

 かく言う僕もたくさんの負の感謝をここに預けている。そして期限が来る前に、その感情は取りに来なくてはならなくて——今日は自己嫌悪の期限だったため、僕は7号の鍵を開けた。


 扉が開くと、そこには持て余すほどの自己嫌悪があった。それは自分の無意識で、人を傷つけてしまったときの感情。友達に言われた「お前って、外面良いから勘違いする人多いけど。思ってるほど優しい人じゃないよな」なんて言葉が、ロッカーから溢れ落ちた。こんなものを彼女とのデート中に抱えなくてはならないなんて。僕はただそれを見つめて泣きたくなった。

「ね、へーき? 今日感情多いね」

「いや、大丈夫だよ……これくらい」

「うん、大丈夫じゃないね」

 彼女はそう言って、僕の感情を半分持ってくれた。彼女は何でもお見通しなのだ。僕の「大丈夫」が大丈夫じゃないことも、もちろん知っている。いつだって僕は、彼女に助けられて生きていた。左手に持った自己嫌悪と、右手に抱えた幸せ。そのどちらともが少し膨らんだのを感じた。

「あのさ、」

「なに?」

「伊橋さんは、マイナスの感情を持つことはないの?」

 床に落ちた自己嫌悪をせっせと拾う彼女は、一瞬キョトンとした顔をして「そりゃあるでしょーよ」と笑い飛ばした。

「でもさ、その分。幸せもたくさん持ってるよ。今もほら、吉田くんと遊べて、とっても幸せだし」

 そう言って彼女は両手いっぱいの幸せを見せる。かわいい顔には満面の笑みを浮かべており、そんなところが彼女の強い部分なのだと思った。


 彼女に出会って、僕の世界は幸せになった。それまでは生活が鉛のように重くのしかかる毎日だった。使えない私は、会社ではあまり仕事をもらえなくて、いわゆる窓際族というやつだった。それでも生きるためにはと、何とかその日をやり過ごして、歳を取ることだけを考えていた。

 しかし今は違う。ずっと伊橋さんと会える休日のことばかり考えている。そしてこんな私にも幸せなんて感情が湧き上がっていることに驚いて生活している。

「ね、吉田くん。今日は急に呼び出したのに来てくれて、ありがとね」

「いや、僕。基本暇だから、全然……いいよ」

「そう? ならもっと呼んじゃおうかな」

 僕はにやけることしか出来なかった。嫌なことがあっても、こんな幸せが待っているなら、生きていようなんて思える。これが世界の秘密なのだろう。ここまで生きてきて、やっとそんなことに気づけた僕は、彼女と予約した映画館へと向かうのだった。


 シアタールームでは、落ちる照明と恋心だけが、微かに密めく。彼女の隣で見るSF映画は、死ぬときに見る走馬灯のようで、危険な香りがした。思えばどうして彼女は、冴えない僕なんかと一緒にいてくれるのか。そこには何か、とんでもない理由が隠れていないと、おかしいような気がした。

「はじまるね」

「うん」

 回り出した映画と、僕の未来が。優しい洋楽に包まれて、どうしようもない気持ちになった。これが、幸せ。僕はこんなにも大きくて美しい感情が「しあわせ」なんて四文字で表現できてしまうことを不思議に思った。それはきっと日本語が犯した一番のミスで、最高のバグなんだと考えて、腑に落ちた。


 愛と右肩が溶けて、彼女の横顔が直視できる頃。ふたりの距離が思っているより、ずいぶんと近くなっている。それは例えば、パレットの上で混ざったピンクとグレー、なんて詩的で素敵な表現で。気づけばそこにあった、いつものこと。僕はそんな素敵に、彼女といつまでも閉じ籠っていたかった。

『ボクは、アナタが、コノホシが、スキかもしれない』

 映画の中で宇宙人がそう呟く。人類も宇宙人も楽しく共存する優しい物語。なんとも彼女が選びそうなものである。でも、本当にそれでいいのだと思った。悪者とヒーローが同じ喫茶店で談笑してたり。シンデレラが介護福祉の道に進んで、魔女の介護をしていたり。そんな優しい世界でいいじゃないか。誰かが幸せになるのに、誰かがが不幸せになる必要はない。いつか彼女が言ったそんな言葉が、この世に溢れていてほしいと願った。


 映画もクライマックス。冷蔵庫から取り出したレモンパイを、宇宙人は興味津々に見ている。

『ボクも、タベテいいの?』

『いいのよ、一緒に食べましょう』

『トッテモ、ウレシイ』

 そう言ってレモンパイを頬張る彼を見て、僕は小学校の頃「宇宙人」というあだ名をつけられていたのを思い出した。理由は僕がいつも自分の世界に入り込んで、友達とまともに話せないところにあった。その時は学校に行きたくなくなるほど嫌だったが、この映画を見れば宇宙人も愛嬌があっていいような気がしてくるから不思議だ。

『アノ、ボク、シアワセだな』

『どうしたのよ、急に』

『イヤ、スッゴク、シアワセなんだよ』

『ふふ、それは良かったわ』

 幸せを感じる宇宙人。それを見つめる金髪の彼女。それは何だか僕らのことのようで、笑えてしまった。見ると僕らのカップルシートからは、たくさんの幸せがあふれ出している。僕らだけではない、どこの席からもプラスの感情の香りがした。映画はとってもいいものだ。人間をこんなにも、幸せにするのだから。


 彼女の目には感情が浮かんでいた。それは幸せともまた違う、ずっしりと重いなにかで。僕は柄にもなく、胸ポケットからハンカチを取り出して渡した。

「あ、ありがと」

「伊橋さん、どうしたの?」

「ちょっと思い出しちゃってね、大丈夫だから」

「それ、絶対大丈夫じゃないよね」

 僕も彼女のことは少しくらいなら、わかっているつもりだ。ここでの「大丈夫」が大丈夫じゃないことも、もちろん気づいている。いつも助けてもらってばかりの僕だから、今度は僕が彼女の涙を止めたいと思った。少し明るくなったシアタールーム。予告編でいま子どもに人気のアニメが映画化すると宣伝している中、僕は泣き止まない彼女の手を取って、この映画館を抜けだした。

「ごめん、せっかく幸せだったのに」

「ぜんぜん、気にしないで」

「ありがとう」

 彼女はどんな時も感謝だったりを忘れない。もう少し自分勝手に生きてもいいような気がするくらい、いつも(私などの)周りの事ばかりを考えている。そんなところが良いところだし、魅力に感じていた。そんなとっても優しい彼女に、僕は同じように優しくできているだろうか。そんなことを考えながら、彼女を引っ張って夜の外へ向かった。


 夜ってのはロマンチックの層で成っている。駅前は甘い香りがして、少し歩くと空気が軽くなる。見上げると空にはたくさんの星が浮かんでいて、知識のない僕はそれを適当につなぎ合わせてやった。これは、猫を抱いたクジラ。あれは、交尾する寄生虫。そうやって自分の世界を作り上げることで、彼女が話したくなるまで、暇をつぶした。

「あの……」

 横を歩く彼女がやっと声を発した。でも彼女のことだ。話しを始めるには、もうワンテンポ必要だろう。それでも僕は聞き返さない。それが正解なんだと、今までの経験上知っているから。

「あの、さ」

「うん」

「私、実は要支援感情所持者なの」

 そういってバッグから桜のキーホルダーを取り出した。それは負の感情を上限以上に抱えた人が付けなくてはいけないもの。そして負の感情は、いつしか持ち主の身体を蝕み——やがて怪物になってしまう。


 彼女はおもむろに服を脱いだ。寒空の下、コートを脱いで、スカートを下ろして、下着姿になった。ブラジャーから覗く胸もとには穴が空いている。それは半分ほど腐っていて、こんな状態で生きていることが不思議で仕方なかった。

「幻滅したでしょ?」

「いや、」

「嘘。絶対幻滅してるよ」

 彼女はそう笑ってから、泣いた。僕はそんな彼女になんも言ってあげられなかった。ただこんな状況でも笑える彼女はやっぱり強いのだと思った。そしてそこまで強い人間だからこそ、弱いのだ。そう考えると人の強さと弱さは、違うようで限りなく同じものなのだろう。

「わたし、もうすぐ怪物になるのに、吉田くんに会って幸せになっちゃったな」

「なんでよ。幸せに越したことないんじゃないのか」

「ううん、怖いの。もうすぐ人間の感情なんてすっかり忘れてしまうのに、幸せになるのがとっても怖い」

 幸せが怖い。僕はこんなにも彼女に幸せにしてもらっているのに、彼女はそれを望んでいない。それはなんとも皮肉的で、どうしても愛おしい感情だった。そうこうしている間にも、彼女の大きな穴は広がっていて、心臓に差し掛かろうとしていた。

「ねえ、最後にひとつだけお願いしてもいい?」

「うん、なんでも聞くよ」

 彼女の一生のお願いは、とびっきり優しくて、愛にあふれたものだった。


 彼女は僕の手を取って走り出した。時間はない。向かうは駅前のコインロッカー。

「あと、どれくらい?」

「わからない、でも30分くらいだと思う」

 彼女が怪物になるまで30分。僕は走りながら、彼女にもらった幸せを思い返していた。出会いは職場、いつも通り上司に怒られて、サービス残業をしているときに彼女は現れた。

「ねえ、なにしてるの?」

「いや、仕事だけど……」

「大変そうだね、私が手伝ってあげるよ」

 それから僕らは、夜にしがみついて、朝になるのを待って。そんなひどい毎日を過ごしては、これでいいのだと思っていた。ときおりオフィスの窓を開けて、星空を見た。今日も夜だね、なんて言い合って、いい感じになったけど僕は彼女を抱かなかった。今思えばそこで僕に少しでも彼女をホテルに誘う勇気があれば、彼女の異変に気付けたのかもしれない。それこそ今さらになって大きな穴を見るなんて結末には、ならなかったのかもしれない。


 苦しいほどに月が綺麗な夜だった。彼女の涙はもうとっくに涸れ果てて、笑い声も乾いたものになっている。今になって思うことがある。それは、彼女に会えてよかったということ。彼女のおかげで楽しい人生になったということ。

「ねえ、伊橋さん……ありがとう」

「なに、あらたまって」

「だって、最後なんでしょ?」

「そうだよ、最後だよ」

 僕はこのまま夢の中に入ってしまえばと思った。朝起きて今日のデートも宇宙人の映画も、そして彼女の秘密も全て嘘だった、なんてありきたりな夢オチだったら、どれだけ救われるか。

 でもこれは現実。だからこそ、とっても心が震えるし、こんな透明に晒された寒い季節も、大きな春に感じられる。どんな言葉を使っても伝わらないから、今はっきり言おうと思う。僕は彼女が好きだった。心の底から、好きだったのだ。

「あの、伊橋さんは、僕のこと好きなの?」

 僕は何を聞いているんだろう。彼女は、ふふ、と笑って僕の方を振り向いた。それはひっくり返って白になったオセロのようで、背中には深い黒を背負っている。

「なにをいまさら、好きに決まってるじゃん」


 綺麗で仕事もできて、人付き合いも良い彼女が、冴えない僕と一緒にいてくれるわけ。そこには特別大きな理由などなかった。ただ「好きだから」という単純なもの。僕はいままで他人に好かれたことがなかったように思う。異性はもちろん、同性でも好んで僕と歩いてくれる人はいなかった。大学でも僕は、授業を一番前の席で受けて、人と関わらずに帰る。4年間は、キャンパスと家の往復作業だった。


 着いた。


 感情コインロッカーに、着いた。僕は自分の会員番号を入力して、彼女はいそいで1号から開けていった。さみしさ、悲しみ、つらさ。そんな僕が昔に預けた悪い感情を、彼女は片っ端から食べていった——そしてこれが、彼女のした一生のお願いなのであった。

 どうせ怪物になってしまうなら、吉田くんの負の感情をできるだけ食べてから終わりたい。その言葉をこぼした彼女の目は、どこまでも真っ直ぐで、そしてか弱いものだった。


 最後まで彼女は彼女で、負の感情も上品にきれいに食べる。僕は彼女の食べている姿が好きだった。何を食べているときも、音をひとつも立てず、気づいたら手品のようにご飯がなくなっている。

「ねえ、どうしてきれいに食べれるの」

 僕はいつか彼女に、そう聞いたことがあった。しかし彼女は笑って答えてくれない。きっと答えなどないのだろう。サッカーが得意な男子、リコーダーの吹ける女子。そんな感じで「上手に食べられる」というセンスを持っているのだろう。


 見ると彼女には大きな羽が生えていて、だんだんと人間ではなくなっている。悲しかったけど、僕はそれを最後まで見届けると決めたから。逃げずに、ずっとそばにいることにした。

「伊橋さん、無理はしないでよ」

「む、ムリなんて、してない」

「そっか」

 食べる。彼女は休まずに食べる。僕のコインロッカーは、どんどんと空になっていく。1号、2号は完食。今は3号の苦しみに差し掛かっていた。本当によく食べる人だ。絶対に美味しいものではないのに、必死に喰らっている。思えば、彼女にとってこれが最後の晩餐となるわけだ。もっと映画に出てきたようなレモンパイとかが良かったのではないか。そんな無駄なことを考えてはため息をついた。そしてついに彼女の胸に空いた穴が、身体を貫通してしまった。そこから、コインロッカーがのぞき見できる。4号。見えたのは、4号のコインロッカーだった。


 しあわせ、というのはなんとも不確かで、不透明な感情だと思う。彼女と過ごす日々は、確かに幸せだったが。なぜ幸せだったのかと聞かれても、答えられない。あれはいつかのクリスマス。僕はその日も残業をしていて、ひとり悲しいオフィスを見渡した。すると自販機の方から物音がして、缶コーヒーを2本持った彼女が出てきた。

「また残業してんの?」

「いや、まあ……」

「手伝ってあげるから、早く終わらせてご飯食べに行こう」

 伊橋さんはクリスマス、誰かと予定はなかったのか。そんな考えもふとよぎったが、結果的に好きな人とふたりで過ごせてるのなら、それでいいのだと思っていた。

 その後、残業終わりに牛丼屋に入った。聖なる夜に牛丼というのもおかしな感じだが、残業が終わらずに夜が深くなった結果。もう牛丼屋くらいしか開いてなかったのだ。それでも、彼女は楽しそうに牛丼を頬張る。

「私もさ、女の子だから。人目とか気にしちゃって、ランチに牛丼とか食べれないんだけど。吉田くんと一緒なら食べれるから、本当に嬉しい」

「そ、そっか。よかった」

 彼女は牛丼を食べるのもきれいだった。スプーンで掬って、口に運んで。そんな単純な作業も、彼女がすると神秘的なものに思えるから、僕はその夜も越えられた。たったそれだけの出来事だったけど、僕はこれからもそのクリスマスを忘れはしないだろう。


 彼女もそろそろ怪物になる。感情を蓄えた身体は、いつもの2倍ほど大きくなっている。目も赤くなって、息づかいなんかも人間のそれではなくなっていた。

「ねえ、伊橋さん?」

「ナニ?」

「僕ね、しあわせだったよ」

「キューニ、ドウシタノヨ」

 僕は映画の宇宙人に勇気をもらって、彼女にそう言うことができた。僕のピュアな気持ちが、今の彼女に伝わったかはわからない。それでもよかった。きっと伝わってると思うことにした。彼女はもうたくさん食べた。1号、2号、3号……13号、14号。たくさんコインロッカーが空になっている。そしてポケットに隠してあった自己嫌悪(7号)を食べて。ついにそのときがやってきた。

 夜に響くのはおおきな淋しさと、彼女らしさだった。結局彼女は、僕のコインロッカーを空っぽにしてしまった。うめき声とともに空へと羽ばたくそれは、怪物というより、天使のようで。僕もその天国に連れて行ってほしいなんて思った。

「ねえ、伊橋さん。待ってよ!」

「ウガ?」

「これから、どこに行くの?」

「ニシヲ、メザス」

 そう言い残して彼女は、深い闇の中へと消えて行ってしまうのだった。


 朝起きて一番にテレビをつける。朝の情報番組では、今日も女子高生に人気のスイーツなんかを特集していて、もう30歳も超えたようなアナウンサーが「流行りそうですね」なんて感想を述べる。僕はそれを横目に「自分には関係のないことだ」なんて、思いながらスーツを着る。伊橋さんと出会う前の生活に逆戻り。きっと今日もひとり、残業をして帰るのだ。

 ふと、テレビから緊急速報が鳴った。そこには「道頓堀にA級の怪物が出現」との文字が流れ、すぐに中継が繋がった。場所は大阪。見たことのあるグリコの看板や、カニ道楽が見るも無残な姿になっている。A級の怪物と言えば、大災害をもたらすほどのレベルである。黒光りした羽に、鋭くて赤い目。そして胸にぽっかりと空いた大きな穴——それは間違いなく伊橋さんだった。


 会社に連絡を入れて、僕は家を飛び出した。もうクビになったってかまわない。彼女がとなりにいない人生なんて、水曜の「燃えるゴミの日」に捨ててやろうと思っていたところだ。そして、このときにやっと、最後に彼女が言った「ニシ」とは「関西」のことだったことに気がついた。僕はできる限りの力で駆ける。目指す場所はもちろん、彼女のもとだった。

 石階段を降りて、長い坂道をのぼって、いつかふたりで過ごした思い出の公園を抜けて、やっとの思いで駅に着くや否や券売機に並び、新幹線のチケットを買おう……としたとき。僕は忘れものを思い出した。しあわせ。彼女にもらったしあわせをコインロッカーに忘れたままだった。


 僕は急いでエスカレーターを駆け降りて、コインロッカーに向かった。僕の負の感情を食べてくれたように、彼女と育んだしあわせも彼女にあげたくなったのだ。僕は急いでコインロッカーに会員番号を入力して——4号の鍵を開けた。

 そこにあるのは、ひとりでは絶対に抱えることのできない量のしあわせ。それはいつか彼女が満面の笑みで見せてくれたものであった。今気づいた。彼女はあの夜、負の感情を食べてくれただけでなく、僕のコインロッカーに自分のしあわせを隠したのだった。


 泣いてしまった。悲しかったり、さみしかったり。そんな感情では言い表せられない涙だった。僕は最後まで彼女に救われてしまった。コインロッカーから大きく溢れ出したそれを見て、僕が取るべき行動は必然的に、そして運命的に決まっていた。

 僕は必死にしあわせを食べた。彼女のようにきれいに食べることはできないから、僕は僕のやり方で。はやく胃の中に詰め込むことにした。

 胸がしあわせで熱くなった。残業中に貰った缶コーヒーの味がした。公園でふたり吸った夜の空気の匂いがした。映画に出てきた宇宙人が言った『ボクは、アナタが、コノホシが、スキかもしれない』というセリフの響きがした。僕の身体はそんなきれいで素敵な感情に蝕まれて、むくむくと大きくなっていくのだった。


 いつの間にか駅を見下ろしていた。しあわせを食べれば食べるほど身体が大きくなって、その分胃袋も大きくなるので、無限に食べられた。今この状況で大食い選手権に出たら、確実に僕の優勝なのに。今テレビに引っ張りだこな大食いアイドルなんて、敵じゃないのに。なんてどうでもいいことを考えた。

「イハシさん、ボクは、とってもシアワセだ」

 そう大きな声で世界に囁けば、駅は大きな騒ぎになっていた。恐れおののく人たちの中には、僕に残業を毎日課してくる上司もいた。でも襲う気はなかった。なぜなら、僕はしあわせだから。怪物になった彼女に会って、ぎゅっと抱きしめれたら、それでよかった。


 僕はいつの間にか彼女を超えるS級の怪物になっていた。スカイツリーと同じくらいの大きさになった身体を少し動かすと、ビルがドミノのように倒れて面白かった。さあ、こんなことをしている暇はない。彼女に逢いに行くんだ。僕は遅延してる新幹線を跨いで、ニシを目指した。

 六本木ヒルズを薙ぎ倒して、東京タワーをへし折って、この東京から抜け出した。警察は銃口を向ける。それも怪物向けに開発されたガトリングガンだ。でもそんなの僕には効かない。彼女がくれたしあわせがそんな武器に負けるはずがない。


 歩くたびに朝がはじけた。しあわせが膨らんだ。僕は富士山を飛び越えて、もう彼女のそばまで来ていた。今ごろニュースでは僕と彼女のことばかり報道しているだろう。きっと僕は「しあわせ4号」なんて言われて、とんでもない怪物としてテレビに映っている。僕らの愛を日本中が注目していると思うと、楽しくなってしまった。

 僕は途中、積乱雲にキスをした。それは僕の口を潤して、大きなリップクリームみたいだった。伊橋さんに会う前にすこしお洒落になって、嬉しかった。その後、琵琶湖で給水をして、三重県で少し休憩を取った。そして、ついに大阪へ。


 たくさんの銃を撃たれた彼女は、少しばかり弱っていた。ふらふらと空を漂う姿は、殺虫剤を撒かれた蚊のような感じである。それを僕は優しくキャッチして、お姫様だっこをした。人間だったらできなかったこんなことも、怪物になったからできる。

「イハシさん、オソクなった……」

 見ると道頓堀の建物は大きく破損していて、それだけで伊橋さんと警察の戦いはすさまじいものだったのだと予想できる。彼女は目を瞑ったまま起きない。僕の負の感情を抱え込んだ身体で、こんなにも銃を撃たれたら、そりゃA級の怪物でも負傷はする。

「ヤメロ、ヤメテクレヨ」

 僕はそう呟いて、また泣いてしまった。おかしいな。涙というのは悲しいときに流すものなのに。それにはしあわせも香っていた。僕は最後に彼女にキスをした。それは少し大人のキス。僕のしあわせを彼女の胃の中に押し込んで、彼女が抱えた負の感情を吸い込んだ。良いものも、悪いものも、ふたりで分け合う。僕はこれが一番のしあわせなんじゃないかと思った。辛いときに寄り合って、嬉しいときに笑い合う。これが「しあわせ」という四文字の感情の生み出し方なのだ。


 彼女はゆっくりと目を覚ました。ルビーのような赤い目がアクセントになって、彼女はよりかわいくなっていた。御伽噺のようなこの展開も、紛れもなく現実。だからこそ、とっても心が震えるし、こんな透明に晒された寒い季節も、大きな春に感じられるのだった。

「ホンマ、キテクレタンヤ。ウレシイワァ」

 彼女の言葉に、関西弁が感染っていて笑った。

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