第3話 天を穿つトライデント

 朝七時、いつものクセで起床する。あまり長い時間ではないが、ぐっすりと眠れた。まだ身体に少し怠さがあるが、問題無い範疇だ。


 ベッドから身体を起こすと、隣でイグニスが寝ていた。いつの間に隣にいたのか。

 その寝顔は、本当に人形のような顔立ちをしている。寝起き膝枕に比べれば、隣で寝ていることぐらいは既に驚くことでもない。


 イグニスを起こさないようそっと立ち上がり、軽く伸びをする。朝食を採ろうと一階に降りる。


 一階では母さんが既に朝食を用意していてくれた。父さんは時間的にもう家を出ているので、朝その姿を見ることはない。


 「おはよ、母さん……」


 「おはよぉ。昨日は大変だったわねー」


 昨夜、家に帰って来てすぐ部屋に戻り、そのままベッドに横たわって寝た。両親には、散歩の途中で蟲の騒動に巻き込まれたと説明する。嘘ではない。


 「学校、今日はお休みですって。メールが来たわぁ」


 「あー、そうなんだ」


 確かに、昨夜は駅前の住民は大規模な避難を強いられた。まだ家に帰れず避難所で過ごしている人もいるだろう。昨日の今日で登校しろというのは無茶だ。


 朝食──トーストと目玉焼きという簡素なもの、でも美味しい──を食べ終わり何をしようかと考える。学校がないとなると、今日はどう過ごそう。

 二度寝をしてもいいが、流石に無精か。そういえば昨日は風呂に入らず寝ている。汗もかいているし汚いな。シャワーを浴びて眠気も覚まそう。



 洗面所に行き、これまた昨日から着っぱなしだった外出着を洗濯機に入れる。洗面所から続く浴室に入り、椅子に座ってシャワーを使う。

 水が滝のようにシャワーヘッドから溢れ浴室の床を打つ。熱いお湯ではなく、温めの水にしておく。


 汗が流れ気持ちいい。だがなぜか、洗面所の方から物音がする。母さんかな?


 「現代のバリネウムとやらは便利だが、やはり狭いな。二人入るとなおさらだ」


 いきなり浴室の扉が開き、イグニスが押し入ってくる。


 「おまっ……!」


 すぐ目を逸らしたが、数秒、なぜか普通に見てしまった。

 一応タオルで前は隠しているものの、艶やかな金の長髪と白い肌の四肢、彼女は裸だ。


 「おはよう修二。元気そうで何より」


 「入るな! お前は後にしろ!」


 顔を扉側と反対に、つまりはイグニスから背けて何とか追い出そうとする。こいつ、本当に混浴することを考えていたのか。


 「まあそう言うな。風呂というのは、大人数で入るほど楽しいものだ。それに、これはエネルギーの供給的にも効率が良くてな」


 「効率?」


 「修二は私からエネルギーを受け取り変身して戦闘するわけだが、そのエネルギーの受け渡しはどうやってると思う?」


 急にそんなこと言われても。俺が少し考えている間にイグニスは浴室の扉を閉め、椅子に座った俺の背中まで回ってきた。


 「ええと、こう、電波的ななにかでビビッっと……」


 抽象的な表現しかできない。そもそも、エネルギーを受け取っている自覚もないのだ。戦闘中の疲れも、気が付くと消えていたりする。


 「それも手段の一つだが、あまり効率的ではないな。私と修二の距離が離れているとするとなおさらだ」


 じゃあなんだ、と聞こうとして後ろを向く。イグニスと顔が合い、彼女は少し微笑んだ。


 「どれ失礼、背中を流してやる」


 座っている俺と立ったままの彼女。

 彼女が俺の持っているシャワーを取ろうとすると、位置的にその右手が俺の顔の横から伸びる。彼女は前かがみになるため、その身体がタオルを持つ左手ごと俺の背中にくっつく。


 じゃああ、とシャワーが湯を出す。

 湯気で鏡が曇っているため、イグニスの裸体が反射されることはない。危ない危ない。


 「答えはこうだ。私と修二の肉体的接触が最も効率がいい」


 イグニスは俺の背中と左手のボディタオルを濡らし、石鹸をつけて泡立てる。そして、俺の背中を丹念に洗い始めた。


 「気にするな修二。私が身体を洗ってやるから、修二はその間頭を洗っているといい」


 イグニスに従い、シャンプーを手に付け頭を洗う。…………ん? なんで俺はイグニスを追いだしてないんだ? というか、なぜこうも平然としてる?


 「なあ修二、この風呂にはオイルとあかすりはないのか?」


 急になんのことだ。「ない」と答えると、イグニスは「そうか」とだけ返した。

 身体が怠いせいか、もしくはまだ寝ぼけているのか。俺はイグニスに背中を流してもらっても特に羞恥心などは湧かなかった。


 「修二。この国にはテルマエはないのか? 街のどこを見ても、見つけられなかった」


 人に背中を洗われるのは存外気持ちいい。イグニスは慣れた手つきで上手だった。しかし、テルマエ? テルマエって、ローマの風呂だよな? なんでローマ?


 「んー、銭湯のことか? 浪間市はたしかに地方だけど、流石に銭湯は少ないな。昔はたくさんあったみたいだけど、もうほとんど絶滅したんだろ」


 「そうか……」


 少し悲しそうな声が浴室に響く。そんなに風呂が好きなのか? こいつは。


 「背中は終わったぞ。次は前を洗ってやる」


 俺の横を歩いて、このまま全身を洗おうとするイグニス。俺はその華奢な左腕を掴む。


 「ちょっと待て。もしかしてだけど、お前、俺に何かしたか?」


 「なんのことだ修二」


 「俺が、この状況に違和感を感じなくなってきてるんだ。よく考えてみろ。俺が可愛い女の子と一緒に風呂なんて入れるはずがないだろ。もし入れても、俺の心臓はバクバクで風呂どころじゃないはずだ。もしかして、これは夢なのか?」


 「修二……。もう少し希望を持て、これは現実だ」


 「じゃあお前が俺に何かして、違和感を消してるんじゃないのか。……両親にそうしたように。そうじゃないとおかしい」


 イグニスは固まったまま動かない。無表情のまま人形になる。そして、長いようで短い時間が過ぎると、イグニスは微笑んだ。


 「馬鹿だなキミは。私が契約者にそんなことするわけないだろ。いいか、記憶操作なんて面倒だし、私だって出来るだけやりたくないんだ」


 俺の右手からイグニスは腕を引き抜くと、なんと俺の背中に抱き着いた。イグニスの両手が俺の胸元まで回される。


 「どうだ、ドキドキするだろう。私はキミに何もしていない。ちゃんと恥ずかしいだろう」


 イグニスの裸体が密着する。確かにこれは、無茶苦茶恥ずかしい! コイツはどんな顔してこんなことしてるんだ!? 俺は急いでイグニスの腕を引き剥がし振りほどいた。


 「わ、わかった! わかったから、もうよしてくれ……。前は自分で洗う……」


 赤くなった顔を見られるのが嫌なので、顔を伏せがちに声を吐き出す。

 イグニスが俺に渡してくれたタオルで、無心に身体の半分を洗う。心臓の動悸を抑えるまで、少しかかりそうだ。


 「変なこと言ってすまなかった。イグニスが俺にそんなことするはずがない。やるんだったら、最初からそうして契約させればいいもんな」


 これまでの短い付き合いでもわかる。イグニスは進んでそういうことをしない。だったら、どうして────。


 「おそらく、昨日の戦いが原因だろう。修二は私から限界近くまで力を搾り取っていった。それで互いの意識がより深い所で絡まったんだ」


 「なんだそりゃ……」


 「修二、私とキミはもう運命共同体なんだよ。互いの存在が、互いが生きるために必要だ。そうだろ」


 イグニスの言うこともなんとなくだが分かる。俺とイグニス、どちらが倒れても敵には勝てない。二人揃ってこそアルゲンルプスは戦えるのだ。

 姉弟、というのはコイツの(勝手に)作った設定だが、その感覚にも近いのだろうか。自分に近しい存在に対する絆、家族愛のようなものがイグニスには感じられる。出会って四日目なのに、自分の中で大きい位置にイグニスがいる。


 「洗い終わったな? よし、次は私だ!」


 シャワーで身体の泡を流す俺を椅子から押し出し、今度はイグニスが座る。どうやら背中を洗われた以上、俺はコイツの背中を洗ってやらなきゃいけないらしい。


 「やはり風呂は良い。こうして裸で話し合うからこそ言えることもある」


 さっきと逆だ。イグニスが頭を洗い、俺が背中を洗う。


 彼女と俺の背丈は、俺の方が高いけれどもさほど変わらない。だが、背中を洗うとその身体の軽さというか、薄さがよく分かる。

 瑕一つないその肌も、なんとも美しい。


 「昨夜は私を庇ってくれてありがとう。…………嬉しかったぞ」


 昨夜……。マーレになじられていたことか。背中越しだとイグニスの顔は見えない。でも頬が少し赤い、ような気がした。


 「別に、なんてことはない。当たり前だ」


 「……そうか」


 俺は礼なんていらない。でも、それを言うために風呂に入ってきたのだろうか。わざわざ風呂でないと、案外恥ずかしくて言えなかったのかもしれない。


 「背中は終わったか? じゃあ次は前────」


 「俺は先に上がるから。あとは自分でやってくれ」


 浴室を出て、扉を閉める。中から俺の名前を呼ぶ声がするが多分気のせいだ。



 朝九時の風呂上がり。イグニスは俺の部屋で漫画を読んでいた。ベッドの上に座り込み、現代の娯楽を堪能しているご様子。

 そんなイグニスの髪を、俺はお付きの奴隷のように梳かしてやっている。


 「むむむ、何というバトルだ……。こいつには修二も勝てまい……」


 なぜ漫画の登場人物と俺を比較する。


 しかしコイツの髪、長いな。そして輝きがすごい。黄金で編んだ糸束みたいだ。

 外見的な面ではイグニスは人間そのものだが、こういう細かい部分の美しさで人間ではないと再認識する。


 「エネルギーの補給はどうだ? 今どれぐらい?」


 「んー、半分ぐらいだ。供給は散々してるんだが、私に精神エネルギーがなければ渡すものがないな。ははは」


 笑い事ではない気がするが。こうしている間に敵が攻めてきたら、浅間たちに頼むしかないぞ。


 「そういや、あいつらは夜にしか出てこないな」


 「夜行性なんだろ。蟲だし」


 そりゃそうか、蟲は蟲だもんな。全ての蟲が夜行性というわけではないだろうが、足並みを揃えるためか夜にしか行動できないのか。

 あんなにデカいもんで、そんなことも思考の外だった。


 蟲のことを考えると、やはりイグニスと契約したあの夜を思い出す。ああそういえば、新しいスマホを買わないと。

 学校指定のバッグも(自分で)燃やしてしまった。バッグも……その中身も……中身も?


 「し、しまったああぁぁ!!」


 俺がいきなり叫ぶもんで、イグニスの身体がビクンと跳ねる。怪訝そうにイグニスが振り向く。


 「新刊! 燃やしちまったじゃないか俺! しかも自分で! バカバカバカ!」


 「どうした修二。悩みなら私が聞いてやるぞ、聞くだけだが」


 仕方がない、また買いに行くか。今月は予定外の出費が嵩み、このままではお小遣いの前借りコースに突入してしまう。


 「イグニス、駅前に散歩でも行かないか。今日はいい天気だ」


 「散歩は昨夜たっぷりしたろ。まあ修二が行くと言うなら無論ついていく」


 というわけで外出する。せっかくだから、駅前の通りに置きっぱなしにしていた自転車も取りに行こう。



 駅前のいくつかの通りは警察が封鎖していた。

 どこも巨大蟲が暴れ、被害が大きかった通りだ。また店舗のいくつかも同様に封鎖され、営業を中止している。


 俺の自転車は無事な通りの脇に放置されていたので、そのまま引っ張って、アニメショップに向かおう。


 俺の買った「ドキドキ☆ハーレム大作戦」通称ドキハレは今人気のライトノベルで、ひたすらハーレム大好きな主人公があらゆる手段でヒロインたちを落とそうとするラブコメだ。

 俺はあの店で予約特典のついた新刊を予約していたのだ。なのに。


 「どうした修二、ニコニコしたり悲しんだりして情緒不安定だぞ。というかどこに行ってるんだ?」


 「俺はちょっと買い物があるんだ。お前はここで少しだけ待っていてくれないか。ほんと、すぐ終わるから」


 俺はアニメショップ近くの曲がり角でイグニスと自転車を置いていく。

 コイツがいるとなんとなく買い辛い。ハーレムに否定的だったし、この場では実質異教の敵だ。


 ようやく新刊が読めることを期待し、弾む気持ちで曲がり角を曲がる。

 だがそこには、この世の理不尽としか言えないような光景が広がっていた。


 「なん……だと……!?」


 贔屓の店は、ものの見事に物理的に潰れていた。トラックでも突っ込んできたのかという勢いでガラスの破片は飛び散り、扉や窓の枠が盛大に歪んでいる。

 当然だが営業していない。というか見た限り、もう営業しそうにない。


 俺はただ、膝をつき地面に手を突くことしかできなかった。

 虚無だ。このためだけにわざわざ外に出たようなものなのに、ゴールテープは無残にも引きちぎられ景品は行方不明。あんまりだ。


 「これは……蟲の死骸が潰したんだろうな。もう廃墟だ」


 待ってろと言ったのに、イグニスが俺の後ろに立っている。


 「蟲の死骸? そういえば、あんなに巨体なのに死骸を見てないぞ」


 気を取り直しなんとか立ち上がる。巨大蟲は何匹と殺してきたが、殺した後の死骸までまじまじと見たことはない。気が付くと消えていたのだ。


 「あの巨大蟲は外部から手を加えられて作られた兵士。だから元は普通の虫で、死んでしばらくすると元の大きさに戻る」


 なるほど、だから死骸が消えたように見えるわけか。

 巨大蟲の親玉なら本当の敵とやらも蟲なのかと思ったが、知性のある生命体なのか? よく考えれば、昨夜の蟲の動きも統率が取れているようだった。敵が指揮をしているというのか。


 ふとそれとはまったく関係のないことを思い出す。あの店は無事だろうか。


 「修二? まだ行くところがあるのか」


 「まあついてこいよ」


 イグニスから自転車を返してもらい、アニメショップ跡地から離れる。その店は、そう遠くないところにあるはずだ。

 イグニスはどこに行くのか見当もつかない様子だ。もしかしてすっかり忘れてるんじゃないだろうな。


 「ほら着いたぞ。お前、食べたいって言ってたろ」


 「あ……。い、いいのか修二? 食べていいのか!?」


 不幸中の幸いだが、アイスクリームチェーン店は無事で営業もしていた。カラフルなアイスがいくつもガラス越しに見える。

 イグニスはそれを、目を輝かせじっと見ていた。


 「好きなのを食え、でもトリプル一個までな。特別に俺が奢ってやる」


 「ありがとう修二……! 覚えていてくれたとは、感激だ」


 イグニスが溢れんばかりの笑顔を返してくれる。

 本当はこの金でドキハレの新刊を買うつもりだったんだが、この子の笑顔が見れるならこれでもいいか。



 五分ほど悩んだ末、イグニスはオレンジとストロベリー、ポップシャワーなる弾けるキャンディの入ったアイスを頼んだ。

 どうせならと俺もチョコと抹茶のダブルを頼み、店内の座席に座る。


 「冷たい! 甘い! なんだこれ、甘い塊が入っているぞ!」


 イグニスはいつになく興奮している。未知の食べ物を前に、まるで子供のようにはしゃぐ。色味の派手さでアイスを選んだため、どういうアイスを選んだのか本人は理解していないらしい。


 「早く食わないと溶けるぞ」


 「そうか、では急いで食べるとしよう! ……うむ、美味しい!」


 時はまだ五月。特に暑くもない日だが、アイスはいつ食べても美味い。冬に食べても美味いというのだから不思議だ。


 店の外を眺める。人通りは少ない。代わりに警察やマスコミ関係の車が多いように見える。

 時間の流れがなんだかゆっくりとして、こんな平和がいつまでも続けば最高だ。だがこうしている間にも敵は次の攻撃の準備をしているのだろう。戦いはまだ終わっていない。


 「修二のアイスも美味しそうだな……」


 「ん? まず自分のアイスから食べて──って、もう全部食ったのか!?」


 イグニスのトリプルコーンアイスは跡形もなかった。ただ、コーンを巻いていた紙ゴミだけがある。

 俺はまだ半分ほど食べたところなのに、あっという間の完食だ。


 「食いかけだけど、それでいいんなら俺のもやるよ」


 「やったぁ!」


 イグニスにアイスを渡すと、喜んで食べ始めた。そんなに気に入ったのだろうか。


 「言っとくけど、食い過ぎると頭は痛いし腹壊すぞ」


 「ぺろぺろ……。言っただろ、ぺろ、修二。私を人間の尺度で、ぺろ、考えるなと」


 「トイレに籠りきりになっても知らんぞ。そうだ、お前に聞いておきたいこともあったんだが、いいか」


 「いいぞ、何でも質問してみろ」


 そういうことなら遠慮なく。俺が寝てたり敵が出たりと、質問が沢山あるにもかかわらず今まで時間が取れずにいた。


 「マーレの奴は我ら上位種……とか言ってたな。どういう意味なんだ?」


 イグニスはアイスを食べながら、どう説明したものかと考えているようだ。

 見てると、すごい勢いでアイスが口に吸い込まれ消えていく。なるほど確かにこれは人間にはできない。


 「地球が自我を持って約四十六億年、人間が誕生して約二十万年か。なあ修二、人間はどうしてこの地球で覇権をとれたと思う」


 俺のやったアイスはもう全部食われてしまった。イグニスはベトベトの口元をきれいに舐めとる。


 「どうしてって……。進化の結果だろ? 二足歩行をして、火を使い、道具を作ったからだ」


 「そうだな。だがこうも思わないか。自分たちだけそんな進化をしたなんて“都合がよすぎる”と」


「………………」


 太古の昔から地球には多種多様な生物が存在し、それぞれが独自の深化を遂げて生存の道を探ってきた。

 その中でも、人間の進化というのは奇妙とも言えるかもしれない。

 なにせ火を自分で起こしたり狩猟のために道具を作ったのは、後にも先にも人間だけだからだ。


 「人間に生き方を教えた存在がいる。ちゃんと成長し、進化して、いずれはこの惑星の支配者に据えるためにな」


 「それが……上位種なのか? つまり、お前?」


 イグニスはいつものように微笑む。


 「私たちは地球の意志だ。地球がより力をつけるために作り出した人間への干渉体、その一部に過ぎん。上位種は人間の文明を、時に手助けし時に見守った。いつしか人間は私たちのことを神と呼び崇め始めた。そうしていくつもの文明が地球で興り、滅んだ」


 淡々と、だがその場で見てきたかのように言う。彼女は遠い昔話をする老人のような目をしていた。


 「人間の文明が発達し成熟していくと、もう助けは不要になった。キミたちは自力で生き抜くことができるようになり、私たちはそれを信じて眠りについた」


 「眠った、のか」


 「ああ。親がいつまでも子供の世話をしてやれまい。人間は人間の力だけでその文明を築かなければならない。巣立ちの時は必要だ」


 そうか、彼女は親だったのだ。その姿が俺と同年代に見えても、中身は二十万年近く俺たちを見ていてくれた。


 「ま、私は人間が大好きだったので、上位者の中でもおそらく最も遅い眠りだったが。時代的にはつい1500年ほど前のことだよ」


 つい、じゃないぞ。地球視点ならほんの一瞬の時間だろうけど。


 「じゃあなんだ、古代ローマにでもいたのか、お前は?」


 「ローマ、あれは素晴らしい文明だった! 結局は滅んだわけだが、一度あれまでの文明を築けたのならもう大丈夫だろうと、人間はもっともっと大きい文明を築けるだろうと、そう思ったんだ」


 イグニスは外を見ている。店の外の車を、信号機を、高架橋を通る電車を。

 慈しむように、我が子の成長に感じ入るように。


 「もう行こうか修二。家に帰ろう」


 俺たちは立ち上がり、店を後にした。




 気怠い朝、目に痛いような日差しを浴びながら通学路を歩く。


 一緒の方角に向かって歩く他の生徒は、一昨日の騒ぎの話をしている。駅前に大量に現れた巨大蟲の大群の話だ。

 私の家は住宅街の外れだ。家に家族全員いたので、誰も被害には遭わずに済んだのは幸いだった。


 学校につく。昇降口で靴を履き替え、階段を上り、二年一組の教室に入るいつものルーティーン。教室中心列一番後ろの席につく。

 まだ席替えはなく、席は名前順のままだ。だが、偶然にも最後尾なのは私にとって嬉しかった。


 本を読んでいると、緋山君とその友達が一緒に登校してくる。

 友達の、確か野田君は教室に入ると緋山君と別れ、同じサッカー部員に挨拶する。緋山君はそのまま席に着くか、私に挨拶していくかの二択、というのがいつものパターン。


 でも今日は、自分から緋山君に話しかけてみることにする。


 「ひ、ひ、緋山君、調子はどう、かな?」


 噛みまくりどもりまくりだけれども、これでも話せている方だというのが我ながら情けない。


 「おっす藤音。調子って……ああ、一昨日休んだことか」


 「う、うん。緋山君が休むなんて、ちょ、ちょっと珍しい、かなーって」


 中学二年の時に同じクラスになってからの私の記憶では、彼は休んだことがない。私と同じくあまり運動的ではないけれど、私と違い健康体なのだ。

 だからこそ一昨日休んだことが気になった。


 「……何でもないさ、ちょっと風邪を引いただけ。一昨日と昨日でもう治った」


 「そ、そうなんだ。ふふ、よ、よかった」


 「じゃあな。藤音も巻き込まれてないみたいで安心したよ」


 会話が終わり、彼は自分の席に向かっていく。特に彼も問題はなさそうでよかった。

 休んだというのも本当にたまたまで、私が気にし過ぎただけなのだろう。なんでも考えすぎてしまうのが、私の悪いクセだ。


 担任の虹森先生が来て、朝のホームルームが始まる。

 一昨日の蟲事件で被害に遭った生徒はまだ登校しなくてもいいらしい。でもうちのクラスは全員無事なようだった。


 あれ、今虹森先生がこっちを見た? ……いいや、これもきっと気のせいだ。



 ────つまらない授業が終わり、昼休みになる。


 今日の昼も持ってきた菓子パン一個で済ませる。私は小食なので、お昼はほとんど食べない。

 加えて最近恐ろしい事件が続いたからか、不安で身体の調子がおかしくなってきている。治ったはずの病気がまたぶり返そうとしているらしい。


 昼食を終え本を読んでいると、緋山君がやってきた。


 「なあ藤音。お前…………」


 「う、うん」


 彼は少し言いにくそうにしながらも、決心がついたのか言葉を続ける。


 「ドキハレの新刊って持ってる?」


 「……あ、も、も、持ってる!」


 緋山君はドキハレの大ファン。かくいう私も最新刊まで揃え、その他スピンオフやらコミカライズやらもコレクション済みだ。


 「そうか! ……わり、後で貸してくれないか。俺、蟲事件で買いそびれちまったんだ」


 「い、いいよ。でででも、今よ、読んでるから。週明けには、うん、きっと貸せるかな」


 「すまん、マジで助かる! この借りは絶対返す!」


 深刻な顔持ちだった彼が、一転して笑う。本を貸すぐらいで借りを絶対返すとかは言い過ぎだと思うけど、友達の力になれるのなら嬉しい。


 「とと、ところで緋山君。わ、私考えたんだけど、む、蟲の事件のこと」


 「なんだ?」


 「やっぱりさ、これ、エイリアンの仕業なんだよ! う、宇宙人が昆虫の遺伝子をか、改造して、へ、兵士にしてるの。これは、ち、地球侵略の始まりで、わた、私たちはきっと捕まるか、ここ、殺されちゃうんだ!」


 ここしばらく考えていた考察を彼に話す。


 「お前、前はモスマンとか言ってなかったか?」


 「う、うん。だからね、きっとモ、モスマンは宇宙人なんだよ! “彼ら”は既に地球の偵察を終え、終えてて、に、日本の田舎で実験してるのかも!」


 「うーん……。前半の昆虫の遺伝子を改造して兵士、っていうのは合ってるかもな。でも俺はこれを実験だとは思わない。本格的な地球侵略が、今まさに始まっているんじゃないか?」


 緋山君からこういう話を返してもらえるのは意外だった。彼は私の話を聞きはするが、彼からオカルトや都市伝説について反論や議論を貰うことはなかったからだ。


 「そ、そうだね! 確かに────」


 「気をつけろよ藤音。敵は案外、近くにいるかもしれないんだからな」


 ぽん、と座っている私の頭に手が置かれる。


 「あと……、まあ余計なお世話かもしれないけどさ。髪、ちゃんと整えてみたらどうだ。俺、藤音の髪、綺麗だと思うし」


 そう言って彼は席に戻っていく。


 「………………ほわああぁっ!?」


 予想外の展開過ぎて反応が遅れた。嘘、いや嘘じゃない!


 緋山君とは三年の付き合いになるけど、これまで私の容姿について触れたことはなかった。

 その緋山君が今日は私の頭に触って、しかも髪が綺麗とか褒めてくる!?


 どうしよう、彼、偽物かもしれない……!


 いやいや流石に偽物ではない、と信じたい。だけどそれほど特異なことなのだ。

 そして緋山君の変わりようは気になるが、同時に髪を整えてみたらどうだという言葉が胸に残る。


 …………自分の暗い性格から来るものか、今まで容姿には自信がなかった。頑張っておしゃれして化粧しても、全然上手くないし可愛くはならない。

 だからもう、そういうのは諦めていたのに。


 「うーん……。でも、髪ぐらい綺麗にした方がいいよね……」


 最後に人に褒められた経験などとうに昔で、私は少し舞い上がる。



 そうして放課後。クラスメイトは皆帰り始める中、私は借りていたモスマンの本をバッグに入れ、図書室へ向かう。

 事件の影響で放課後の帰宅が推奨され、部活もやっていないし、図書室も開いている時間が極端に短くなってしまった。


 ああ、早くもとの日常に戻らないかなぁ。


 沈みゆく太陽の、輝くオレンジ色の日差しが窓から廊下を照らす。もう誰も残っていないのだろうか。街の喧騒は遠く、人の気配はない。


 夕焼けに染まる街がきれいだったので、少し立ち止まって窓から外を見る。

 すると、向こうの校舎の屋上に人がいた。この学校はコの字をしており、場所によっては窓を覗くと反対側の校舎の様子を見ることができる。


 まさか、と思いメガネを掛けなおし目を凝らして見てみる。だがもうそこに人影はなかった。

 反対側、校舎北の屋上はプールがある。だけど水泳部も放課後の活動は禁止されている。誰もいないはずだ。なのに、おそらくスクール水着姿の女子のような影が見えたのだ。


 なんなんだろう、今日は色々とおかしい。私に問題があるのかと思いながら図書室前まで辿り着く。すると、そこには虹森先生がいた。


 「やあ、藤音君。君も図書室に用かい?」


 「せ、先生……。あ、は、はい」


 図書室の扉を開け中に入る。先生も後ろからついてきて、扉を閉める。

 そして借りた本を返すために貸し出しカウンターへ向かうも、誰もいない。


 「本を読むのは構わないが、最近は物騒だよ。早めに帰った方がいい」


 人を捜す。やはり、誰もいない。


 「ところで……さ、緋山君って藤音君の友達、なんだよね?」


 「そそ、そうです。と、と、と、友達っ……です」


 いつものようにくたびれたスーツを着た先生は、貸出カウンターに腰かける。誰もいないなら仕方がない。本は返却棚に置いておこう。


 「最近、彼に変わったこととか聞いてない? あぁ、君が感じたことでもいいよ。何でもいいからさぁ」


 「え、えっとぉ……」


 なぜそんなことを訊くのだろう? でも今日の彼の様子は変だった。先生は何か知っているのだろうか?


 「か、彼、一昨日休んで、それ、それがちょっと、へ、変かなーって。や、休むことほとんどない、ないから……」


 「ふぅん。そっかぁ、他にはある?」


 「え? あ、い、いや、あとはあんまり、ないかな、です」


 「なるほどね。いいよ、十分だ」


 先生はそれで満足したようだった。本は返した。私はもう帰ろうと扉に手をかける。


 「まぁ待ってよ藤音君」


 背後から呼び止められる。なんとなく嫌な響きがした。


 今更ながら、学校が静か過ぎることに気付く。

 図書室には司書を含め私と先生以外誰もいないし、廊下からは誰の声も聞こえない。いくら放課後と言えど奇妙だ。


 これは、おかしい。


 「ちょっと連れていきたいところがあるんだよ。高い所とか平気ぃ? 怖い人だったらごめんね」


 心臓の鼓動が早まる。怖い、なぜだか、先生が、とても。


 かつ。かつ。かつ。


 先生の足音が近づいてくる。身体が震える。指が固まって、扉が開けられない。


 「それじゃ、少しだけ眠ってもらおうかな」


 「────────あ」


 首を掴まれる。爪が首筋に食い込み、何かが注射される。意識が沈む。視界が暗転する。




 俺はこの日まっすぐ家に帰り、自分の部屋にいた。当然イグニスも隣にいる。


 昨日は夜になっても蟲が出なかった、落ち着いた一日だった。

 だからこそ、今日という日に何かあるのではないかと睨んで待機している。


 そして、その予想は的中した。


 ガタ。

 ガタガタガタ。


 「……修二、揺れてないか?」

 「ああ……。揺れてるな、これ」


 ガタガタガタガタガタガタ。


 気のせいではない。床が、地面が揺れていた。地震か? いや、違う。

 窓の外、学校の方で大きな砂煙が巻き上がった。見間違いでなければ、何かが動いている気がする。


 「行くぞイグニス! 学校だ!」



 家を飛び出し、斜陽を浴びながら全速力で自転車を漕ぐ。遠目からでも、学校がどうなっているかはよく分かった。なにせ形が変わっているのだ。


 これは、間違いなく敵襲だ。


 目的地に到着し自転車を降りる。大きな、非常に大きな蟲が、半壊した校舎の奥からゆったりとその姿を現した。


 飛んでいる。その黒い蟲は、背中に堅牢そうな甲殻をいくつも重ねながらも、校舎を簡単に押しつぶせそうな巨体を有しながらも飛んでいた。

 その巨体に何対ものトンボのような翅が生えている。その全容はさながら空飛ぶダンゴムシであった。


 「すごいな、修二……」


 「なんだよこれ、いくらなんでも無茶苦茶だろ……!」


 空を見上げ呆けている場合ではない、急いで昇降口まで向かう。学校はその南側だけペタンコと言えるほどに崩落していた。

 校庭に大穴が開いており、南側はその陥没に巻き込まれたらしい。あの蟲は地下から出てきたのか。


 「クソ、ふざけたことしやがって! 変身するぞ────」 


 『まぁ待ちな、緋山修二君』


 「なっ……!?」


 声が一帯に響く。出所はあの空を飛ぶ超巨大蟲のようだった。だが、信じられない。まさか蟲が喋るわけがないだろう。


 「修二、あの蟲の上に誰かいるぞ! 二人だ、二人いる!」


 イグニスに言われて必死に目を凝らすが、遠くて肉眼ではよく見えない。だが蟲の頭の上にチラチラと動く何かがいるのは分かった。


 『これはねぇ、この蟲、あ、名前は特にないんだけど。そうだなぁ、簡単に名付けるなら超巨大甲殻虫? まんまだね。とにかくコイツをスピーカー代わりにして喋ってるの』


 聞き覚えのある声。俺はこの声を、ほとんど毎日聞いている。忘れるはずもない担任の声だ。


 「なっ……! 虹森先生!?」


 『君がね、一昨日散々暴れた狼だっていうのは知ってる。いいとこで邪魔が入ったなぁ。もう少しで殺せるとこだったのに』


 「虹森? 敵の親玉が修二の先生なのか、なんという偶然だ……!」


 「先生、答えて下さい! なんでこんなことしてるんです!」


 先生はちょっと変な先生だった。時間にはルーズだし、いつも気怠げだし、スーツはヨレている。

 でも誰かが悪いことをしても怒鳴ったりしないし、優しく諭して傷が残らないようにしてくれる、そんな人だった。

 俺はそんな先生のことをそれほど好きなわけではなかった。だけども、嫌いではなかった。どちらかというと好きな方だったんだ。


 『なんでって、そりゃ俺たちのためだよ。この惑星を乗っ取るんだ。人間には死んで貰わないと、なぁ』


 「いつから……、いつから敵になったんですか!」


 『そうね、ひと月前ってとこ? 君たちの担任やる頃にはもう“俺”だったよ』


 「あの教師、乗っ取られたんだ。恐らくは乗っ取り先の記憶や自我を利用している。それが敵のやり方だ」


 そんな……。じゃあ俺の見てきたあの人は、話してきたあの人はそのものでありながら、裏は別人だったっていうのか……!?


 「この……!」


 裏切られた、騙された。このひと月の間教師を装い、あいつは蟲に人を喰わせていた! 変身して攻撃しようと身を乗り出すが────。


 『おお怖いねぇ。でもよしな、こっちには人質がいるんだよ』


 人質……! そうだ、イグニスは二人いると言った!


 『見えるー? 見えないー? あ、そう。じゃあそこの惑星の端末ちゃんに聞いてみな』


 「……女だ。茶髪、三つ編み、メガネ、制服を着ている。心当たりはあるか? 意識はなさそうだ」


 「────────藤音!」


 なんてことだ。藤音がそんな、人質にされるなんて。これは偶然じゃない。

 あいつは、藤音が俺の友人で十分に人質に成り得ると、そう判断して選んだんだ……!


 「お前……お前ぇ!!」


 空から見下ろす男に向かって怒鳴る。頭の奥で何かが弾けた。止めどない怒りが身体中を廻る。


 『動くなよ狼。当然、変身もナシだ。そんなことしたらこの女を殺す』


 今すぐ、今すぐにあいつを殺したい。俺の担任の教師と同じ顔をしたあいつを、俺の友人を巻き込んだあいつを。

 だが、それは出来ない。この場は言われた通りにする他ない。


 「修二……!」


 イグニスは俺の憤りを理解してくれているようだ。真剣な顔で、必死に状況の打開策を考えている。


 「キミは誰だ! 私たちの敵だということは分かりきっているが、その正体をまだ知らない! 何者なんだ、どこから来た!」


 『あ、俺? なに単なる侵略者だよ。遠いとおーい宇宙からやって来たのさ』


 どこまでも軽薄なその口調が、今はとにかく癪に障る。


 『俺たちはこうしていくつもの惑星を乗っ取り、喰い潰してきた。いやぁでも今回は絶品だ! こんなに文明の進んだ強い惑星、そうそうお目に掛かれない!』


 「…………なるほどな、これは我らが目覚めさせられる訳だ。人間だけの力で勝てる相手ではない」


 俺はイグニスにそっと話しかける。


 「イグニス……! 何とかして人質を奪い返す方法はないか……!?」


 「すまん、見つからない。この距離ではたとえお前が変身と同時にジャンプしたとしても、蟲の上の奴に手が届くかすら怪しい。例え届いたとしても人質は既に死んでいる……!」


 思い切り歯を食いしばる。手を握り込みすぎて血が流れ落ちる。


 『もういいだろ、さっさと死んでくれよ。ほら』


 「──────修二!」


 空中で何かが光り、すぐさまイグニスが俺に覆いかぶさる。次の瞬間、赤い鮮血が俺の頬を濡らした。


 「ぐぅ……!」


 「イグニス!」


 彼女の左肩に穴が開いている。まるで銃で撃たれたような、そんな傷。


 ブゥン、と蟲の羽ばたく音が聞こえた。

 前方二十mほどの位置に、銀色の蜂のような蟲が大量にホバリングしている。他の蟲のように巨大ではなく、大きさは通常の蜂と遜色ないだろう。


 「修二は動いてない! これならいいだろ……!」


 『あっはっは庇うんだぁ。ま、いいよ。どうせどっちも殺すんだから楽しい方がいい。ほらちゃんと庇いな、じゃないと緋山君死んじゃうからさぁ!』


 銀色の蜂がこちらに狙いを定める。イグニスは眉間にしわを寄せながら目を閉じる。俺は、何もできない。

 また空中で光った。ヒュゥン、と何かが空を裂く音がいくつも重なって聞こえる。


 そして、イグニスの背中から血が噴き出た。


 「あああああぁっ!!」


 イグニスの悲鳴が耳元で聞こえる。イグニスの背中に手を回すと、腕までべっとりと血の色に染まった。

 銀色の破片が黒いドレスにひっかかっている。その時理解した。あの銀色の蜂が超高速で体当たりをして、それがまるで銃弾のようにイグニスを撃ち抜いているのだ。


 「すまん、修二……。一発貫通させてしまった……」


 どうやら銃弾の一発がイグニスの脇腹を貫き、俺の腹にまで届いたらしい。もちろん痛いのだが、彼女に言われるまで気づかなかった。

 俺はそれほどまでにイグニスのことを案じ、怒っていたからだ。


 『弾丸蜂十発をお見舞いしたんだけどなぁ。全部喰らっても意識があるとかしぶといねぇ、死なないっていうのも辛いもんだ』


 イグニスの出血が止まらない。

 イグニスは俺を死なせないように、その身を盾にしている。あいつはこのままイグニスを嬲り者にする気だ。


 「安心しろ……。私は、これでは死なない……。ああでも、意識を失うのは……不味い……」


 「何が安心しろ、だ……! 死なないからって、痛いものは痛いんだろうがっ……!」


 ひどく弱った少女の声。絵具のような赤色は地面をキャンバスにして、大きな水たまりを描く。


 人生で、これほどまでに怒りを感じたことはない。

 関係のない民衆を大勢巻き込み、友人を人質にして、大切な人を遊び半分で盾にさせ、自分は安全な高い所から卑怯に笑う。到底許されるものではない。


 これはまごうことなき悪だ。

 その悪にも、何もできない無力な自分にも、怒りが湧いてきて止まらない。


 『お次は三十匹。契約者ごと跡形もなく吹き飛んでしまえ』


 弾丸蜂と呼ばれたその蟲はゆっくりとこちらに近づいてくる。はっきりと見せつけて、死の恐怖を味合わせようというのか。

 終わる。またこれか、今度は戦いにすらなっていない。許されない。認められない。こんな運命は、決して────。


 「油断は……禁物だな。構えろ、修二」


 イグニスの口角が上がる。




 「──速く、速く、より速く、さらに向こうへ」


 「我は水を識る者、泉の守護者」


 「渦を巻くこの一撃が、あらゆる敵を穿ち貫く」


 「変身──── ラピドゥスグラディウス!」



 ダン、と何かが着地する音が聞こえた。


 「チッ……。来やがったか、だが想定内だ!」


 教師だった男は振り向いて新手の姿を確認する。


 五十mほどの距離に、異形の人型が立っていた。持ち手のない剣を額から真っすぐ生やしたような、非常に特徴的なシルエット。まだ無事な校舎北の屋上から飛び移って来たらしい。

 男は人質を盾にしようと首を掴む手の力を強める。同時に、近くに控えさせておいた弾丸蜂を二十匹発射した。


 「な──────」


 だが遅い。

 五十mという距離は、ラピドゥスグラディウスにとっては一瞬で詰められる距離だった。


 弾丸蜂の迎撃を何発か身体に受けながらも、その頭の剣は確かに男の心臓を貫き、その速度が殺されるまで何mかブレーキをかける。

 人質を殺すことすら間に合わなかった。男の手の力が抜け、女は眠ったまま超巨大甲殻虫の頭を滑り落ちていく。

 心臓の剣が引き抜かれ放られる、男は黒い甲殻の上をずり落ち、このままなら超巨大甲殻虫の顔面を通過し地表の穴まで落下していくだろう。


 「これはちょっと、誤算だなぁ」


 男はそうぼやくと超巨大甲殻虫は口を開け、男を一飲みにした。


 「このっ……間に合わない!」


 滑り落ちる藤音華に対し、急いで駈け寄ったラピドゥスグラディウスが手を伸ばす。


 が、届かない。人質の女はそのまま空中に放り出された。



 「──この身、この血を我が神に捧ぐ」


 「鋼を纏い、爪を磨き、炉心に火を灯そう」


 「我が祈りを以て今、敵を討つ牙を得ん」


 「変身──── アルゲンルプス!」



 黄昏の空の下、少女が一人逆さまに落ちていく。風を全身に受け、少女は目を覚ました。


 「あ、え────、嘘ぉ!?」


 状況の整理が全くつかない様子だが、今自分は落下していて、このままでは間違いなく死ぬということだけは分かったようだ。


 「や、やだやだやだ! 死にたくないぃ!」


 もがくも、どうにもならない。人間に空を飛ぶ力はない。

 だが、人間でないのならば話は別だ。


 「うおおおおお! 届けえぇぇえ!」


 銀色のロボットが空中で少女をキャッチする。そのスラスター出力で限界まで跳躍してきたようだ。


 「ロ、ロ、ロボットぉ!?」


 「掴まれ! あと喋るな! 舌を噛むぞ!」


 目の前の未知の存在に興奮する少女だが、舌は噛みたくないので言われた通りにした。


 アルゲンルプス──緋山修二は無事に藤音華を救出できたが、その後のことは考えていなかった。

 いや、超巨大甲殻虫の上で何かが起きたのを察し、落ちてきた人影を助けに飛び出したのもほとんど反射だった。


 「絶対……守り切ってやらぁああああ!」


 ジャンプは放物線を描く。

 アルゲンルプスはスラスターで減速しながらも勢いよく地表の大穴に落下し、その壁面に身体を衝突させ、擦られながら奥へと転がっていく。

 身体がボールのように跳ね、ようやく穴の奥、校舎の瓦礫と砕けた岩盤でできたすり鉢の底へと到達する。


 友人を掴んでいた腕を、そっと離した。


 「怪我は……ないか……?」


 「あ、な……ない、けど……! でも……」


 アルゲンルプスの身体は、所々火花を出している。何も知らない藤音から見ても、明らかに調子が悪そうだ。


 「しゅ……契約者! 大丈夫か!?」


 数十m上、穴の端から金髪の少女が不安そうに顔を覗かせる。


 「俺は……大丈夫だ。まだ戦える。待ってろ、今この穴から上に出して────」


 ────ぼとり。


 全長八mほどの巨大蜘蛛が二匹、全長十五mの巨大百足が一匹、空から穴の底へ落ちてきた。上空の超巨大甲殻虫から落とされたようだ。


 『狼! まずはお前から片付ける!』


 侵略者の男は超巨大甲殻虫と一体化し、その脚一本の間接の動きまで全てをコントロールする。

 これは元からそういう設計で、男が巨大蟲による侵略を十全に進めるための空母のような蟲がこの超巨大甲殻虫だ。

 その全長なんと二百m。内部には浮遊するためのガスと多数の巨大蟲を格納し生産している。


 丸まって落ちてきた巨大蟲は、すぐさま起き上がり戦闘態勢をとる。

 人間と違い、遥か上空から落ちても蟲はその空気抵抗と軽さによりダメージを受けにくい。この特性は大型となったこの兵士にも存在している。


 「ああ、あああ────!」


 眼前の巨大蟲を前にして、藤音は激しい死の恐怖を感じる。身体がストレスを受け、悪い病気を誘発する。

 ヒューヒューと息が切れる。気道が圧迫され、声も出ない。幼いころに罹った病だ。藤音は今にも泣きそうだったが、震える少女の肩を金属の手が叩いた。


 「任せろ」


 銀の狼はまっすぐ巨大蟲に向かって歩いていく。

 巨大蜘蛛が糸を吹き付ける。だがそれは難なく躱され懐に潜り込まれ、狼の左腕が蜘蛛の頭をぶち抜く。その蜘蛛は一瞬で絶命するが、もう一匹の蜘蛛が牙をむき襲い掛かる。


 狼の右腕が襲い掛かる蜘蛛の脚に触れると、それは粘土細工のようにもげた。

 掴んだ脚は捨て、狼は体勢を崩した大蜘蛛を無視し背後から喰らいつく百足の攻撃を避ける。


 すれ違いざまに百足の胴体を手刀で両断すると、百足の上半身を持ち大蜘蛛の頭に叩きつけた。百足の牙が大蜘蛛の頭に突き刺さったところに、右腕のストレートで諸共吹き飛ばす。


 この間およそ十数秒の出来事だった。

 怒りの果てに自らの挙動を戦闘に最適化させた殺戮機械、それが今のアルゲンルプスだ。


 『馬鹿な……! クソ、ならこれはどうだ!』


 巨大蟲が十匹以上、さらに弾丸蜂の群れが穴の底まで降下してくる。

 狙いは狼────ではなく、藤音華。


 それを察知した修二は、藤音を抱えると穴の壁面を思いっきり駆け始めた。


 「きゃあああ!?」


 「イグニス、頼む!」


 穴を上り切ると、修二は藤音をイグニスにパスした。

 イグニスの怪我はまだ完治とは言えないが半分近くは癒えている。イグニスは藤音を受け取ると、戦闘に巻き込まれないところまで持っていく。


 修二は再び、穴の底へと身を投げる。

 追いかけてくる弾丸蜂や巨大蟲とすれ違う形になり、瞬間、アルゲンルプスが全身から熱気を放つ。鉄をも融かす放射熱は敵の軍団を残さず捕らえ蒸発させた。


 スラスターで速度を殺し穴の底へ着地する。

 上空、超巨大甲殻虫の腹を見上げると、頭に剣を生やした異形が空中で弾丸蜂に攻撃されながら降って来た。


 「ビーム・クロー!」


 傷だらけのラピドゥスグラディウスをキャッチし、群がる弾丸蜂を光の爪で溶断する。後から続いて巨大蟲がまた十五匹ほど落下してくる。


 「浅間! 大丈夫か!?」


 「いってて……ありがと」


 少しよろめきながらもラピドゥスグラディウスは立ち上がり、戦闘態勢をとる。


 「上であのデカいのに傷をつけようと頑張ったけど、無理だった。殻が堅すぎて手が出せない。口から体内に入ろうとしてみたら、逆に口から巨大蟲を吐かれてご覧の有様」


 巨大蟲が二人に向かって進軍する。その数はどんどん増え続け、圧倒的な物量差の盤面が出来上がっていた。


 「緋山君、どうする? 正直、人間サイズの火力であの巨体をどうこうしようっていうのは無茶なんじゃないかなーって思うんだけど」


 「そうだな……。何とかして蟲の頭さえ潰せれば無力化できるんだが、それすら難しいとなるとな」


 巨大蟲が大波のごとく押し寄せるも、契約者たちは恐怖を見せない。ただ闘志が、怒りが身体を突き動かす。


 「私は右側をやるから、緋山君は左側お願いね」


 「おうよ、楽勝だ」


 二人の攻撃で波はあっという間に崩れ去る。だが、奥からはまた新たな波が次々と迫っている。


 「ビーム・クロー!」


 両腕合わせて十本の黄金の線が蜘蛛を、百足を、蟻を引き裂く。


 「はあああっ!」


 剣の異形の動きは速い。

 その身体全体を使い突進し、すれ違いざまに頭の剣で相手を切り刻む。短距離の突進を得意とするその脚は、敵を土台として加速し次々と蟲の死体を作り出す。

 蟲の波を自在に乗りこなす魚の如き泳ぎ方だった。


 「すごいな、その速さ。俺のカメラでも捉え切れない」


 「どうも。私、速いのが好きなの」


 巨大蟲の死骸が煙を噴き出し、次々と消えて──元に戻っていく。周囲の敵は片付いたが、まだまだ大量の蟲が投下されていく。


 その時、アルゲンルプスに通信が入った。


 「うおっ!? なんだこれ、頭ん中がザーザー言ってる……あ、繋がった」


 『聞こえるか契約者! テレパシーみたいなものを試してみたんだが、成功か?』


 「イグニス! ああ、聞こえてるよ」


 一人でぶつぶつ言う修二に困惑する浅間だったが、彼女も脳内に声を受け取り、理由を理解した。




 『マーレと一緒に奴の弱点を探っていた。もう一人の契約者にもマーレが同じ話をしている。あの超巨大甲殻虫とやらには弱点があるんだ』


 「弱点……! 教えてくれ、なるべく手短に」


 巨大蟲は会話を待ってくれたりはしない。刻一刻とこちらに向かってくるので、戦闘しながら会話を行う。


 『ああ。あの超巨大甲殻虫はその巨体と機能の多さ故に、あの侵略者直接のコントロールが必要なんだ。それが逆に弱点となっている』


 「場所はどこだ!?」


 ビーム・マシンガンが敵の群れを薙ぎ払う。大群に対応するために武装を大量に開放しているが、エネルギー切れも近い。一刻も早くあの男を殺さなければ。


 『……わからん! 少なくともあの超巨大甲殻虫の頭ではあるまい、あからさますぎる。体内のどこかにはいる!』


 「えーっと、話はまさかそれで終わりか!?」


 『しゅう……契約者、キミなら正確な場所が分かるはずだ。超巨大甲殻虫をよく見てみろ!』


 この期に及んで精神論、本気か? いやいやイグニスが言うんだ。何か根拠があるんだろう。

 だが全方位を敵に囲まれているというのに、一瞬だとしても空を見上げるのは難しい。


 「カバーするよ緋山君! 巨大蟲を少しだけ食い止めるから、踏ん張って!」


 「わ、わかった!」


 踏ん張って、とは何をするつもりなのか。言う通りに地面を瓦礫が砕けるほどに踏みしめる。


 次の瞬間、彼女は渦を纏った猛烈な突進で大波に穴を穿った。


 「ランケア・ウェルテクス!」


 突進がぶつかった範囲だけでなく、周りの渦が竜巻のように風を巻き起こし蟲を吹き飛ばしていく。

 遠くに吹き飛んだだけで無事な蟲もいるが、不運な蟲は風と荒れた岩壁に挟まれすりつぶされた。俺も踏ん張っていなければ吹き飛んで同じ末路を辿っていたかもしれない。


 だが、おかげでこちらに対し敵の攻撃が止んだ。空を見上げ、威容を放つ超巨大甲殻虫を見つめる。蟲の体からは、今も弾丸蜂と兵士が絶え間なく送り出されていた。


 「……いや分かんねえぞ!?」


 そうだ、“この”カメラじゃないのかもしれない。モードを切り替える。


 「ああそういうことか……! でもどうすりゃ────」


 ひゅん。


 「うおっ!?」


 「緋山君!」


 無事だったらしい弾丸蜂の一匹に、死角から脚部を撃ち抜かれ膝をつく。装甲を貫通されたようで、右脚はもう立つことができないようだ。


 「クソ、弾丸蜂が────弾丸、か」


 「大丈夫!? 弾丸蜂、また空から来てる!」


 ぶんぶんぶんぶんと実にうざったい。だが、もう終わりだ。


 「弱点、わかったぞ浅間! それで少し力を貸してほしい!」


 「うん、何すればいい?」


 「さっきの────ランケア・ウェルテクス、もう一回できるか?」


 「……大丈夫、でも最後の一発になると思うよ。それでエネルギー切れ」


 それで上等。俺は浅間に作戦を説明する。


 「あっはっはっは! 君、イカレてるんじゃない!? 私のことなんだと思ってるのよ、あはは!」


 「すまん! 時間がないんだ頼む!」


 笑われてしまった。たしかに彼女に無茶させる作戦だし、失敗すれば後はない。もしそうなれば彼女は確実に死ぬだろう。


 「────いいよ、乗ってあげる。そういうの好きだし」



 巨大蟲の軍勢が再び俺たちを殺しに来た。弾丸蜂も数えるのが馬鹿らしい数が空を覆っている。


 対する俺たちは満身創痍。俺は全身のフレームが歪んでいる他、左腕の手甲が大破、胴体部に二か所の裂傷、おまけに右脚が立たない。

 浅間は全身に銃創と切り傷を負い、特に右腕の怪我が酷そうだ。外から見ただけの診断なので、体内の傷は不明だが、それを加味するとまだ戦っているのが異常なほどだろう。


 「緋山君、カウントダウンするね。────三、二、一、ゴー!」


 死がこちらに達する前に作戦を開始する。


 俺は左脚で地面を蹴りスラスターで強引なジャンプをした。浅間も力を溜め、より高高度のジャンプ。当然、これだけでは超巨大甲殻虫に全く届かない。

 俺は右腕を視線の先、星の出始めた空に向かって伸ばす。空中で浅間が俺の右腕を足場に着地する。右肘のブースターを展開、腕の角度を直角にし構えを取る。


 カメラで超巨大甲殻虫の弱点までの軌道を計算する。弱点の位置を知るのは実に単純なことだった。

 使用するのはサーモグラフィー。弱点が真っ赤に染まり向こうから存在を知らせてくれる。

 昆虫というのは変温動物だ。対する人間は恒温動物──そう、蟲の体内に入った男は人間を乗っ取ったことが災いし、周囲より明らかに高い体温を放っていた。


 「軌道修正完了。射角固定。────セット。いけるな、浅間」


 「飛ばしちゃって!」


 ブースターを点火、右腕を浅間の加速器として使い彼女を思いっきり全力で空に打ち上げる。俺の全エネルギーと怒りを込めた魂の一撃。


 「────フルク・ルクス・グラディウス!!」


 竜巻の槍が、ロケットエンジンを点火させたような激しい炎の噴射と共に射出された。そして、それは一瞬にして超巨大甲殻虫を射抜く。


 俺は墜落していく蟲の姿に満足しながら、穴の底に落下する。




 その槍は通常とは比にならない程の加速と回転を得ていた。拳銃弾に対するライフル弾のようなもので、特に貫通力に重点を置いた合体技だ。


 だが、それはつまり身体に対する負担も通常の比ではないことを意味する。

 重傷を負っている状態であるならば、なおさらかかる負担は大きい。浅間はそれを理解していたが、仲間には心配させないために黙っていた。


 「ぐ、ううぅ……っ! それ、でもっ!」


 戦闘機を超える加速により浅間の骨が軋み、血が噴き出る。意識も持っていかれそうになりながらも、敵に狙いを定め剣を構える。

 弾丸蜂が迎撃しようと飛び込んでくるが、この渦の中飛行することは不可能。風の鎧に弾かれ粉々に砕けて散っていく。


 「おいおいどういうことだよ!? 俺の位置がバレてるっていうのか!」


 超巨大甲殻虫の体内、脇腹にあたるところで男は叫ぶ。弱点が分からないあいつらにはもう勝ち目はないと奢っていたツケが回って来た。


 「……クソ、マジかよ。ここまでやって負けるのか俺──────」


 渾身の力を込めた最後の一撃が、超巨大甲殻虫に潜む男を寸分違わず正確に、無慈悲に削り取った。

 空を飛ぶ二百mの巨体は、人間一人分のサイズの穴が開いただけであるがゆっくりと沈み始めた。



 地表から天に放たれた槍は、蟲の分厚い甲殻も難なく貫通し、空中をしばらく飛び続けてやがて勢いをなくし墜ちていく。

 浅間にはもう指一本動かす力すらなかった。逆さまに落下していく中目を閉じる。


 いくら変身していてもこの高度から落ちれば命はない。だが浅間は、生きることを諦めたわけではない。


  ただ、信じた。


 「目標補足。方位修正。落下予測地点確定……せいっ!」


 真っすぐに落下してくる異形を、銀色のロボットが抱き留める。勢いで吹き飛び、二人は岩盤の上で寝そべる形になった。


 「……ありがと、緋山君」


 「無事でよかったよ、浅間」


 二人の変身が解ける。だが互いに動くことはなかった。


 変身中に受けた傷が人間の身体に残ることはないが、ダメージは蓄積している。

 修二は右脚が動かず、右腕も先の一撃で限界を超え稼働させたため肘から先の感覚がない。浅間は全身の痛みが酷く、喋ることすら辛いほどだった。


 空を覆う蟲が煙を噴いて消えながら、校舎北にぶつかり校舎が崩壊する。


 二人はもう暗くなり月が見える空を眺めていた。


 「緋山君って同じ浪間高校だったんだね。まあ、この辺の高校ってここぐらいだしなんとなく分かってたけど」


 「……浅間、なんでスクール水着なんだ?」


 修二は浅間の服装にようやく気付く。

 密着している腕を離したいが、動かないのでどうしようもない。

 普段女性との接触がほとんどない男子高校生にとって、このくっつき合った状況は居心地が悪いのだが、当の浅間は気にしていない様子だった。


 「放課後の学校で泳いでたの。そしたらほら、あれが出てきて。君たちの話は聞こえたから隙を見て人質を助けようとしたんだけどさ」


 「屋上のプール、開いてないだろ」


 「上位者の記憶操作って便利だよ。私が放課後にプールを使っていても不自然じゃないと、水泳部の顧問の先生に思い込ませた」


 「……よくやるな。こんな季節に、そうまでして泳ぎたいもんか?」


 修二はスポーツ全般得意ではないし、泳げないので浅間の水泳に対する熱意は理解できなかった。


 「私の夢は世界一速く泳ぐこと。契約の対価として、マーレに私がいつでも水泳の練習ができるように協力させただけ。じゃないと不平等でしょ」


 「契約の対価、か……」


 「修二ー! 無事かー!?」


 黒いドレスの金髪の少女が穴を下りてくる。急な斜面を器用に飛び跳ねていく。


 「緋山君って夢はある?」


 「俺は……皆が平和に暮らせるなら、それでいいよ」


 「謙虚な人。でも、いいね」


 イグニスが修二に駆け寄る。いつの間にかマーレもそこにいた。

 二人の上位者はそれぞれの契約者を抱え、飛行する蟲の通報を受け集まっていた警察から逃げながら家に帰った。


 巨大蟲事件はこれで一応の終息を得る。

 これまで何度も街が襲われ被害者も出たものの、二組の上位者と契約者の活躍により、その規模からすれば非常に少ない犠牲であった。


 テレビは何度も巨大蟲と戦う人型のロボットと頭から剣を伸ばす異形のことを報道するが、依然として正体は不明のままだ。

 兎にも角にもこれで街は平和になる、多くの人はそう考えた。


 だが、これはまだ幕開けに過ぎない。本当の侵略はこれから始まる。

 ────夜空で、不吉な星が一つ輝く。

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