その警察官は、緑のたぬきが食べられない。

薮坂

世界で一番の蕎麦


 思わず自分の机に突っ伏しそうになるのを、すんでのところで何とか堪える。今日の当直勤務も、ある意味絶好調だ。

 行方不明事案にストーカー相談。DVからのシェルター避難に児童虐待事案。見事に生活安全課主管の事案ばかりだ。


 自席に座って時計を見ると、時刻は午前二時過ぎ。午後六時からの当直が始まって、かれこれ八時間。やっと落ち着いて座れた。

 座っただけなのにこんなにも幸せを感じてしまうなんて。これはきっともう末期だ。


「もう二時か、腹減ったなァ。詩織シオリィ、なんか食いもん持ってへんか? できればガッツリ系のヤツがええな」


 いつも通りのデカい関西弁で、私にそう問うたのは直属の上司である谷上たにがみ班長。五十歳を超えているのに元気ハツラツ、この警察署の生活安全課防犯係の名物班長だ。

 今日の当直は班長と一緒だから楽ができると思っていたのにコレ。間違いなく今年一番のハズレ当直。


「班長、午前二時ですよ。今からガッツリ系ですか?」


「警察官はカラダが資本やぞ。今食わんでいつ食うねん。でもワシは今、非常食切らしとるんや。何でもええから譲ってくれ」


「えっと、赤いきつねと緑のたぬきならありますけど。班長、どっちがいいです? 蕎麦派だからやっぱりたぬきですか?」


「……いや、きつね貰うわ」


 珍しく逡巡するような仕草を見せて、班長は続けた。


「確かにワシは蕎麦派やけどな。それだけは食わんことにしとるんや」


「あんまり好みじゃないとか?」


「いや逆や。いろんな蕎麦を食うてきたけど、未だに『あの時のたぬき』を超える蕎麦は食うたことがない。それくらい好きや。でも、だからこそ食わんと決めてるんや」


「どういうことですか?」


「……お前にはまだ話したことなかったな。ええ機会やから話したろか。ワシが緑のたぬきを食わへん理由をな」




 ◆




 そん時のワシは駆け出しの交番の巡査でな。今の詩織みたいに、右と左が辛うじてわかるくらいのぺーぺーやった。


 その日は公休でな。完徹の勤務明けで帰って来て、夕方くらいから寮で気絶するように寝てたんや。ぐうぐうイビキかいてなァ。

 ワシは一回寝たらなかなか起きられへん。でもそのワシがや。文字通り飛び起きたんや。



 平成七年一月十七日、午前五時四十六分。

 阪神・淡路大震災。



 地の底から突き上げるような衝撃と、ものすごい地鳴り。地震や、おもた時はもう部屋の中がめちゃくちゃになっとった。


 なんにもできへんかった。薄っぺらい布団に包まって、揺れが収まるんを待つことしかできへんかった。そしたらな、まだ揺れとるのに隣の部屋の先輩巡査が飛び込んできたんや。


 谷上たにがみ、無事かぁ! 言うてな。ほんで先輩はすぐさま続けたんや。


「出動用の編み上げ靴、用意せぇ。今から本署に向かうで」



 ワシと先輩は傾いた寮を後にして、そっから徒歩で本署に向かった。そこは古い寮でな。住んどる人数も少なくて、ワシらの他の人間は当番中やった。せやから二人で本署に向かうことにしたんや。


 道すがら思たわ。いつもの道を歩いとるのに、もう別世界やと。倒壊した家屋、傾いた雑居ビル。線路も曲がっとったし、電柱は折れて、あちこち火の手が上がっとった。

 とにかく本署に行って、上司の指揮下に入らなあかん。警察の強みは部隊活動や。個人で動いても高が知れとる。せやからワシと先輩は急いで瓦礫の道を歩いたんや。


 丁度、本署まで半分くらいになった時や。一階部分が崩れた家の前で、泣き叫ぶ小学生くらいの子供を見つけた。男の子は必死で「助けて」言うて叫んどった。



「おかんが、おかんが家の中におるねん。おっちゃん助けて。僕じゃどうしようもできひんねん」


 建物は小さい商店やった。一階部分が店舗で二階が住居。一階は完全にへしゃげとる。二階で寝とったなら、まだ可能性はあるかも知れん。

 でもこういう時、優先順位は本署に向かうことや。部隊編成して組織的に動く。そう警察学校で教えられた。そやけど、その子を無視なんかできへんかった。


 ワシと先輩は、必死で瓦礫を掻き分けた。装備なんかない、素手や。崩れてひくなった屋根に登って、壊れたとこから瓦を退けて、「返事してくれ!」って叫びながら作業を続けた。


 そしたらな。か細い声で、崩れた家の中から「ここです」って聞こえたんや。ワシらはその声の方に向かって瓦礫を退け続けた。ほんで遂にな、布団に包まってる人を見つけたんや。


 ワシらが「大丈夫ですか」って声掛けしたら、その母親は、「息子がおるんです。でも近くに見えへん。息子を先に助けて下さい」って言うんや。

 ほんま、親はすごいと思たで。この状況で息子を心配しとる。家族の力ってすごいなと、ほんまに思たわ。

 まだ心配しとるその母親に、もちろんワシは言うた。


「息子さんは無事です。ワシらを呼んでくれたんは息子さんです。家の外におって、今は安全や。せやからお母さんを助ける。すぐに瓦礫退けるから、待っといて下さい」


 先輩と協力して、そのあたりの瓦礫を手当たり次第に退けて、何とかその母親を外に出すことができた。母親は奇跡的に無事やった。布団に包まっとったから擦り傷程度やったし、布団がうまい具合に瓦礫と身体の引っ掛かりを避けてくれたんや。


 崩れた家の外で抱き合う親子を見て、とにかくほっとしたんを覚えてる。聞いてみたら母子家庭らしかった。ほんまよかったと安堵した。

 でもいつまでもそうしてはおられん。ワシらは本署に向かわなあかん。もう行くことを親子に告げて離れようとしたら。その息子がワシらを呼び止めたんや。



「おっちゃんたち、ほんまにありがとう。感謝しても足りひん。ほんまにありがとう」


「ええんや。ワシらこう見えて、お巡りさんやからな。困っとる人を助けるんが仕事やねん」


「警察官なんや。僕、将来はおっちゃんたちみたいな警察官になる。おっちゃんたちは、僕のヒーローや。僕もそんなヒーローになりたい」


「ほな、まずはお母さん助けたってな。どっか怪我しとるかも知れん。もうすぐ学校とかに避難所が作られる。そこ行って、お医者さんに診てもらうんやで」


「うん、わかった。ありがとう。あ、そや。これ持って行って。お腹空いたらそれ食べて、他の人らも助けたって」


 瓦礫と一緒に散らばっとった、緑のたぬき。一階の商店部分は潰れとったけど、辛うじて無事やった商品。それを先輩と一個ずつ貰った。これから食料の確保とかが難しくなるやろから断ったんやけど、その子は頑として譲らんかった。


「誰かに助けてもろたら、精一杯のお礼をするように学校で教えてもろた。それが僕の精一杯。そやから受け取って欲しいねん」


 警察官は、人を助けて当たり前や。本来お礼なんか受け取らん。でもその子の目は真剣やった。その思いをふいにはできへん思てな。

 その子にお礼を言うてそれ受け取って。リュックに詰めて、本署に向かった。その子はワシらが見えんくなるまで手ェ振ってくれてたわ。



 そっからは激務やった。本署に着いたら非番公休なんかあらへん。ずっと働き詰めや。

 署にはいろんな情報が飛び交っとった。

 管内のどこそこが燃えてる、避難が遅れとる。誰それと連絡が取られんとか、別の署では一階部分が倒壊して警察官が生き埋めになっとる、とかな。


 これが現実とは思えへんかった。でも悲しいくらいに現実や。

 ワシらは無心で働いた。助けられた命もあれば、助けられんかった命もある。亡くなった同僚もおった。

 ほんまにいろんなことがあった。もう経験したないくらい、いろんなことがな。



 ほんで、不眠不休で働き詰めて二日か三日経った時や。ワシと先輩に仮眠時間が与えられた。災害備蓄食料は市民に回しとる。せやから補給は自分らでなんとかしろってことやったけど、ワシと先輩には、あの子にもろた緑のたぬきがあったんや。

 警備課が持っとったキャンプ用のバーナーでお湯沸かしてな。先輩と二人で、地べたに座って食うたんや。


 ──その味はほんま、この世のもんとは思えんくらいの美味さでな。恥ずかしい話、涙出たわ。あんな美味い蕎麦は、きっともう味わえん。誰がなんと言おうと、この世で一番美味い食べもんは緑のたぬきなんや。


 せやからな。ワシはあれを食べられへん。食べるとあの時を思い出してまうとか、そんな話やないんや。

 なんとなくあの時のたぬきの味を、あの時のままにしときたい。もちろん今食うても美味いんは間違いない。でもワシはな、どうしても比べてまうと思うんや。


 だから食べへん。好きやからこそ、食べへんのや。そんなこだわりがあっても、ええと思わへんか?





「……そんなことがあったんですね。わかる気がします。班長の言ってること。あの時の美味しさ、思い出をそのままにしておきたい。そういうの、いいと思います」


「なんや、恥ずかしい話してもうたなァ」


「そんなことないですよ。それじゃ、私がたぬきを貰いますね」


 そう言って私は、班長に赤いきつねを手渡す。班長は少しだけ恥ずかしそうな顔をして、「腹いっぱいやのうて、胸いっぱいになってもうたなァ」と訳の分からない照れ隠しをしていた。


 クスリと小さく私は笑って。緑のたぬきのフタを開けて、粉末スープを入れてからお湯を注ぐ。ふわりと漂う出汁の優しい香り。それを見た班長が私に言う。


「……そや詩織ィ、知っとるか? 警察官のジンクス。ゆったりしてる時に、カップ麺にお湯を注ぐとなァ」


 その時だ。課室かしつに鳴り響いたのは、署活系しょかつけい無線むせんの音。


『県警本部から指令。貴署管内において、行方不明事案が発生。生活安全課当直員は至急初動対応に当たれ』



「……ほれ見ろ、バッチリ当たったやないか。警察官がカップ麺食う時はなぁ、気ィつけなあかんのや! ほら行くで詩織ィ!」


「今お湯入れたとこなんですけど!」


「大丈夫や。多少伸びても、たぬきは美味い。なんせ世界で一番の蕎麦やからなァ!」


 班長は何かを誇るように言う。それを見て私は思う。


 食べられない癖に班長は本当に。

 緑のたぬきが大好きなんだな、と。



【終】







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その警察官は、緑のたぬきが食べられない。 薮坂 @yabusaka

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