蠱毒の姫

潮風凛

この世は皆皿の上

 闇夜の尖塔。月光も届かず小さな蝋燭の灯が頼りなく照らす部屋で、銀の盆を抱えた私が口を開く。


「いかがでしょうか、お嬢様」


 愛しい主は天蓋の幕を少し開いた寝台の中。真っ白な敷布を強く握る手に浮かぶ汗。顔を隠す豊かで柔らかな金髪の隙間から漏れ聞こえる荒い息。時折我慢できず苦悶の声を上げる彼女に益々愛しさを募らし、私は興奮に少しうわずった声で言葉を重ねる。


「私が調合した毒は、お気に召したでしょうか? 今日のは結構自信作なんですよ」


 ただ眠るだけなんてつまらない。ありきたりで短い効果ではもったいない。珍しく長く、決して死なさず執拗に、お嬢様の美しい姿を長く楽しむことができるものが良い。

 毎晩、私はお嬢様に毒を渡していた。私とお嬢様以外の人が見たら驚くどころでは済まないだろう。例えば他の使用人や彼女の自称夫がこの状況を見つけたら、すぐに私を牢屋にいれてお嬢様には解毒剤を投与するのに違いない。

 だが、私はお嬢様に解毒剤を渡さない。苦しむ姿を見守り、耐え抜くまで待つ。これは、お嬢様が私に命じられたことだった。

 今日と良く似た、闇ばかりで星の見えない夜だったと思う。御自ら毒の盃を煽って苦しんでいるお嬢様を、私は見た。一晩経って再び相見えた彼女は、ずっと隠していた秘密がばれた子供のように恥ずかしそうに微笑んだ。何故こんなことをしているのかと問いかければ、一転して艶やかな笑みを浮かべる。


「わたくしは、虫を欠いた蠱毒の壺なのです。いつか己を毒で満たして、自ら最も強い虫にならなければ」

 夫と彼女の領地を滅ぼして復讐を果たし、自由の身になるために。


 *


 我が主の身の上は、哀しくも今の時代にはありふれた悲劇のひとつであるといえる。

 国王の権威が失墜し、それぞれ小さな領地を治める大貴族が新たな土地の確保とあわよくば己の手で新しく国を統一する野望を抱いていた時代。隣の領主に襲われたお嬢様の故郷は、壊滅的な被害にあったという。ご両親は無惨にも刺し殺され民は逃げ、お嬢様は屈辱的なことに敵の領地に囚われの身になった。若くして武勇に誉れ高い、領主の次男坊に一目惚れされて。

 それから暫く敵地でのお嬢様の立場は曖昧だったが、次男坊が辺境の飛び地を任されてそこの領主になった時、彼女はお嬢様に自分が女であることを明かした。そして今まで男として生きてきたこと、これからもそうやって生きていくためにお嬢様を妻にすることを告げた。今まで少しの会話もしようとしなかった人物からの、突然の宣告。お嬢様は酷く驚いたが、同時に激しく憤慨したという。自由と尊厳を何よりも愛する主だ。その時の様子は想像に難くない。


「変な女よね。きっと多くの苦労をしてきたのでしょう。でも、仇に売り渡すほどわたくしの人生は安くないわ」


 彼女はそう言って、私に特別な瓶を見せてくださった。ブルーブラックの硝子の瓶を満たす、僅かに赤みを帯びた液体。これはお嬢様の故郷に長く伝わり、彼女が初めて用いた毒だという。


「毒は女の武器。男のように剣を振ることはできずとも、醜く抗ってでも生き残るために。いざという時貴女の自由と誇りを守るために使いなさいとお母様に渡されていたのです」


 覚悟と誇りに輝く顔には、何の躊躇いも見当たらない。敵に同情を抱いた者から死ぬのだ。

 そしてお嬢様は、母君の形見を手に初めての戦場に臨んだ。夫となる予定の女を殺して自由を手に入れるために。


「……まあ、結果は散々なものでしたが」


 その結果が、お嬢様が自ら毒を飲み「蠱毒の姫」となるきっかけになったのだ。


 *


 誰かがもがき苦しんだ夜があっても、朝日は毎日平等に人々を照らす。

 私が毒を差し上げた翌朝、お嬢様は疲れた顔でまだ布団の中にいた。すぐ傍に傅き、細い腕をとって脈を確認する。脈拍、呼吸音、体温ともに正常。異様な発疹や手足の震えも見当たらない。調合した毒の諸症状を確認した私は、既に彼女の身体にそれが見当たらないことに安堵の溜息を吐いた。今回も、お嬢様は無事耐え抜いたのだ。毎回量と濃度は厳密に調整し、初めての毒は薄く早く抜けるように気をつけているけれど、確認の度に不安と恐怖が全身を震わせる。死なせたいわけではない。まだ、この時間を終わらせるわけにはいかないのだ。


(今日は領主様がお出でになる予定もないし、もう少し寝かせてさしあげようかしら。どうせ、この尖塔を訪れる人なんて誰もいないだろうし)


 吐息が頬にかかるほど近くで美しい寝顔を見つめながら、私は心の中で呟く。この尖塔は「魔女の塔」と呼ばれ、領主の許嫁の部屋がありながら私と領主様以外滅多に訪れないのだ。お嬢様に用がある使用人も塔の中までは入らず、怯えた様子で私に用事を伝える。「毒の魔女姫には恐ろしくてとても近づけない」と。

 お嬢様は、己を示して「蠱毒の姫」を公称していた。毒を飲んで苦しむ姿こそ私以外には見せないものの、珍しい毒を入手しては塔に集めていることを誰にも憚らない。「領主の愛する人は、宝石やドレスよりも毒が好きな狂気の姫君」という噂が広がるには十分だった。

 異郷から連れてこられた姫は、自らの境遇を嘆くあまり魔女と約束を交わし、人の心を捨て毒に執心するようになった。そう人々は口々に語る。そのきっかけは、彼女が来たばかりの頃に起きたあるひとつの事件だという。

 その事件こそお嬢様の初陣。未だ領内で語り草になる「毒殺事件」である。


 *


 事件当日、お嬢様は毒の小瓶を携えて領主様とのお茶会に臨んだ。

 お嬢様が領主様を誘って開いたお茶会だったという。視界の悪い生垣迷路の中に用意された花園のテーブルで二人きり。給仕の者も茶といくらかの菓子を用意した後、二人を邪魔しないようにその場を立ち去った。絶好の毒殺日和。覚悟を決めていたお嬢様は少しの動揺も見せなかった。隙を見計らって領主様のティーカップに毒を垂らした後も、悠然と微笑むことができたほど。一切の抜かりもない。作成は成功すると考えられた。

 しかし、数分の内に領主様の全身の筋肉を弛緩させ心臓の拍動も止めて死に至らせるはずの毒は、いくら待てども何の効果も発揮しなかった。ティーカップに口をつけた領主様は、その後も変わらずお嬢様に微笑みを向けている。お嬢様は毒が効かなかったことに激しく動揺した。が、表面上は辛うじて微笑を保ち、テーブルの上を彩る宝石のような美しい菓子に手をつけた。外国のものだろうか。これは故郷でも食べたことがないと領主様に喜びを伝え、サクサクとした生地を小さく噛み千切る。その時、事件が起きた。


『ほんのひとくち食べただけなのよ。初めて食べるものだったから緊張して、ひとくちよりも少なかったかもしれない。領主が飲んだお茶よりずっと少なかった。でも、たったそれだけで、わたくしの弱い身体ははっきりと毒に反応したのです』


 眩暈。立ちくらみ。一瞬で全身の感覚が消え、お嬢様は眠るように意識を失った。呼吸も止まり、領主様が解毒剤を投与して適切な介抱をしなければそのまま死んでいただろう。寝台の中で意識を取り戻した彼女は、殺そうとした相手に介抱されたことを激しく恥じた。

 お嬢様に毒を盛ったのは領主様ではなく、お茶会の準備をした使用人の方だった。彼女は異郷の娘に主人が惚れたことに憤り、主人共々殺してしまおうと考えたらしい。結果的に領主様はお嬢様に命を救われたことになる。彼女は許嫁に感謝を示し、実際は領主様を殺そうとしていたお嬢様はそれを複雑な気持ちで受け取った。

 その領主様は、何故お嬢様の毒で死ななかったのか。事件から暫く経った後、彼女は自分の作戦が失敗した理由を知る。幼い頃から危険と隣り合わせに生きてきた領主様は古今東西の様々な毒を知り、自衛のために己の身体を慣らしていたのだ。


『わたくしは、この事件によって己の弱さを知ったのです。復讐を果たすためには、わたくしもそれに足る強さを手に入れなければ。どんな毒にも負けず、逆に相手を呪い殺す蠱毒を耐え抜いた虫に』


 領主様の秘密を知った日の夜、お嬢様は自ら小瓶の毒を飲んだ。もちろん解毒剤を持っていたが使わず、全身を激しく襲う苦痛を耐え抜く。翌日には別の毒を入手し、その日の晩に御身で試す。何日か掛けて完全に耐性を手に入れたら、次は新たな毒を。

 あれから幾日が経ったのか。お嬢様が毒を試す日々は今日まで続いている。


 *


 寝物語のようにお嬢様からその話を聞いた時、私は当時自分がお嬢様の傍にいなかったことを後悔した。

 もしかしたらその時、お嬢様は死んでいたかもしれないのだ。そうしたら私に任されていた命令も立ち消えて、お嬢様とも会えず、何の成果も得られず意気消沈しながら故郷に帰ったのに違いない。

 そう、任務を帯びて旅をし、お嬢様に拾われて専属の使用人になった私はこの領地の人間ではない。色々な意味で、領内で最もお嬢様に近いであろう女だった。

 お嬢様も私を同類と思い憐れんでくださるのか、何かと肩身の狭い敵の城で気安さを感じているのか。誰もが彼女を遠巻きにしても、私だけは側に置きたがった。私も周囲の目に構わず毎日塔に上り、これ幸いとお嬢様の横に立ち常に離れなかった。そうして毎日一番近くでお姿を見ていると、彼女にも他人には見せない様々な表情があることが分かるのだ。

 例えば、寝起きの未だ半分夢を見ているようなとろんとした瞳で私を探す顔とか。


「ミオ……?」

「ここにおりますよ、お嬢様」


 呼ぶ声に応えてそっと頬を撫でれば、猫のような琥珀色の瞳をゆるりと細めてにっこりと微笑むお嬢様。苦しむお姿も足先から頭頂まで興奮が駆け昇るほど扇情的で美しいけれど、寝起きはまた格別の愛らしさ。無邪気な微笑みは誰をも虜にし、私などは何度彼女を抱きしめて胸の中で泣いてしまいたいと思ったか分からない。あまりに綺麗で、私の過去も罪も何もかも話してしまいたくなって。

 彼女が婚約者を殺したくて殺したくて、己の身を毒で染めようとしている狂気の「蠱毒の姫」とはとても信じられない純粋な笑顔。

 私は衝動に耐えきれず、ゆっくりと身を起こしたお嬢様の小さな手をそっと握った。細い指に己の指を絡めて、二人の体温で隙間が熱を帯びるのを感じて涙が込み上げる。ああ、こんなに普通の触れ合いだって本当はできるのに。


「……お辛くは、ないですか」


 様々な思いを込めた私の問いかけに、お嬢様は「大丈夫よ」と囁いて笑みを深めた。


「心配しなくても、もう平気。ちょっと疲れてはいるけれど、すぐに動けるようになるわ。ミオがきちんと調整してくれたおかげね」


 彼女は私の言葉を、毒が抜けたか聞いていると解釈したらしい。繋いだ手を幼い子がするように軽く振って元気をアピールするお嬢様。


「ミオがいてくれて本当に助かっているわ。貴女がいるから私はもっと強くなれる。いつか、復讐を果たすために」

 それまで貴女の自由を奪ってしまうけれど、もう少しだけ一緒にいてね。


 可愛らしく小首を傾げるお嬢様に何度も頷きながら、私は胸の痛みを感じた。とうに無くしたはずの罪悪感も、彼女を見ていると思い出したように疼く。本当は、私は彼女に感謝されるような人間ではない。

 お嬢様は知らないのだ。私が密命を帯びてこの城に侵入したこと。私の雇い主がお嬢様の故郷に住んでいること。毎晩お嬢様に捧げる毒の調合が、暗殺のために身につけた技術だということ。


 ――私がお嬢様の故郷から、お嬢様を殺すためにやってきた暗殺者だということ。


 私はお嬢様の手に甘えながら、自分の罪を思い出すように彼女と会う前のことを思い返していた。


 *


 この地を訪れお嬢様と出会う前、私は雇い主であるお嬢様の故郷の現領主の前に傅いていた。

 豪奢な椅子でふんぞり返る若き領主は、冷たい瞳で私を見下ろして命じる。


「自分の家族に起きたことを何も知らない悲劇の大貴族もどきと、奴に攫われたを殺してこい」


 そう、今お嬢様の故郷を治めているのは襲ってきた隣の領地の大貴族ではなく、彼から領地を取り返したお嬢様のお父上の年の離れた弟君だった。

 前領主が殺されお嬢様が故郷を追われた後、隣の領主が支配していたのはほんの僅かな間のことだった。元々崩壊は時間の問題だったのだろう。長子の息子がいたのにわざわざ娘を対抗馬の次男坊に仕立てたのがその証。世継ぎたる優秀で勇猛果敢な息子は父親と対立し、領内で大貴族に仕える下級貴族や有力な商人達もそれぞれ自分が従う方に分かれて内部争いが続いていた。

 そんな状況下で息子に仕立てた娘を伴って他の領地を攻めたのは、領主にとって最善の策と考えられたからだろう。娘は女ながら武芸に秀で、兵を指揮することも上手かった。息子として育て始めてからめきめきと頭角を現した彼女を見て、領主はきっとこう思ったのに違いない。娘を戦に連れていけば、間違いなく息子よりも戦果を上げるだろう。それによって次男側を支持する者が増え、もしかしたら息子を争いの場から追い落とすことができるかもしれない。

 しかし、襲撃は意外な結果で終わった。確かに娘は多大な戦果を上げた。疾風怒濤の勢いで攻め入られたお嬢様の故郷は完膚なきまでに叩きのめされ、領主であるお嬢様のご両親とお屋敷、多くの領民が殺された。が、何を思ったのか人々を無慈悲にも斬り殺した娘はお嬢様を気に入り、彼女だけは助けて自分の領地に連れて帰った。

 それから暫くして、娘は突然父親から離反した。彼女はお嬢様を連れて故郷を出ると、人も実りも少ない故に争いも滅多に起きない辺境の地で領主を名乗った。そう、領主様がかつてお嬢様に話した「命じられて辺境に行く」というのは嘘だったのだ。以降領主様は故郷とは一切の関係を絶ち、辺境を強く豊かにすることも自分の領地を拡げることも考えることなく、ただ最低限の防御とお嬢様を愛でることに時間を費やした。それが一番やりたかったことだというように。

 こうして内部の人間の心理がどうであれ辺境の時間が一見穏やかに過ぎている時、荒れていたのはむしろお嬢様の故郷とそこを治めることになった隣の領主の方だった。生意気な息子と奔放な娘に疲れ果てていた彼は、ついに発狂した。実の息子を手にかけ、敵も味方も大勢殺し、自分は屋敷の部屋に閉じこもった。彼に近づくことができる者は誰もいなかった。

 ところで、息子に味方せず、領主の失墜を虎視眈眈と狙っていた者達がいる。先の戦争で辛うじて難を逃れ、生き残りを集めて隠れ潜んでいた現領主――お嬢様の叔父君に当たる御方と彼の仲間である。余談だが私もその中にいた。

 叔父君は屋敷を襲撃して、生きる屍のようになっていた隣の領主を討った。その足で領地全土を制圧。隣の領地というおまけ付きで、とうとう私達は故郷の奪還を果たしたのである。

 その全てをまるで何かの儀式を執り行うように淡々とこなした叔父君が、お嬢様のお父上のことをどう思っていたのか私には分からない。ただ彼は、儀式の仕上げだとでもいうように生き残りの次男坊と実の姪を殺害するように命じたのである。いつか反乱分子になるかもしれないからと。

 私は主の命令に、特に深い理由を聞くことなく頷いた。


『貴方が望むのなら、私がどのような者でも殺しましょう』


 出立前に告げた言葉は本心だった。彼は私の恩人だ。戦火に巻き込まれて路頭に迷い、家族も希望も失くした私に生きる意味を与えてくださった。主のためなら何でもできる覚悟で、私は辺境に向けて慣れ親しんだ故郷を旅立ったのである。


 ――そこで運命の人に出会うことになるなんて、その時は思いもせずに。


 *


 頂に近づく太陽が、未だベッドの住人であるお嬢様の眩い金髪をさらに明るく照らす。たとえ光の一筋も差さない闇の中にあっても彼女は近寄りがたいほど眩しく、一方で全てを受け入れる女神のような慈愛に満ちた女性であるということを私は知っていた。


(この地にたどり着くその時まで、「現領主の姪」を殺すことに何の躊躇いもなかったのに)


 お嬢様と出会ったその瞬間を、私は今でも鮮やかに思い出すことができる。北の辺境、慣れない極寒の地で凍える私にお嬢様が手を差し出して下さったこと。痩せた頬、病的なまでに白い肌、全然温かくない小さな手。今にも死んでしまいそうな彼女がそれでも誰よりも美しく神々しく見えたのは、あの時からずっとたった独りで戦っておられたからだ。故郷に帰ることが叶わずとも、何よりも愛する自由と誇りを手に入れるために。

 暖かな陽光に微睡み、私の手を握ったまま再び夢の世界に旅立ってしまったお嬢様を見つめる。この戦乱の世で、お嬢様の幸せは一体どこにあるのだろう。故郷から遥か遠く離れた地で仇に囲われ、一番近くで仕える従者は唯一の肉親が放った刺客。どのような業を背負えば、このような悲劇の人生を歩むことになるのだろう。

 それでもお嬢様は、自分の命の使い道を定めて今を生きている。己を毒に染めても、運命に抗い望みを決して諦めない彼女は強く美しい。毒杯を捧げるたび、まるで脱皮する蝶のように一段と妖艶さを増していく。お嬢様はいつか必ず望みを果たすだろう。領主様を殺し、運命に打ち勝って世界中の誰も彼女を阻むことができない毒の女王になるのだ。

 ならば、その信念に免じて領主様の命はお嬢様に譲ろう。彼女が婚約者を殺すその日まで、私はお嬢様を親身になって手伝うことだろう。そして、見事宿願が果たされたその時は。


「貴女がどこにもいかないように、私が閉じ込めるか……殺してしまいましょうか」


 お嬢様の無垢な寝顔を見つめて、私は笑みを深める。ああ、何て悲しいこと。世界で一番お嬢様のことを大切に思っているのに、私はこんなことしか考えられない。しかし、誰かに彼女を殺されるくらいなら私が殺したいと思うのだ。

 私は眠っているお嬢様からそっと手を引き抜き、部屋の隅に設置された小さな棚に足を運ぶ。お嬢様に捧げる毒が並んだ棚。そこにひっそりと備えられた鍵付きの引き出しを開ければ、いつかのために調合を進めている毒の瓶がある。紅く僅かに甘い香りのするその毒は、ここにある毒で唯一の即死性。身体を慣れさせるなんて通用しない。

 この毒は、私が調合した世界で唯一の毒だ。私はそれに、「唯一の恋」と名前をつけている。


 *


 戸棚に隠した毒を眺めてひとり笑みを浮かべるミオ。彼女の姿を、僅かに開いた部屋の扉の隙間からこっそり眺めている人物がいた。ミオ以外で尖塔の部屋をしばしば訪れる彼女は、この何もない土地で領主と呼ばれている女性だ。

 男装の美女。母親譲りの艶やかな黒髪と翡翠の瞳を持つ彼女は男性の格好をしても気品を隠せず、扉の向こうを伺いながら悩ましげに眉を顰める姿さえ絵になるほど美しい。訪問の時間を告げず密かに現れた領主は、暫くミオの動向を観察した後膨らんだベッドの方に視線を向けた。そこでは、彼女の妻となるべき姫君が安らかな眠りの中にいる。


 ――戦時中、隣の領地から大貴族の娘を攫った時、領主が感じていたのは半分以上が嫉妬だった。


 彼女は、生まれた時から「彼女」として生きることを許されていなかった。娘を生んですぐに亡くなった母。最愛の妻を亡くした父は自分の心を護るため、娘に妻と同じ名前をつけて溺愛した。高価で美しいものを沢山買い与え、それらと共に部屋に閉じ込めて決して外に出さなかった。まるで、ほんの一瞬でも目を離したらどこかへ消えてしまうと恐れているように。娘が母譲りの色彩を持ち、同じようにとても美しかったことも拍車をかけていたのだろう。

 籠の小鳥を唯一ひとりの人間として認めてくれたのは、四つ歳上の兄だった。彼はしばしば父の目を盗んで妹の部屋に忍びこみ、様々な話を聞かせてくれた。北の話、南の話。沢山の人間とそれぞれの生活によって姿が変わる領地のこと。この部屋よりも領地よりも、世界はずっとずっと広いのだということ。父から与えられるものを享受するだけの日々も別に辛くはなかったが、兄の話はいつも面白かった。娘は兄が大好きだった。

 だが、当然のように父と兄の仲は良くなかった。父は自分の思う通りに動かない優秀で我の強い息子を疎ましく思い、兄は妹を妻の代わりにして軟禁生活を強いている父に怒りを感じていた。二人は事あるごとに互いの意見を対立させた。

 兄は近い将来、自分が領主の地位を継いだら妹を自由にしたいと話していた。だが、父は息子に自分の跡を継がせたくなかった。そこで彼は閉じ込めていた娘に突然男装をさせ、もうひとりの息子として育てることにした。娘は大好きな兄と対立することになった。

 自分でも意外だったことに、彼女は上手く「優秀な次男坊」の役割を演じた。武芸の才があったことも大きかった。父は大変喜んだが、代わりに兄の訪れはぱたりと無くなった。兄妹の距離は離れ、後継者争いが激化すると兄の取り巻きから刺客や毒が送られてくるようになった。兄自身が何を考えていたのかは、今でも分からない。

 刺客は返り討ちにした。毒は死ぬ気で慣れた。そうしてしぶとく生き残ってきたが、この頃になって初めて自分が生きている意味を考えた。生まれてからずっと、父に命じられるままに生きてきた人生。籠の鳥から男になり、大好きだった兄に嫌われて、争って。いつか彼に勝って父の跡を継いだとして、待っているのはどうせ傀儡人形。ならば、自分の幸せは一体どこにあるというのだろう。

 毎日こんな考えが頭を占めるものだから、隣の領地を襲撃するように命じられた時も全くやる気が出なかった。顔も知らない人々を殺して領地を広げて、武勲を挙げたところで自分の人生の何が変わるというのか。


 だが驚くべきことに、彼女はその戦場で自分の運命を大きく変化させる少女と出会ったのである。


 その少女は自分と同じ大貴族の娘でありながら、自分とは全く違う姿をしていた。自ら輝いているかのような豊かな金の巻き毛と、果てなき蒼穹を思わせる瑠璃の瞳。可憐なドレスに包まれた細い肢体は女性であることを隠しもせず、戦火の中にありながら誇りに燃える強い眼差しは彼女が領主の娘としてきちんと愛されてきた証拠だった。

 美しく、あまりにも眩しい少女。騎乗で彼女を見つけた男装の娘が感じたのは、一目惚れとは程遠いどす黒い嫉妬と彼女の誇りを奪うことに対する昏い愉悦だった。彼女は何も知らない無垢な光を汚すために、少女を自分の領地に連れ帰ったのである。

 だが、家に帰れば娘は再び父の道具。彼は敵の少女を自分の娘の傍におくことを認めなかった。娘は初めて父に反発した。攫った少女を連れて家を出たのだ。目指すは人の少ない北の辺境、いつの日か兄に教えてもらった場所へ。静かな土地に小さな屋敷を建て、少女のための塔も用意し、娘はここで領主を名乗ることにした。この時ほど、自分が性別を偽っていることを都合が良いと思ったことはない。

 攫った少女を妻にすると告げたのは気まぐれだった。父の領地から離れたのに、彼女をいつまでも捕虜のような扱いにしておくわけにもいかない。別に一目惚れをしたわけでも愛しているわけでもないけれど、貴族の娘が拐かされて妻になるなんてこのご時世ではよくあること。婚約者にしておいた方が都合が良いと思った。

 だが少女に自分の妻にすると告げたことは、領主となった娘に思わぬ副産物を与えてくれた。今まで屈辱を感じている様子ながら粛々と従っていた彼女が、領主の毒殺を計画したのである。


(あのお茶会を、君は敗北の記憶としてずっと忘れられずにいるのだろう。私も覚えているよ。あれがきっと、君が初めて私を見てくれた日だから)


 毎晩毒に苦しみ、今はその積み重なる疲労を癒す少女が全身の力を抜いてベッドに横たわる姿を想像して、領主は頬に笑みを浮かべた。彼女が毎晩自ら毒を飲んでいることを知っている。その目的が自分を殺すためだと理解した上で、領主は少女が自室に毒を大量に持ち込んでいることを黙認していた。

 領主ではなく、その婚約者が毒殺の危機にあったと噂される事件。だが、あのお茶会で毒殺を計画していたのはその婚約者の方もだった。少女はその失敗を悔いて、「蠱毒の姫」を名乗り毎日躊躇いなく毒杯に口を付ける。もう彼女は、世間の闇をなにも知らない大貴族の姫君ではない。ようやく自分と同じところまで堕ちてくれたのだ。何て痛ましく愛おしいのだろう。

 領主を殺すことだけを胸に毒を飲む少女を思うだけで、自分だけに捧げられた愛を受け取っているような気分になる。彼女に殺されるのなら本望だ。だがここに、余計な人物がひとり。

 二人だけの箱庭に突然現れた娘。愛すべき少女にぴったりとくっついた虫。毒瓶を見て妖しく微笑む、ミオという名の少女。彼女が領主の死後、自分の主を殺そうとしていることを知ってしまった。

 これはとても許せないことだ。邪魔者は排除しなければ、おちおち死んでもいられない。

 とりあえず、ミオを殺すことを決めた領主。さて、その後はどうしようか。恋よりもずっと昏いもので惹かれた二人。互いに相手を汚して堕とし、或いは殺すことを望む二人に相応しい結末は。


「君と、本当に結婚してしまおうか」


 静寂に詠うように言葉を乗せ、領主が微笑む。性別の偽り云々がなくても、もう結婚するなら彼女しかいないと思った。

 互いに毒を浴びせ、相手が死ぬまで呪い合う二人。定められたその未来を、将来の誓いに代えて。

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蠱毒の姫 潮風凛 @shiokaze_rin

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