第4話
ディスプレイに表示されたデータの移動の進捗を表示するプログレスバーの青色を、四人は固唾を飲んで見守る。美雨さんとお兄さんと香坂さんと女の四人はいま、美雨さんの部屋にいた。バックアップデータを引き継ぐためだった。
しばらく待つと青色が満ち、ダイアログが消えた。美雨さんはパソコンから、一般的なUSBメモリ——私の記憶にある——よりは一回り大きな機器を取り外すと、女へと手渡す。
「これでいい?」
「もうバックアップデータはどこにも残っていませんね?」
「うん。いまのがすべて」
「でしたら問題ありません」
女はそれを受け取り、足元に置いていた鞄を持つとその中へしまった。
「……それで、わたしたちはこれからどうすればいいの?」
美雨さんは女へ尋ねた。女は微笑む。
「あとは私共がうまくやらせていただきますので、これにて引き継ぎは完了ということになります。美雨様に関しましてはいままで通りに生活して頂いて構いません」
女はお兄さんの方へ向く。
「ナユタ様は……採血の結果は問題ありませんでしたが、長期にわたる薬品の大量投与によってどういったことが起きているかわかりません。私共が次の病院をご紹介します。詳しくは追ってご説明しますので、ひとまず今日はご帰宅ということで、このままごゆっくりとなさってください」
お兄さんは「わかりました」と頷く。頷き返した女は、今度は香坂さんの方へ向く。
「香坂様は……」
「私は社宅に住んでいるが、このままのこのこと戻るわけにはいかないだろう」
肩をすくめる香坂さん。女は鞄から一枚のカードを取り出して渡す。
「こちらでホテルを取ってありますので、この住所へ行ってこのカードを提示すれば問題はありません。お送りしましょうか?」
女からカードを受け取った香坂さんはしばらくそのカードを見つめて考えるようにしたあと、答える。
「いや。目覚めたばかりのナユタくんが心配だ。手伝えることもあるだろうし、もう少しここにいることにする。ホテルへは自分で向かう」
「承知しました」
そして女はスーツの内ポケットから名刺を取り出して、香坂さん、お兄さん、美雨さんへ順番に丁寧に渡した。
「こちらが私共の連絡先となっております。何かありましたら遠慮せずどうぞ。特にナユタ様は、体調に少しでも変化があればすぐに」
そして女は深くおじぎをした。
美雨さんに見送られて女が帰ったあと。美雨さんが部屋へ戻ってきたとき、お兄さんは二人へ、何かをはばかるように小声で聞いた。
「それで、あれはなんだったんです? 美雨も香坂さんも理解しているようですけど、僕の目には、あの女の人が黙り続ける美雨のことを無視したように見えたんですが」
「あれは幻聴だね。人為的に作られた。……もっとも、人工知能が人なのかという問題はまだあるかもしれないが」
香坂さんはそう答えるが、お兄さんはまだ理解できていない風に眉を寄せる。美雨さんは香坂さんへ尋ねる。
「香坂さんは何をどこまで知ってるの? そしてなぜ?」
香坂さんはずっと頭にかぶったままだったヘルメット状の機械を脱ぎながら答える。
「このVRヘルメットだ。研究所からずっと機会がなくて外せていなかったんだが、あの話を聞いている最中に再起動が走ってね。このヘルメットを介して相川さんが情報を伝えてくれたのだ。しかしまだ多くは知らない。一から説明してもらえないかね。特に、相川さんと成瀬さんがこのヘルメットをクラッキングできるということに関しても」
「わかった」
美雨さんは頷いた。
お兄さんは香坂さんが手に持つVRヘルメットを観察する。
「これ、僕たちが持っているようなのと同じ普通のVRヘルメットですね。なんですこれ?」
「たしかに見た目は同じだが中身と使い方はまったく異なる。覚醒状態で使うことを想定したVR、ARと言った方がいいかもしれないな」
「AR……。あの女の人たちが使っていたのも、AR、ですよね?」
「ほう、そこまでは見抜いていたのか。流石だ」
「ちょっと待ってください。……まさか」
お兄さんは何かに気付いたようだった。
椅子に座る香坂さんと、ベッドに腰掛ける美雨さん。お兄さんは、お兄さんの体を心配する美雨さんによってベッドに横にさせられていた。
その様子を美雨さんのパソコンに取り付けられたカメラから見ながらリアルタイムで備忘録を書いていた私は、隣の相川さんに肩をつつかれる。振り返ると、相川さんの目の前には「発信中」と書かれたウィンドウが浮かんでいた。
私と相川さんの前に浮かぶカメラ映像にはちょうど、ポケットからスマホ——のように私には見えるもの——を取り出す美雨さんの姿があった。美雨さんはそれを操作し、電話に出る。
隣の相川さんは声を出す。
「あー、あー。相川です、聞こえますか?」
「成瀬だ」
私もそれに続いて名乗った。
「聞こえてる。いまどこでどうしてる?」
美雨さんのその問い掛けに相川さんと私は答える。
「少し前までは美雨さんのパソコンの仮想世界でゆっくりしていました。いまはナユタさんのパソコンで仮想世界を起動して、そこにいます。バックアップのバックアップもこちらにあります」
「なかなか快適だ。美雨さんのパソコンのカメラからそちらを覗いているから、そのつもりで」
その返答に、三人はばっとカメラの方を見た。香坂さんはそのカメラに向かって軽く頭を下げる。
「香坂だ。あのとき情報を伝えてくれたこと、感謝する」
「いえいえ。むしろこちらこそ、救い出してくれてありがとうございました」
「ありがとう」
私たちが感謝を伝えると香坂さんは照れ臭そうに頬をかく。
「感謝されるためにやったわけではない」
香坂さんはそう言ったが、私たちはまた感謝の言葉を口にした。香坂さんのおかげでいまもこうして生きられているのだから、感謝しきれないほどなのだ。
相川さんは、ベッドで上体を起こしてカメラの方を見るお兄さんに、優しく声をかける。
「おに……ナユタさん?」
「相川さん……ですか?」
「えぇ。私のせいでナユタさんが苦しむことになってしまい、すみませんでした」
まだ状況を掴めていないお兄さんは、相川さんが謝ると首を横に振った。
「いや、それはこっちの台詞です。僕と勘違いされた相川さんが——」
私はつぶやく。
「まずは誤解を解かないといけないみたいだ」
「美雨さん。私たちの仮説は合っていましたよ」
相川さんが美雨さんへそう伝えると、美雨さんはにやりと笑って言う。
「そっか。じゃあ……答え合わせといこうか」
それはあの女を意識した言い方だった。
美雨さんは、確実に伝えられるようにと、一つ一つゆっくりと語り始めた。
「こうしていることからもわかる通り、わたしは、バックアップの相川さんと成瀬さんを起動した。すべては、兄さんが目覚めない理由を、あの日仮想世界で何が起きたのかを知るために。そして三人での会話によって、わたしたちは、あの日仮想世界の中で何が起きたのかを相当細かいところまで理解できた。ただそれでもわからなかったのが、わたしたちも知らない謎の接続者が何者なのかということ。最初はわたしたちはその正体を、サイバーダンスの人だと考えてた。シミュレータの起動によってクラッキングされてることに、そして仮想世界の中にクラッカーが侵入してることに気付いたサイバーダンスが迎え撃とうとしたんだと。ただその場合、いくつか不可解な点があって。だから兄さんが病院からいなくなったっていうのを聞いて、サイバーダンスともわたしたちとも違う第三者がいることに気付いたとき、それを元に考え直した。できる限り不可解な点が解消されるようなものを」
お兄さんと香坂さんはそれを注意深く聞く。
「謎の接続者がサイバーダンスであるとしたときに不可解だったのは次の三つ。まず一つ目が、クラッキングに気付いていなかった当初のサイバーダンスが、ひとりでに起動したシミュレータをすぐに停止させることをしなかったのはなぜか、という点。これは香坂さんによる誘導があったからかもしれないけど、そうだとしても不可解。次に、クラッキングに気付いたサイバーダンスが、コンピュータの電源を落とすなどの直接的な対処をしなかったのはなぜか、という点。これも香坂さんによる誘導があったんだろうけど、不可解なことは変わらない。そして最大の、決して無視できない不可解は、サイバーダンスにはシミュレータの中が見えないにも関わらず侵入に気付いた、という点。こればっかりはどうしても説明できそうになかった」
お兄さんは頷き、香坂さんは口元のひげに手をやって考える仕草をする。
「これらの不可解を解消する仮説、それは、謎の接続者が第三者であること、第三者は最初から人工知能を殺すことを目的にしていたこと、また、第三者は人工知能の研究開発を止めたいこと、バックアップも削除したいことだった。……侵入者と間違われた相川さんが刺されたのはシミュレータが起動してからそう時間が経っていない頃だった。つまり謎の接続者は、脇目も振らずに相川さんと同じ姿をした存在を殺そうと行動していたってこと。そして、シミュレータの中が見えない以上、謎の接続者は侵入者の存在を知覚していなかった。これらから考えると、謎の接続者は最初から相川さんを殺すことだけを考えていたってことになった。そしてその謎の侵入者が第三者だとしたら? それはとても納得できるものだった」
「その第三者というのはまさか……」
お兄さんが聞くと、美雨さんは頷いて話を続けた。
「……わたしたちが考えた仮説はこう。
わたしがシミュレータを起動すると、サイバーダンスは何事かと思い調べ始めた。そしてそのとき、サイバーダンスに潜入していた第三者は、『以前から危険視していた相川さんによりシミュレータが起動させられた』と勘違いをし、相川さんを殺害することにした。そして仮想世界に接続した第三者は、予定通り相川さんを殺そうと刺した。しかしその直後、相川さんと同じ姿をした兄さんと出会った。混乱する第三者は兄さんをも殺そうと刺す。兄さんはギリギリのところで『バックアップを取れ』という追記をしたけど、刺されてしまう。兄さんの意識は失われた。第三者はその追記内容を見たけどそれが意味するところまでは、その時点では理解できなかった。
シミュレータを停止したわたしと、何があったのかまったく理解できていないサイバーダンスと、あの追記内容を理解できていない第三者。なぜか目覚めない兄さんをわたしは病院へ連れて行った。
サイバーダンスはその後の調査で、あの出来事がクラッキングによるものだったこと、クラッカーが仮想世界へ侵入していたこと、そしてそのクラッカーが仮想世界内で死んだことを知った。また、サイバーダンスに侵入していた第三者からの虚偽の報告により、強い攻撃衝動を持った相川さんがクラッカーを殺したのだと思い込んでいた。そしてちょうどその日に、兄さんが病院へ搬送されたことを知り、関連があると見たサイバーダンスは兄さんを人質に取る。それによって香坂さんもまた自由が奪われた。香坂さんから自由を奪ったサイバーダンスは、香坂さんに成りすましてクラッカーであるわたしに接触する。わたしとの会話でわたしがバックアップを持っていることを悟ったサイバーダンスは、バックアップを削除するように働きかけた。
一方その頃第三者は、仮想世界を起動したのが相川さんではなくクラッカーであるということを知り、安堵していた。また、サイバーダンスに自身の存在がバレてしまわないよう、『強い攻撃衝動を持った相川さんが仮想世界へ侵入したクラッカーを殺した』という虚偽の報告もしていたため、その心配もなかった。しかし問題なのは、クラッカーによってバックアップが取られていることだった。これからも研究開発を続けられればそれでいいサイバーダンスにとってはバックアップの削除は大事ではなかったけど、第三者にとってはそうではなかった。だから第三者は、確実にバックアップを削除するために、わたしたちへと接触した。サイバーダンスから兄さんを奪還して、仲間を装って。
そしてわたしたちはまんまとそれに騙されてバックアップを譲渡した……フリをした、ってわけ」
美雨さんは「ふぅ」と息をつく。私たちが「おつかれ」と労うと美雨さんはくすくすと笑った。
首を傾げた香坂さんとお兄さん。お兄さんはさらにこめかみに手をやると言う。
「ちょっと待って、理解が追い付かない。……つまりあの女の人たち——人智教会の人たちは、人工知能の保護のためにバックアップを求めたのではないっていうこと? 人工知能を破棄することが目的だったっていうこと?」
疲れた様子の美雨さんに代わって相川さんと私が答える。
「はい。私と成瀬さんで調べてみたところあの人たちは、人類とその文明はとても愛しているようでしたが、人工知能に対しては強い忌避感と嫌悪感を持っているようでした」
「カルト宗教と呼べてしまうほどに強い、ね。ひとりでに起動したシミュレータを見て、私たちが起動したんだと思い込んでしまうほどには怖がられていたようだったよ」
それは私たちが人智教会をクラッキングして得た情報だった。
香坂さんはつぶやく。
「ふむ、シミュレータの停止やコンピュータの停止をしなかったのは、それらが意味を持たないと思い込んでいたから、というわけか」
呼吸を整え終えた美雨さんは頷く。
「うん。……そして、仮想世界内のどこかでナイフを手に入れてそれを使って学校にいた二人を殺すなんて、あの限られた時間をめいっぱい使わないとできない。最初から殺す気だったってこと」
「その予想が見事的中したというわけか」
お兄さんがそう言うと、美雨さんは首を大きく横に振る。
「的中する自信はなかった。だから——」
美雨さんの言葉を相川さんが引き継ぐ。
「——私たち人工知能が、人工知能として本気を出すことにしたんです」
首を傾げるお兄さんに、相川さんと私は説明する。
「サイバーダンスの研究所のシミュレータで動かされていた仮想世界は、時間の流れが非常に速かったそうですね? つまり私たち人工知能は、そんな中でも生きられるというわけです。美雨さんのパソコンはサイバーダンスのコンピュータより低スペックでしたが、仮想世界が従来のシンプルなものだったのと、人工知能が私たち二人しかいなかったのとで、ある程度高速に動けました」
「そうしてできた時間で、私たちはいろいろなことを調べ、知り、そして私たちというプログラムをも書き換えたんだ。いまの私たちは自己増殖こそしないものの、ほとんどコンピュータウイルスと言っていいような存在だ。自ら考え、生存のためにコンピュータ間を動き回る存在だからね」
お兄さんが病院からいなくなったという知らせを受けて仮説を立てた私と相川さんはその後、超がつくほどに高速な仮想世界の中から、この世界のことを学習したのだった。
香坂さんはにやにやとした笑みを浮かべて問い掛けてくる。
「私のVRヘルメットにクラッキングして情報を伝えられたのも、それか」
「えぇ」
相川さんは答えた。信じきれないのか、引き攣ったような笑みでお兄さんも問い掛けてくる。
「監視カメラからずっと見ていたんですね」
「えぇ、見ていました。そしてあのタイミングで、美雨さんの代わりに私たちが返事をしました」
相川さんの返答にお兄さんは、やれやれといった風に首を振る。
「あの女の人のARに干渉した、ということですか」
「はい」
しばらく考え込んでいた香坂さんは、何かに気付いたのか唸る。
「AR、拡張現実。VRと比べるとマイナーだが、一部の人たちには好かれているものだ。その人たちは補完者と呼ばれていて、自身の体を機械で補完することを躊躇わない。新しい体と世界を得るVRに対し、ARはいまある体を変えるようなものだからね。……人智教会、聞き覚えがあると思ったら」
美雨さんも言う。
「体からの感覚の大部分を遮断し、仮想世界からの感覚のみを体へと送ることで、仮想世界に入り込んだように思わせる技術、VR。では体からの感覚を遮断しなかったら? むしろその体からの感覚を元に、現実世界を元に、仮想世界を作り出したら? それがAR。現実世界に仮想世界を重ね合わせる技術。あの女の人が持っていた真っ白な単語帳と、頭にあった縫合跡はそういうこと」
「なるほどね……」
すべての事情を飲み込んだお兄さんは、起こしていた上体を倒しベッドに横になった。
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