二、信じたい気持ちと疑惑の間で(2)

 翌週の月曜日。俺は大学から少し離れた街道沿いのファミリーレストランに向かった。

 燈子先輩に会うためだ。SNSのメッセージでは彼女は既に到着しているらしい。

 店内を見渡すと、ボックス席に彼女の姿を見つけた。

 今日の燈子先輩は、白の薄いハーフコートと細かい花柄のブラウス、それに黒のロング・タイトスカートだ。スカートは深くスリットが入っていて、チラリと見えるナマふとももなまめかしい。

 彼女はスラリと伸びた脚を組んで、静かに文庫本を読んでいた。

 知的な容貌、せいたたずまいでありながら、全体として魅惑的な雰囲気があった。

 だが同時に容易に触れてはならないような、そんな印象を受ける。

 俺の胸に『高校時代に彼女を見かけた時の切ないような憧れ』がよみがえった。

 燈子先輩がふと文庫本から視線を上げる。

 俺と目が合った。彼女はニッコリと微笑ほほえんだ。

 俺は『燈子先輩に見惚みとれていたこと』を悟られないように、慌ててボックス席に向かう。

「待たせてすみません」

 俺がまずそう口にすると、彼女は穏やかな笑顔で答えた。

「大丈夫よ。今日は私の授業が早めに終わっただけだから。おなかいたでしょ。何か頼む?」

 燈子先輩はそう言ってメニューを差し出す。

 俺はチキンステーキとドリンク・バイキング、彼女はドリアを追加で注文する。

 ウェイトレスが注文を取った後、俺から話題を振った。

「カレンの方は今日も用事があると言っていました。鴨倉先輩の方は?」

 すると燈子先輩も伏し目がちに答えた。

「ええ、てつも今日の夜は用事があるって言っていたわ。だからこうして君と会う事が出来るんだけど」

「やっぱり……」

 俺はうめくように呟いた。予想はしていたが、やはり苦い思いが胸に広がる。

 これで二人が浮気しているとしたら、先週の木曜と月曜と連続で会っていることになる。

 俺とカレンが会うのも週二か週三くらいだから、けっこうな頻度だ。

「でもまだ二人で会っているって決まった訳じゃないから……」

 燈子先輩がそう言うのさえ、俺は神経に障った。

 燈子先輩は俺を慰めている、もしくは自分に言い聞かせているのかもしれないが、俺にはまるで二人を擁護しているみたいに聞える。

 俺は話題を変える事にした。

「今のカレンは、だいぶ俺に興味がないみたいです」

「何かあったの?」

 燈子先輩が心配そうにそう言った。

「特別に何かあった訳じゃないんですが……この前も『俺とのデートがマンネリ化している。ツマラナイ』って言われました」

 燈子先輩の眉根が寄った。だが少し間を置いて口を開く。

「浮気してるとかしてないとか、そういう話じゃなくても……付き合っていれば、そんな事もあるわよ。あまり気にしないで」

「そうですか? でもカレンは『他の人はもっとお洒落なデートをしている』って」

 さらに燈子先輩の表情が曇る。

「一体、誰と比べているんだろうって、俺、そう思っちゃったんです」

「……」

「今はカレンの顔を見ているのも辛いです。カレンを信じよう、そう思ってもどうしてもあのメッセージの事が頭に浮かんで来ちゃって」

 ジワッと俺の目頭が熱くなる。俺は必死に堪えた。

 彼女が大きくタメ息をついた。

「『気にするな』って言葉だけじゃダメみたいね。もっとも今の状況では『ただ信じる』っていうのも難しいと思うけど」

 燈子先輩はテーブルに肘をついて両手を組むと、その上に自分の顎を乗せた。

「そんな時は『付き合い始めた時の事』を思い返してみるといいかも」

「付き合い始めた時のこと?」

「そう。良かったら私に、いつしき君がカレンさんと付き合う事になったキッカケを話してくれない? そうしたらカレンさんへの気持ちも、少しは取り戻せるかもしれないし」

「はぁ」俺は疑問符交じりの生返事をした。

「付き合い始めたのはいつから?」

「七月の前期試験の打ち上げからです。サークルでやりましたよね?」

「試験が終わった人だけ集まってやった、あの飲み会?」

「そうです。あの時は燈子先輩はいませんでしたよね」

「そうね、私はまだ試験が残っていたから。そっか、あの時から付き合いだしたんだ」

「はい」

「でもそれまでに、彼女と仲良くなるキッカケとかがあったんでしょう? いつ頃から一色君はカレンさんを意識し始めていたの?」

「ゴールデン・ウィークからですかね。ほら、サークルの新歓合宿があったじゃないですか」

 そこまで言って俺は、チラッと燈子先輩を見た。

 彼女はただ優しい笑顔で俺を見ている。だがその優しさは、ただの後輩に向けられたものだ。

 俺は心の中でタメ息をついた。おそらく彼女は何も気付いていないだろう。

 実はこの件には燈子先輩が少なからず影響しているのだ。

 俺といしは高校時代から燈子先輩に憧れていた。

 そしてじようだいに合格した時「当たって砕けろの精神で、燈子先輩に告白する!」と二人でひそかに計画していたのだ。

 そして大学の入学式の日、入学式会場から門までズラッと並んだ新入生勧誘の列の中から、俺たちは燈子先輩の姿を探しながらサークルのチラシを受け取った。

 やがてちょっとした人だかりが出来ている一角があった。燈子先輩がチラシを配っていた周辺だ。俺たちは迷わずそのチラシを受け取った。

 サークルの名前は『あいあい』。元々は俺たちの出身高校の卒業生が作ったサークルらしい。当初はトレッキングやキャンプのサークルだったが、今では何でもやるイベント系サークルになっている。テストの過去問とか単位をとりやすい授業の情報が豊富なので、かいひんまくはり高の出身者は大抵ウチのサークルに入ってくる。

 そこには俺より二つ上の先輩である鴨倉哲也もいた。

 そして合宿初日の夜、俺たちはやはり二つ上の先輩に衝撃の事実を聞いてしまう。

『燈子先輩が鴨倉哲也と付き合い始めた』という話だ。

 鴨倉哲也も高校時代から女子にキャーキャー騒がれている陽キャ・イケメンだ。勉強が出来てスポーツ万能、高校時代はサッカー部の副部長でセンター・フォワード。身長は一八〇センチ。成績優秀だがチョイ悪の雰囲気があり、クラスでも部活でもサークルでも、常に中心的な存在のスクール・カーストの最上位。

 これでモテない訳がない。そして俺たちに勝ち目がある訳ない。

『燈子先輩と鴨倉哲也が付き合いだした』と教えてくれた先輩もかなり嘆いていたが、俺たちの落胆はそれ以上だった。その夜は石田と二人してヤケ酒(中身はノンアルコールだが)をあおりまくった。

 しかしそんな時でも立ち直りが早いのが石田だ。

「俺たちも燈子先輩の事は忘れて、早く彼女を見つけて大学生活をエンジョイしよう!」

 グラスを握りしめて立ち上がった石田を、俺はあきれた目で見た。

「そんなに早く彼女なんて見つかるのかよ。そもそもアテはあるのか?」

 すると石田が俺の方を振り返った。逆に意外そうな目だ。

「優はあるだろ。すぐにでもイケそうなが」

「は? 誰の事だよ。そんな娘がいるかよ」

「気付いてないのか」

 石田は再びドッカと畳の上に腰を下ろした。

「文学部一年のみつもとカレンちゃん。フワッとした感じのよく笑う明るい娘。新歓コンパの時からよく優の方を見ていたと思ったけど、この合宿で確信したよ」

 ……あのセミロングの少し小柄な女の子が……

 俺は色んな男子と楽しそうに会話しているカレンの姿を思い出した。

「あの娘、ちょっとチョロそうだけど、けっこう人気があるみたいだぜ。早くしないと誰かに取られちまうぞ」

 そう言った石田に背中を押された訳ではないが、翌日からカレンの事が何となく気になっていた。確かに石田の言う通り、蜜本カレンとはよく目線が合った。その度に彼女はニッコリと笑みを浮かべてくれた……。

 俺はその当時の事を思い出しながら、口を開いた。

「合宿中、カレンとは何となくよく目が合う気がして……それで話すようになったんです」

「最初に話しかけたのはどっちから?」

「確かカレンの方からだったと思います。合宿中に『よく目が合うよね』って言われて。その後もサークルのまり場で近くになる時が多くって、自然と話すようになったんです」

「じゃあ最初はカレンさんの方からアプローチがあったんだ」

 燈子先輩がちょっと可笑おかしそうに言った。

「それはわかりませんが……でも俺も『明るくて可愛かわいい子だな』って思って」

 俺がそう言った時、燈子先輩の表情が微妙に変わったような気がした。

「そうね、カレンさんは可愛いものね。女の子らしい可愛さって大事よね。昔から『女はあいきよう』って言うくらいだものね」

 そう言った燈子先輩の目に浮かんだものは……俺には『寂しさ』のように感じられた。

「とう……」

『燈子先輩だって』と言いかけた俺の言葉を遮るように、彼女が話題を切り替えた。

「私の目から見ても、確かに哲也には不審な点もある。浮気とまでは断定できないけど、哲也が私に隠れて何かをしている可能性は濃厚よ」

 急に切り替わった話題に俺の言葉が一瞬止まる。

「そろそろその点だけでもハッキリさせたいわね」

 俺はうなずいた。そうだ、現時点での最重要事項はそれだろう。

「具体的にどうしますか? 二人を尾行するとか?」

 カレンと鴨倉が会っているとしたら月曜か木曜だ。それがわかっているのだから尾行によって何かがつかめるかもしれない。

「尾行はダメよ。かなり難易度が高いの」

「そうなんですか?」

 相手の目に付かないように、背後から距離を置いて後をつけるだけだと思うが?

「これから浮気をしようとしている人間なら、必ず周囲に気を配るはず。不意に相手が振り向いた時に、とっさに身を隠せる自信はある? そもそも不自然な動きをしたら、それだけで相手の目に付くのよ」

 確かにそうかもしれない。そこで物陰に隠れたりしたら、ソッチの方が目立つだろう。

「素人が成功するようなものじゃないわ。警察や探偵だって何人もでチームを組んで交代しながらターゲットを尾行するのよ。それに女は男より周囲の視線に敏感なの。もし自分を注視している視線があれば、おそらく気付くはずよ。しかもそれが見知った人間なら百パーセントと言っても過言じゃないわ」

「そうですか。俺は『もう尾行でもするしかないかな』って思っていたけど、それも無理か」

 肩を落とした俺は、うな垂れたままテーブルに両腕をついた。

「このままカレンの誕生日を迎えても、きっと楽しくないだろうな。向こうは俺に対してトゲのある態度を取るだろうし、俺は俺で疑問を抱えたままだし……」

「カレンさんはもうすぐ誕生日なの? いつ?」

「今週の土曜日です。もうプレゼントは用意してあるんですけど、カレンが『もっとお洒落しやれなデートをしたい』って言っていたから、高級店のイタリアンを予約しようと思って」

「今週の土曜?」

 燈子先輩にしては珍しく大きめな声だった。

 俺が驚いて顔を上げると、彼女は何か思案するように腕を組んで右拳を顎に当てている。

「どうかしたんですか?」

 俺の問いかけに、燈子先輩は考えながら口を開いた。

「もしかしたら、その日で何かを掴めるかもしれない……」

「え?」俺が次の言葉を待っていると彼女は顔を上げる。

「一色君は、その日は当然カレンさんと会う約束をしているのよね?」

「はい、そうですね」

「会う時間とかは決まっているの?」

「具体的にはまだです。でも昼から夕方くらいまでじゃないかな」

 それを聞いて燈子先輩は頷いた。

「その日は哲也のお兄さんが出張でアパートに居ないのよ。それで哲也は私に『泊りに来い』ってシツコク言っている」

 そうして燈子先輩は俺の目をのぞき込むようにした。

「私がそれを断れば……もし二人が浮気しているなら、哲也はカレンさんを呼ぶんじゃないかな?」

 俺の脳天から背筋まで電気が走ったような気がした。

 そうだ、もし二人が浮気をしているなら、そのチャンスを逃すはずがない。

 俺の決心したような目に、燈子先輩も同様の意志を込めた目で答えた。

「次の土曜日の夜、その日に全てを賭けましょう」

 俺たちは互いに秘めた決意を込めて頷きあった。

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