第37話 檜山進一郎の場合

 二年前、檜山は刑事だった。


 大学在学中に国家公務員上級試験にパスし、卒業後すぐに警視庁に採用された檜山はいわゆるキャリアと呼ばれる男だった。


 警察大学校でも優秀な成績を残した檜山の現場研修先は警視庁特殊犯罪課。警察機構の中でも新しい部署である。

 ここで九ヶ月、警察大学校で戻って一ヶ月の補習をし、次に着任したときにはエスカレーター式に出世の道が開けている。


 出世しなければ――と思っていた。

 ただ、それは、偉くなって権力を手に入れようというものではなかった。

 失墜している警察の権威を回復し、一般の人たちの期待にこたえられる警察というものをつくりたかったのだ。


 そのためには出世するのが一番手っ取り早い。


 特殊犯罪課へは同期の吉野と一緒に配置になった。

 新設されただけあって特殊犯罪課の扱う事件は多種多様で、今までの捜査方法、いや、常識すら通じないような事件も多かった。そんな常識が通じない事件を扱うのだ。当然捜査官側にも一般の常識では推し量れない人間がいた。


 真島耕平と新堂敦志。

 変わり者の多い特殊犯罪課の中でもひときわ異彩を放っている二人だった。この二人は常にいがみ合い、罵り合っている。そのくせ絶妙のコンビネーションで事件を解決に導いていく。


 新堂は、昔からいる頑固な刑事という印象だった。

 足で捜査し、腕力でねじ伏せる。ある意味わかりやすい性格である。いつも怒ったような顔をしているが、それは彼の地顔で、話してみると無骨な中にも気さくな一面を見ることができた。


 真島はよくわからない男だった。それは現在でも変わらない。

 思慮深いのか、何も考えてないのか判断がつかない。普通の人間が考えつかない突飛なことばかりをしていた。


 本人は別段変わったことをしているという意識はなく、当然のことと思っていたようだが、その考えはまちがいなく歪んでいた。規則や規律というものもまるで受け付けない。

 しかし、無駄なことはしない男だった。一見、見当違いのようなことをしていても最後に帳尻を合わせてくるという不思議な才能である。


 檜山の特殊犯罪課で過ごした期間はあまり長くはなかった。


 二ヶ月ぐらい経ったころだろうか。

 檜山は捜査一課に配置替えになった。なぜ移されたのかはわからない。

 荒れた捜査を展開していた特殊犯罪課よりも、一課で何事もなく研修期間を満了させた方がいいという上の判断だったのかもしれない。


 事件が起きたのは研修期間もあと一ヶ月を切った蒸し暑い夏の日だった。


 傷害事件だった。

 隣の住人が包丁を片手に乱入。押し込まれた家の住人は左肩と背中を切りつけられる重傷を負った。被疑者は逃亡、二時間後公園を歩いているところを緊急逮捕され、事件は解決した。

 被害者が飼っている犬がうるさいからという頭を抱えたくなる動機によるものだった。


 しかし、問題はこのあとに訪れた。

 回復した被害者が警察を訴えたのだ。被疑者は、以前から被害者に対し脅迫まがいの行動をとっていたと言うのだ。捕まえてもらえないかと、何度か相談に来ていたらしい。警察はこの被害者の訴えをよくある手合いの相談事と軽視した。たしかにこの手の相談は跡を絶たないのも事実であるが。


 そうこうしているうちに、件の傷害事件が起きたのである。

 どうにも分が悪かった。

 警察側は水面下で被害者と交渉、訴えを取り下げてもらうように働きかけた。毎度のこととは言え、これが世論の反発を買った。


 檜山は裏工作が行われていることを知っていた。

 そういうやり方もあるのだと頭では理解していたのだ。しかし、気持ちは押さえられなかった。


「即時に謝罪するべきです」


 しかし上司から返ってきた答えは、檜山の望むようなものではなかった


 ――なあ、檜山。将来を嘱望されている君はこんな些細なことに関わる必要はないんだよ。こんなことで君の経歴に傷でもついたら、わたしの立場がないからね。人の噂も七十五日。そのうち静かになる――。


 であった。キャリアというだけでまわりが腫れ物に触るように接してくる。

 別な上司は吐き捨てた。


 ――マスコミめ。まるで鬼の首でも取ったように騒ぎおって。もっと違うネタがいくらでもあるだろうが――。


 狂っていると思った。

 自分の非を認める気などさらさらない。それどころか見当違いな逆恨みまでしている。延々と染み付いてきた悪しき体質だった。この体質を直すには、警察自体を新しく一から作ったほうが早い。


 こんな人間たちと同類に見られるのは嫌だった。

 彼らをこそ切り捨てたかったが、キャリアと言ってもその時点の檜山にそんな権限があるはずもない。


 そして檜山は失望した。

 裏工作をしていることを知ったところで、何もできない自分がたまらなく嫌だった。

 二日後、檜山は辞表を提出し警視庁を去った。



「そんなことがあったとはのォ……」


 川中島は大きなため息をついた。

 檜山は押し黙っている八波を見る。


「だから教えて欲しいんだ。僕は何も力になれないかもしれない。さっきみたいな奴が出てきても足を引っ張るだけかもしれない。でも僕は……知らないふりをするのはもう嫌なんだ!」


 川中島はゆっくりと顔を上げた。主である八波にすべてを委ねる――川中島の目はそう言っていた。


 どれくらい経ったのだろう。ひどく長かったのかもしれないし、思いのほか短かったのかもしれない。

 沈黙は八波によって破られた。


「……長い話になるが……」

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