終末にレンタカーを

上月祈 かみづきいのり

終末にレンタカーを

「タツヤ。じゃあ、また借りるな」

 タツヤはもう背を向けていたけれど、手はひらひらと振っていた。最後に親指をぐっと上へ立てると家の中に消えていった。

 僕が借りたのは自動車。一九八〇年代に飛ぶように売れ、道という道を我が物顔で走った車。赤い遊撃手と勝手に呼ぶ車はエンジンをふかして待っている。

 この頃に作られた自動車は暖機運転が必要だ。エンジンをぷかぷかと少しばかりの間ふかすのだ。

「車にチョークがついている」

 といってわかる人は果たしてどれほどいるだろうか?

 十一月の朝は寒い。旧月名では霜月しもつきという。

 さすがに名ほどの冷え込みではないが、排気ガスの白っぽさはコートを必要とするほど冷えていることを示している。

 この排気ガスの白さに名前を付けたい、なんて考えながら車のドアを開け、乗り込み、閉める。

 それから、

「おまたせ」

 と車内に発した。

 まるで自分のものみたいに手慣れている。

 誰もいない車内から返事が返ってきた。

「機嫌がよさそうね」

「うん、チハルは?」

 僕はチハルに対して問いかけた。

 チハル。語弊はあるがこの車のことだ。

「いいほうよ。コーヒーがあれば最高ね」

「そうか。じゃあまず、コンビニに寄ろうか」

「やった。ありがとう」

 チョークを閉じて、ギアをローに入れると半クラッチでアクセルを踏む。

 しかし、なかなか進まない。うっかりサイドブレーキを下ろし忘れていたようだ。

「ごめんね、サイドブレーキ下ろし忘れた」

 とチハルにひと言。

「しっかりしてよ、バカ」

 と笑われた。

 衝撃的な事実というのは、いっぺんに二つくらいやってくる。神は出し惜しみをしないらしい。

 僕はカイト。タツヤとは小学生のときから親友だ。

 僕らには二つの大きな共通点がある。

 一つ目。

 現在の僕らには他に友と呼べる人間がいない。

 二つ目。

 僕たちは妻に先立たれている。

 ミヅキ――今はあの世にいる僕の妻――は二人で海水浴に行った二年前の七月半ばにおそらく死んだ。

 おそらくというのは、沖へ泳ぎに行ったきり、陸に戻ってこなかったからだ。死体にさえ会えなかった。

 ミヅキと話せるならば、僕はなにを話すのだろうか? 自分でも見当がつかない。だだ、とても体が冷えただろうから着替えと暖かいコーヒーを用意してやりたい。

 そしてチハルはタツヤのパートナーだ。

 彼女は去年、流産の末に死んだ。タツヤは一度に二つも失ったのだ。

 僕らには友がいないと先ほど述べた。

 でも僕とタツヤはむしろ人間が好きだ。なのに、他の人間たちはなにかと壁や溝を作って僕らとその他の人間に隔てる。

 僕にとってタツヤとの友情は大事だし、かといって新しい友人を作らないつもりでいるわけではない。作りたい気持ちはあるが、エネルギーがまるで足りない。

 疲れているんだと思う。

 僕はチハルに声をかけたくなった。

「まだタツヤに声をかけないの?」

「うん。なんだかどきどきしちゃって」

 くすり、と僕は笑った。

「まるで恋だね」

「もうっ」

 少し怒ったような口調。でもそれがから怒りであることは知っている。

「本当はおばあさんになってから死にたかった。早死にしすぎたのよ」

 僕はなにもいわなかった。どちらかというと、自分の妻と運命を共にしたかったという道徳的にはバカげた考えを支持していたからだ。

 夫婦双方が老いてから死にたいと思うなかで、一方が早死にする運命を避けられないと知った。あなたは老いてから死ぬのと、共に死ぬことを選ぶのならばどちらか? なんていう倫理的設問の前に立っていた。

 言葉は伝達のためにある。

 同時に思考のための情報整理ツールだ。

 だから別に口にしなくてもいいんだ、言葉なんて。文明の光として我々を照らすべく灯っている。

 チハルは爽やかにため息ついでに話した。

「せめて、もうちょっとオバさんになってから死ねばよかった」

 コンビニに向かう道と晴れた日の交差点。

 赤信号に従い停車して、チハルに尋ねた。

「そういえばなんで、戻ってきたことを知らせたのが僕だったの?」

 くすり、と彼女は笑った。

「『将を射んと欲すればまず馬を射よ』っていうでしょ?」

 ははん、と僕も笑った。

「馬は射た。されど将は射ず」

「その通り」

 彼女はその事実が本当に歯痒そうだった。

「まごついちゃうのよ、私」

 上体をハンドルにもたれ掛け、信号をうかがった。

「なにか怖いことでもあるの?」

 無言は一呼吸のように置かれ、

「タツヤは少し脆いのよ。もし普通に『ただいま』なんていってこの姿を見せたら、壊れるんじゃないかって」

 といったところで信号は青になった。

「考えすぎて自分を駄目にしちゃうのよ、あの人」

 友人としてタツヤのことを鑑みると確かにそういう節があった。

 ついでに、車になったチハルに会ったのときのことを思い出した。

 夜分、緑茶を片手に庭先へ出ていたときのこと。

 僕が庭先でふらふらしていると離れたところからパッシングのようなものをくり返し受けた。道を挟んで向かい側にタツヤの家があって、そこにある車だった。でも、タツヤの気配は感じない。

 誰かがいたずらをしているのかもしれないと思い、道の向こうへ向かった。

 でも、誰もいない。

 すると車が突然、

「帰ってきちゃった」

 としゃべった。

 冗談めかしたいい方。チハルの声。

 自動車になって戻ってきたチハルがいた。

 あれが十月の初旬。今は十一月の下旬、というか末日だ。

 今日は十一月最後の日。

 僕はチハルに尋ねた。

「本当に今日が人類最後の日なのか?」

 チハルは、

「そうよ。正確には、人類の築いた文明の最盛日だけどね」

 神様がどんな名前か、どんな姿か、それらさえ想像するのを禁じられるほど恐れ多い存在なのか。僕にはわからない。

 神様はこの世界の自然を壊しすぎた人類の文明を明日からどんどん崩していくらしい。

 これに対して、ひとつのイメージが浮かぶ。

 限度を超えた落書きをした子供が母親にクレヨンを取り上げられるイメージ。

 母親なくして子供の存在はなかった。

 落書きの影響を子供はまるで考えなかった。

 腑に落ちる構図だ。

 だが、滅亡への道を歩んでいるという事実は人類のために尽くした全存在に申し訳が立たない。心から思う。

 チハルが戻ってきた理由はタツヤだろう。

 この滅びゆく世界に関する情報が誘因となって、この世界に戻ってくるという行動を起こした。

 疑問なのは、どうして神様の情報をチハルが持っているかだ。

 チハルにも以前たずねてみたが、彼女いわく、

「神様と友達だったのよ。意外にも上の人たちフレンドリーよ」

 らしい。

 天地のひっくり返るような発言が彼女の口からぽろぽろとこぼれる。

「まぁ、神様が直に手を下すことはないけど、もう自然をなだめることはしないってさ。それを聞いて、思いきって来たのよね」

 ちょうど左折してコンビニの敷地内に入ったところだった。

 山吹色のように陽気なひと息をチハルはついた。

「そのうちタツヤは天国に来ただろうし、急ぐこともなかったのよね。あの人なら地獄に落ちるわけがないし。でも、この目でまた見られてよかった」

 コンビニの駐車場で紡がれた言葉に、

『人間はしぶといわりに変わりやすい生き物だったりする』

 と心は返事をした。

 この言葉を実際には口にしなかった。タツヤ、チハル、そしてカイトたる自分。その三者への侮辱であろう気がした。

 エンジンを切り、僕は車を降りてコンビニに入った。コーヒーと軽食と少しばかりの甘いもの。スマホにメモするまでもない。

 彼女の言葉について考えながら、チョコレートの値段と重さを確かめたり、雑誌を手にとっては興味を引く記事がないかと見つめていた。

 チョコレートは昔よりも値が高く軽い。でも、手を伸ばしてしまう。

 雑誌の特集を見る限り、五年前や十年前にも目にしたことがある話題が掲載されている。

「これは前にも見たことがある」

 と心の中でいったならば、それにさえデジャビュを感じる。

 見た目は新しくても、本質はかつての内容をくり返しているだけ。

 始まりと終わり。起こりと滅び。みんな、波のようにくり返す。

 そのことわりとチハルの言葉を照らし合わせる。

 『人類の最後』と『くり返し』。

 僕の印象は、

『一夜の滅びを与えられるというよりも、数多の試練を課せられるだろう』

 というもの。

 古今東西の話において、あらゆる人間は試される。

 文明も。

 その共同体としての人間も。

 一人という個体としての人間も。

 恵まれた環境の中で温和だった人間が困難の中に放られて、のちに悪人となることもある。

 タツヤが困難の中で腐敗し、地獄に落とされることもあるかもしれない。これは僕にも当てはまることだ。

 だから思う。

 チハルは戻ってきてよかったんだと。

 僕たちがどうなるかなんてわからないけど、変わっていないタツヤに会うことができたんだから。

 僕もうれしかった。旧友に再会したのだから。

 もう、みんなでコーヒーとクッキーをつまむ日曜日は来ないけれど。知っている人がひとり増えるだけであたたかい。

 今までに、チハルが帰ってくるまでに思い知ったことが僕にはある。

 孤独と自由は隣り合うことがある。されど混ざり合うことはない。孤独であるから自由であるとは限らないのだ。

 自由とは責任をもって行動すること。孤独は数多の定義や解釈があるかもしれないが、周囲に人がいないこと、あるいはそれに似た境遇。

 孤独でも、なにかの鎖に縛られていることはある。孤独かつ不自由。おそらく、人間としてはメジャーな状態。

 そういった考えごとをしながら、会計を済ませて店の外に出た。

 車内に戻るとチハルの声。

「ありがとう。ちゃんとコーヒーを買ってきてくれたのね。他にはなにを買ったの?」

 僕は周囲を見て、

「ちょっと、ここじゃまずいよ」

 とたしなめた。車に自我があることについて、ばれない方がいいと思っているからだ。

 対してチハルは、

「平気よ。みんな、あなたが電話をしてるって思うだけよ。だって、仮にすごい独り言をいっててもイヤホンを使って通話してるって思えば納得しちゃう世界なんだから」

 なるほど。そういう考え方もあるのか。

「世界の独り言は、みんな通話に取って代わられたわけだ」

「そう。で、なにを買ったの?」

 僕は素直に、

「チョコレート、どら焼き、あと女性誌」

 と述べた。

「女性誌?」

 イントネーションがくいっと跳ね上がった。女性誌なんて買う訳がないって感じで。冗談を疑うような抑揚だ。

「ライフスタイルとかインテリアの特集を組むような雑誌だよ。女性のセンスって目をみはるものがあるからさ」

「へぇ。じゃあ男は?」

「なにが?」

 意地悪な質問の仕方だ。

「もし女が男を見て、『あぁ、見習いたいなぁ』って思うとしたら、なんだと思う? って聞いてるの」

 なかなかにして僕は試されている、というのが率直な感想。愚鈍のろまな男だと思われたくはないが夢見がちと思われるのも同様に嫌だ。

 だがまぁ、チハルには本心を打ち明けてもいいだろう。

「ロマンと、それを追いかける手段としてのロジック」

「ウケる」

 嫌味のない大笑いが響いた。

「カイトくん、そういえば昔に力説してたね。『男はロマンを求める。女はロマンスをこいねがう』ってさ。ラブロマンスを求めていたのはカイトくんだったよね」

「うるっさい」

 火を噴くほどの赤面をこの車内にさらしているのは間違いない。

 笑いはけたたましかった。

「はー。こんなに笑ったのは久しぶり。でも、一理ありね」

 ひと息ついてから彼女は、ほくほくとした口調で語った。

「飛行機と力学みたいなものよね」

「RとLの賜物たまものだよ」

「RとL? 右翼と左翼ってこと?」

 僕の言葉遊びが過ぎたようだ。

「ロマンス(Romance)とロジック(Logic)の頭文字。それだけだよ」

 また笑壺に入ったようで笑い声が再び響く。

 大丈夫、カーステレオを使って会話をしているのだとみんな納得してくれるだろう。

 世界がどう考えるか、あるいは神様がどう考えるかはわからないがチハルの魂のことは繊細な問題だと思う。

 加えて、壊れかけていて壊しかけているこの世界に大きな衝撃を与える結果になるだろうからだ。

 深い考察ではないし、そもそも『困ったときの神頼み』のような宗教感覚の人間が多い日本では幽霊や魂、あの世といった価値観にたいしてゆるい。その点では無用な心配である気もするが。

「そろそろ行こうか」

 エンジンキーを回しながら僕はチハルに呼びかけた。

「どこまでのドライブ?」

「そうだね、国道をメインに北へ。気ままに走って、満足したらあとはナビで帰ればいい」

「わかった。じゃあ行きましょ」

 こうして、ドライブが始まった。

 道へ出る前にチハルが、

「音楽が欲しい」

 といったので持参のワイヤレススピーカとスマホをつなぎ、ランダム再生を始めた。

 ドヴォルザークの『新世界より 第四楽章』が一番手になった。

 僕らは道に出た。エンジンはうなりをもって車体に速力を与えた。

「物々しいドライブね。私は好きだけど」

 耳触りのいい音楽。

 だから会話を必要としない。

 タイヤが転がる音、反対車線の車とすれ違う際の風圧で鳴る窓、遠くから発せられたクラクション、ドヴォルザーク。無言でも音であふれているので、気まずさなんて皆無だ。

 青信号に恵まれたので、大陸横断鉄道が駆け抜けるようにタイヤはアスファルトを蹴り続けた。

 秋空は澄んでいた。碧空へきくうの下を赤い遊撃手が快活に走る。

 夏を忘れてもなお日差しは眩しい。

 僕は走っているときに考えごとをすることはない。事故のもとだからだ。運転しながら思考をくり広げる器量はない。興味も持てない。海に潜るような深い集中力には憧れをもっているけれど。

 気持ちよく道を進んでいくが、やがて十字路に立つ赤信号で止まった。さすがにずっと青信号な訳がない。

 車が止まる。思考が始まる。

 ミヅキのことを考え出す。

 すると、うかつにもたった一つの疑問がするりと口からこぼれ出た。

「チハル。ミヅキには、会ったのか?」

 チハルは空白のあとで、

「どこで?」

 と答えた。

「ごめんね、唐突に。でも、今までうまく聞けなかったことを今なら聞けるんじゃないかって思ったんだ。明日から世界が滅びだすっていう状況だったら」

 僕は今まで、本当に聞きたかったのだと思う。

 欲求を抑圧した結果がこれだ。

 無言、赤信号、のどかな空。

 エンジンの音。まるで自分の心音を聞くような心地。僕の拍動は走っていた。今はどうだろう?

 後方からクラクションを鳴らされて青に切り替わった信号に気付いた。まごつきながら、半クラッチで前進し始めた。

 交差点を過ぎたあたりでチハルが話しかけてきた。

「カイトくん。さっきの質問だけど、ミヅキちゃんには会ってないよ。というか、死んだ人には誰にも会っていないの、私」

 彼女の告白にはなにも反応できなかった。

 なにを意味するのか、分からない。なにも。

 ただなにか、ゆっくりと語りたいなにかがあることは推し測れた。

「それは、どういうことかな?」

「ミヅキには会っていない、といったところについて?」

「いや」

 僕は深く息を吸ってから、しっかりと言葉にした。

「死んだ人には誰にも会っていないってところ」

 道は滞りなく車は流れるように走った。

 エンジンのわななき、アスファルトを軽快に踏むタイヤの振動、ベートーヴェン『ピアノ協奏曲第五番 第三楽章』。

 それらが心地いい。

 フタを外した紙コップの中ではコーヒーの液面が細かく揺れていた。

 紙コップを手に取りひと口、そしてドリンクホルダーに収めた。

 カップを置いた刹那、柔らかい声がタイミングを見計らったように話しかけた。

黄泉よもぐいって知ってる?」

「ヨモツヘグイ?」

 オウム返しにしてみたが、なにも思い出せない。

「いいや。わからないな」

「じゃあ、切り口を変えるわね」

 僕らの走る道はいつの間にか変化していた。

 片側二車線から片側一車線へ。ガソリンスタンドやファーストフード店などが並んでいた道端は住宅や畑などがメインになっていた。

「イザナミって知ってる?」

「もちろん」

「そのイザナミが死んで、イザナギは黄泉の国まで赴いた。イザナミを連れ返そうとしたからだけど、結局うまくいかなかった。まず、イザナミが黄泉の国から離れられなかった理由があったからだけど、それはわかる?」

 なぜこんな話をするのかわからない。正直、回りくどいと思ったが彼女の話に返答するために古事記の内容を頭の中から引っ張り出して考えた。気が逸れて、シューベルトの『魔王』がかかっていることにも気がついた。

「イザナミは黄泉の国の食べ物を食べてしまった。故に黄泉に従属したから」

 チハルはいった。

「それが、『黄泉つ竈食』」

 車内が少し、しっとりと重くなった。

「私の場合、黄泉の国に隷属れいぞくしなければ他の死者と話すことはできないっていわれたの。でも、口にしたらもうそこから離れることはできない。だから私は意地でもなにも口にしなかった。黄泉の国の住人でもない、生者でもない。そんな私を神さまは幾度となく説得し、私はそれを退けた。さっき神様と友達になったっていったけれど、この過程での話なのよ。だからこれは都合よくできあがった、かりそめの友かもしれないの」

 僕はコーヒーを一口飲んだ。情報の整理が必要だ。コーヒーは先ほどよりもぬるい。

 彼女が死者であることを拒んでいる。

 この言葉は適切ではない。チハルは死者であることは認めている。

 ではどうして、かたくなに黄泉つ竈食を拒んだのか? その理由がわからない。

「どうして、そこまで抵抗したの?」

 道を左折しながら問いかけた。車窓を指三本分ほど開けると風が入ってくる。その風がひんやりしている。今日は、十一月の末日だった。

 チハルは返事をしない。

 僕は十一月の末日に有給休暇を取り、レンタカーでドライブをしている。友人と走っている。

 そういえば、今日は終末に当たるのか。

「二つね、目的があったの」

 チハルの声。まだ考えをまとめながら話すようにスムーズではないしゃべり方。

「一つ目の理由はタツヤ。これはわかるわよね? 会いたかったし、話がしたかった。意外と難しくて、達成できていないけれど」

 彼女はまた沈黙した。考えて、言葉にしている。努めて僕は押し黙った。言葉にも難産があるからだ。

「もう一つはね、私が産んであげられなかった赤ちゃんに、もしかしたら会えるんじゃないかって思ったの。この世に戻ればね。盲信的で脈絡もないって今だったら思うわ。でも、まだ現世をさまよっているって思うと、人の魂を動かすには十分なエネルギーがあった」

「それは、はじめから考えていたの?」

「うん、そう」

 少し休むようにチハルは沈黙した。

「最初は、飲まず食わずで粘っていれば向こうで会えると思ったの。でも会えなくて。きっと、現世のどこかにいるんじゃないかって思うことで必死に戻ってきた。『黄泉つ竈食は済ませてしまった』っていう考えは最後でよかったから」

 彼女はそれ以降、なにもいわなかった。僕は努めてだんまりした。

 前方の車群が行き詰っていたので速度を落とす。

 後方から救急車のサイレンが聞こえたので車体を左に寄せた。おおよそ中央を救急車が通り過ぎて行った。ドップラー効果がサイレンの音を低くし、

「ご協力ありがとうございます」

 というアナウンスが遠ざかっていった。

 同じくして、

『まだ生きているんだ』

 なんてことを思った。人間は、当たり前のことに対しては認識と思考を怠るのだ。

 チハルはなにもいわなかった。これではらちが明かないだろう。

 だからだんまりを解いた。

「その理由、盲信的でもチハルの子供に会おうとした理由を、聞いてもいいだろうか?」

 ぽろりとこぼした言葉。

「いいよ。私も誰かに話したかったところだから。ちょっと怖気づいていたの」

 と拾って返してくれた。

「なんでそこまで頑固になったかっていうとね」

 前置きのあと、チハルは教えてくれた。

「まだ私がおっぱいをあげていない私の子に、名前もつけていない私の子に与える最初の食べ物が黄泉に隷属するための食べ物だなんて、それだけが許せなかった。ふざけんじゃないわよって。せめて授乳ぐらいさせてやりたいって思って行動したの。そしたら」

 ずっしりとしたため息をついたチハル。

「こんな結果になった」

「ぜんぶ、黄泉つ竈食のせいだよ」

 僕は因縁のすべてを言葉にした。

「そう。ミヅキがここまで帰って来なかった理由よ」

 僕たちは道路をのろのろと進んでいる。もうここがどこで、我々はどの道を走行していて、この道がこの先でどこにつながっているかなんてわからない。

 まさにドライブだ。

 チハルが帰ってきたことで、ミズキに会えるかもしれないという淡い思いを抱いていた。

 もうそれらとは、サヨナラだ。

「ミヅキはイザナミになってしまいましたとさ」

 僕のつぶやきにくすり、とチハルは笑った。

「会いたいのなら、死んでからにしなさい」

 とたしなめるように、まずいった。

「女の醜態をのぞきに行くのはナンセンスだし、すごくダサいわよ」

 と付け加えた。

 ぼくは声を出して笑った。僕は一人で笑っているのではない。話をしている。

「ありがとう。僕は」

 そこで区切ってから、

「チハルもタツヤと話ができるようになることを望む」

 と僕の願いを口にした。

 ミヅキはもう死んだ。僕が未練たらたらでは情けない。

 気持ちが吹っ切れたからか、少し小腹がすいた。傍らのバッグから先ほどコンビニで買ったチョコレートを取り出してかじる。

 その最中にチハルがいった。

「紳士なのね」

「文明人なんだよ」

 と返した。

 この車はもともとタツヤのものなんだ。三人でドライブができたらいい。

 滅びが終わりになるかといえばそうでもない。古いと新しいの継ぎ目に終わりと、始まりがあったりする。

 この先のことを諦めるのは、死んでからだろう。

 ドライブは、午後三時になったところでいったん終了し、スマホで帰り道を検索して帰った。ほとんど渋滞のせいだけど午後六時ぐらいになってからようやくタツヤの家の前に帰ってきた。

「ねぇ、チハル」

「なぁに?」

「君はいつも、眠るのかい?」

 無生物の体に疲れがあるか、はなはだ疑問だった。

「眠らない」

 とチハルは返した。

「眠ることはできるけど、その間に『黄泉がえり』なんてしてたら嫌でしょ? そのためにコーヒーが必要なのよ、私には」

 彼女の言葉は意地や足掻きに近い。

 僕はタツヤともチハルとも友達だ。

 僕自身のエゴイズムで動いているだけだ。

「わかった。今度、目覚めのコーヒーを持ってきてあげるよ。ゲイシャを淹れて」

「いいの? そんな高いやつ」

 たしかにゲイシャは高級なコーヒー豆だ。自分で飲むように買ってきたが、少し気が変わった。

「僕も飲むけどさ。需要に対して供給するべきだ」

 ふふっ、とチハルが笑った。

「紳士ね」

「文明人だよ」

 と返した。

 ジョークは偉大な発明だ。

「今日はもう行くよ。おやすみ」

 ドアに手をかけるとチハルは上機嫌に告げた。

「よい夢を」

 と。

 それから。

 タツヤにキーを返し、自宅に戻ると最初にシャワーを浴びた。

 買ってきた女性誌をリビングで読みながらどら焼きを食べ、ひと通り読むと就寝準備をしてベッドに就いた。

 まだ、色々考えていたかったのだけれど思いのほか疲れていたらしい。

 終末の日。

 釣瓶つるべを落とすように深く、早く眠った。


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