第17話 時は流れず

 翌日。夜明け前。キースとジェフリーは岩棚の横穴に移動していた。前日設置済みの三脚に異常なし。垂直降下用機材は正常に動作する。全て良好。

 キースは、索綱に降下機を嵌め込み、牽引策や釣金具の状態を確認すると、縦穴にするりと入り込んだ。視線をジェフリーに合わせて「行きます」と一言。小気味の良い音を響かせながら降下を開始した。見慣れた光景である筈だが、ジェフリーは得体の知れない不安感に囚われていて表情は厳しい。結果はどうあれ、キースだけは無事に戻ってきて欲しいと強く願った。


 縦穴を一六カーネほど垂直に降下すると、キースは半円形状に広がる空間に抜け出た。迷宮核が設置されている玄室に良く似ている。策条に取り付けた降下機を絞り、一時停止して、上下と全周を確認する。首から下げた解毒の護身符にも反応はなく、玄室内部の空気は清浄だと判った。


 ——支障無し。


 彼は直下に散らばる微弱な光点に詰まらなさげな視線を落す。測珠の破片は、縦穴直下の石柱の頂部に散らばっていた。測珠は障害物に触れるまでは爆けることはない。


 ——それはそうだろうね。


 縦穴の直径と同じ大きさと思しき石柱の上に降り立ち、胴帯に付属の綱紐ギアループから提燈カンテラを取り外して、光量を絞っていた把手を弛めると、白い光が円蓋全体を照らし出す。複雑な紋様が浮かび上がる。紋様同士が互いを取り込むように折り畳まれる形状が円蓋全面に掘り込まれていた。提燈の白い光に応じるように各々の紋様は波打つ様に明滅を繰り返す。

 生き物の内臓が蠢いているかのような錯覚に陥るが、キースは頭を振って幻影を払うと、胴帯に吊り下げていた伝達器を手にした。その遮断器を開放、予め設定した長さの策紐が巻き取られる、と同時に滑車を通して同じ長さの策紐が送り出される。


 ——鐘は2回。


 キースは微かだが鐘の響きを聞いた。これで無事に目標の近くに辿り着いたことがジェフリーに伝わった筈。暫く待てば、巻梯子や担架などの必要装備が縦穴を通して順次降ろされる手筈になっている。装備が降りてくる迄の間、改めて周囲を確認した。

 キースの立っている柱は水面から三丈半ほど突出している。円蓋の直径は一五丈程度。提燈を強く灯すまでは真っ暗であったが、今は水底の方が明滅する青白い光を発している。水深は凡そ二丈半。水面下は円筒形の壁面に囲まれている。

 キースは雑嚢から赤玉と白玉を取り出して水面に落とした。二つの球はそれぞれ何事も無く浮かび続けて漂っている。


 ——鉱酸でも灰塩でもない。


 只の水というよりは、冒険者に馴染み深い水薬の類に見える。薬草独特の匂いが漂っている訳でもないが、色合いがそう思わせる。暫く、漠として水面を眺めていたが、水底の青い光が強くなった時に目標の影を捉えた。それは石柱の近くに沈んでいた。


「えっ?」とキースは思わず声を漏らす。


 それが遺骨ではなく遺体に見えたからだ。


 ——装備のせいで、錯覚したのかもしれない。


 迷宮の暗渠などで偶に見かけることがある。水温が低い状態が保たれ、水生生物などに食い荒らされることがなければ、遭難した冒険者の遺体が死蝋化することがある。迷宮遭難救助人サルベージャーであるキースはそのような遺体を何度も見たことがあった。


 ——水はかなり冷たい、ということね。


 カラカラと音がすると、縦穴から梱包された機材と部材が降りてきた。回収作業の時間だ。まずは巻梯子から始めようとして、キースは雑嚢から魔道具を取り出し、石柱に固定具を躊躇なく打込んだ。円蓋に小気味良い音が響く。


 ——やっちゃった。


 瞬時に身構える。無限とも思われる数拍の後、「ふぅ」と安堵して、固定具で石柱を穿ったことを後悔した。先ずは魔導具の探信儀で魔素の流れを確認すべきであった。相手は神代の遺物アーティファクトである。迂闊な行動であった。親指を立てて、いい顔で笑うカネヒラの顔が脳裏に浮かぶ。


「カネヒラのおっさんがいれば……」とキースが謐く。


 その後、作業は特筆するような事も無く順調に進み、キースは回収作業に必要な部材を取り付け終えた。

 右手の人差し指に嵌めた水中呼吸の指輪を確認すると石柱に沿って伸ばした梯子を降下器を使い、カチカチと軽い金属音を発しながら降りる。水面で一瞬浮かび上がり、そして音もなく水中に没した。

 泡に包まれたように水の抵抗はなく、キースは水圧や水温も感じない。一気に水底まで潜ると、水の透明度は高く、石柱の根元も壁面もしっかりと目で確認することができた。石柱をぐるりと取り囲むように石台が並ぶ。それらを順に辿りながら、潜った場所から右回りに四点移動すると、その先に眠るように人が横たわっていた。まるで誰かが弔ったかのように安置されている。キースにはそう思えた。

 それは女性冒険者。若い。歳の頃合いは十七か八だろう。目立った損傷はないが、僅かに胸当てが凹んでいる。躯体は朽ちておらず、キースの目にはまるで生きているように写っている。死蝋化した遺体と言い難く、つい先程、水に落ちて気を失った、と言われても違和感がない。女性冒険者の顔に触れると確信した。


 ——気を失っているだけだ。


 キースは雑嚢から指輪を取り出す。予備の水中呼吸の指輪。それを女性冒険者の右手の人差し指に嵌めた。嵌め終えてから己の行いの面妖さに気が付く。三〇年みそとせも暗い水底に生きたまま横たわっていられるだろうか?


 ——時が止まる迷宮が東方の孤島に存在するらしいけど……


 無貌の修道女が寝物語に囁いてくれた勇者の戦記に出てきた迷宮。時間の流れが極端に遅く、迷宮核が設置された玄室の一刻が迷宮の外の二〇年はたとせとなる、そんな刻が引き伸ばされた迷宮での出来事。


 ——ああ、拙いね。集中しなきゃ。


 ここで無貌の修道女の思い出に浸るわけにはいかない。隙が生じれば迷宮に心身が囚われてしまう。警鐘が響き渡り、正気を取り戻す。

 ジェフリーの依頼に集中しよう。ジェフリーの大切な仲間たちは、魔物の氾濫に巻き込まれながらも何とか岩棚の上に退避した。その中で石壁に吸い込まれたのはただ一人。ならば間違いない。この女性冒険者がジェフリーの恩人。想い人。回収対象——否——だ。

 だがこの状況すら迷宮が幻覚を見せているのかも知れない。図らずも躊躇いが頭を持ち上げてくる。悪い癖だ。


 ——くだらない。


 要救助者を迷宮から外に運び出した後、骸に変わっているかもしれない、とキースは惧れる。


 ——馬鹿げたことだ。


「本当にそうだろうか?」と不特定多数の誰かの声が聞こえる。心の喧騒は、訳知り顔で戒めを振り撒き、志を挫く。


 キースは、自身にとって初めての回収作業サルベージを思い出した。迷宮最奥で負傷して動けなくなった冒険者。仲間に見捨てられた冒険者。今や自分の得物となった双剣の持ち主との出会いを思い出す。

 その要救助者と薄暗がりの中で出会い、互いの境遇を嘆きながら、それでも実のある会話を交わした。そんな記憶が蘇る。迷宮を抜けるまで、二人でたわいのない会話を確かに楽しんだ。

 互いに支え合いながら迷宮の石の回廊を進み、魔物を避け、慎重に慎重さを重ねて迷宮から脱出することに成功した。そして馬車道に二人で辿り着いた。その筈だった。

 だが実際は、キースがジェフリーの馬車に拾われた時には、自意識は無く、大楯に白骨化した冒険者の骸を乗せて、引きずっていた。

 キースには、ジェフリーの馬車に拾われた記憶はない。迷宮の出入口が見えて、助かった、と安堵したところまでは鮮明に記憶していたが、それ以降は、辺境の冒険者組合の天井を拝むまでの間、不明確で断片的な夢のようだった。


 ——今回もかもしれない。


『だから?それの何が問題なんだ?』


 懐かしい声が間近に聞こえた。無貌の修道女の声。懐かしくも忘れかけていた声だ。キースの蟠りが消える。


 ——為すべきことを為すだけだ。


 惑いが消えれば、そこからのキースの行動は素早かった。水中での浮力を利用して、要救助者の身体を保護材で包み、水中に持ち込んだ担架に乗せて固定する。雑嚢から浮き玉と呼ばれる魔道具——冒険者組合長のアデレイド謹製——を取り出して担架の四隅に取り付けて起動させた。浮き玉の名称の通り、水没した物体に浮力を与える魔道具により担架は水面に向かって浮かび上がる。それに併せてキースもゆっくりと水面に浮上した。

 円蓋を見上げ、周囲を見回す。この空間が何を目的として創り出されたのか、何も理解できないが、石材の上に精緻に彫られた紋様は、何らかの力を操るために設えられたものであり、今も機能していることが感じられる。石の広間を満たす薄青い液体も特別な効力があるのだろう。

 キースは、雑嚢から空の水薬瓶を取り出して、石室を満たす薄青い液体を回収した。冒険者組合長アデレイドに渡せは、嬉々として、その得体を解き明かすことだろう。この水薬瓶は彼女にとっては良い土産になる筈。水薬瓶に刻まれた魔法陣を起動させて内容物の劣化を防止した。

 水面に浮かぶ担架を見つめながら次の作業を組み立てる。要救助者の装備が水中にまだ残っている。雑嚢と皮袋。片手剣は梱包前に要救助者から外した鞘に納刀。兜は石台の上。少し離れたところに右手用の小手が落ちていた。小手だげが酷く損傷していて、辛うじて原型を留めている、という状態であった。それら残地物を全て拾い集め、目の荒い網に収納した。


 ——装備を先に送り届けよう。この網の中の装備を見れば、ジェフリーさんの心の準備にもなるだろう。


 網に入れた装備はそれほど時間もかからずに穴の上に引き上げられたが、次の作業に移行するための合図が届くまで半刻ほどだろうか随分待たされた。


 ——そりゃそうか。


 キースは納得していた。苛つくこともなく、ただじっとまっていた。伝達器に合図が届く。引き上げ用の動滑車が天井から降りてきた。手早く担架を策帯で繋げ、をゆっくりと引き上げる。担架は振れることもなく回ることもなく、竪穴を登って行った。

 石柱に設置した機材も撤去しながらではあったが、巻き上げ機と梯子が今回も有効に機能したおかげで、引き上げそのものは何の困難もなく終えた。


 キースとジェフリーは、慎重に担架を縦穴のある石室から岩棚へと運び出した。休むこともなく続けて、担架を岩棚から迷宮の這入口へと移動。その間、二人は終始無言。出口付近に瓦礫が乱雑に積み上がっていることもあって這入口を抜けるのに少々手間取った。ようやく拠点に設置した寝台の上に担架を下ろすことができた頃には、陽は傾きかけていた。

 赤い西陽の差し込む天幕の中での見聞が始まった。キースは担架の横に蹲み込んで固定具を外すと、ジェフリーを見上げ、心の準備ができたかどうか尋ねた。


「開けるよ」


「ああ、頼む」


 キースは丁寧に梱包材を外し始める。水がだらだらと落ちて、寝台を濡らす。要救助者を保護する緩衝材を取り外せば、甲冑に包まれた身体が顕になる。一呼吸おいてから顔に被せていた白い布——それは精巧な魔法陣が刺繍されている——キースたちにとって弔いを意味する布を取り外した。

 濡れた髪の毛から滴る薄青い液体。血の気が失せて白磁器のような肌。生気は感じられず、人形のようにも思える。だが魂の抜け落ちた遺体の貌とは明らかに違っている。ただ気を失って横たわる若い女性の姿がそこにあった。

 キースはみじろぎもせずに女性冒険者の顔を見つめていた。ジェフリーは息を呑むほどに驚愕した。彼を取り巻く空気が固まったように重い。彼は耐えきれず天幕を飛び出した。


 暫くして、女性冒険者が不意に咳き込み、水を吐き出した。キースは迷いの無い動きで、彼女の頭を横に向かせて、寝台の横の収納箱から清潔な麻布を取り出し、自分の指を包み、口から水を掻き出すように添えて、吐き出された水を拭い取りながら、背中をさする。彼女は嘔吐し、青い水を吐き出しては咳き込むことを数度繰り返した後、苦しみが抜け落ちたかのように安静を取り戻した。力なく仰向けになると、目線をキースに向けて掠れ声で尋ねてきた。


「だれ?」


 肺臓から副雑音が微かに聞こえる。


 ——ああ、生きていたんだ。

 

「キース。迷宮遭難救助人サルベージャー。あなたを迷宮から引き上げた」とキースは冷静すぎる声音で返答する。あまりのことに感情が振り切れてしまったのか、心は波立つことはなく、静寂の中にいる。


「……そう」と応えて、彼女は目を閉じる。


 キースは彼女の首筋に指をあて脈をとる。僅かではあるが徐々に力を取り戻すように動いている。呼吸も確かめれば、穏やかな状態に変わりつつあることが判った。に刺繍された魔法陣に数回触れて再起動させた後、刺繍された面を上にして、彼女の胸の上に置いた。緑色の微弱な光が包み込む。この微弱な光は、遺体に対しては防虫防黴と損壊防止の効果を発揮する。生者に対しては、清浄と回復の作用が微弱ながらある。


「少し、眠らせて……」


 そう言うと彼女は意識を手放し、静かな寝息を立て始めた。


 キースは天幕の中に設てあった自分の寝床から厚手の布と毛布代わりの毛皮を持ってくる。彼女の頭部を布で上手に包み、毛皮を体に掛けた。本来なら装備を外し、下着も脱がせて、水気を取って清拭すべきなのだが、それは今はやるべきでは無いし、自分の役割では無いと考えた。


 ——随分、寝てたはずだけど、水の中じゃ落ち着かなかったね。


 キースは自分でも間の抜けた返しだと思った。カネヒラならムカつくほど上手い返しを口にするのだろう。傍にカネヒラ小さいおじさんが居ないことで調子が今ひとつ上がらないことをキースは自覚した。


 ふとジェフリーのことが気になり、気配を探る。迷宮の這入口でじっと動かずにいた。食台の上の水差しから木のコップに水を注いで、ジェフリーのところに持っていく。四つん這いになっているジェフリーの姿が見えた。足音を殺してゆっくりと近づき、彼の背中に優しく触れながら声をかける。


「水。これで口すすいで……」


 ジェフリーは無言でコップを受け取ると口を濯いだ。


「何をした?」


 ジェフリーが煩わしげに尋ねてきたので、キースは不機嫌そうに応えた。


「何もしていない。引き上げただけ……」


 いつもの通り、己の持てる技術を惜しまずに、依頼人ジェフリーのために、依頼人ジェフリーの大切な人のために、迷宮で失われた身体を引き上げたのだ。その筋道において、一切の妥協も、欺騙も、懈怠も、徒消もない。五年以上も一緒に仕事をしてきて、今更疑われるとは思いも寄らず、全く心外であった。


「何もしていないわけないだろ!」


 この時のジェフリーは常軌を逸していた。怒鳴り声をあげた。感情に翻弄されている。キースはジェフリーの語気に気圧される。ビクリと体が震えた。初めてのことだ。父親の様に慕っている人から不条理にも激しい感情を打つけられたのだから。ジェフリーがキースに掴みかかる。だがその手には力はなく。縋るようだ。


「ジェフリーさん。落ち着いて」


 ——嗚呼、そう言う事か。


 無貌の修道女が教えてくれた。あの時は、雲を掴む様なはなしだったけど、今ならわかるかも。


『果を新たなる因とせず。縁を断ち果を却けて逸する。簡単さ。お前ならできるんだよ』


 無貌の修道女の声。自分を抱きしめる暖かな腕。心地よい柔らかさに包まれて安寧に至った。同じようにジェフリーの頭を抱え込む。


「石室の水底で見つけた。ただ気を失っていただけだよ」


 ——そう。寝ていただけさ。死は訪れてない。


「三〇年だ。三〇年。三〇……」


 ジェフリーの嗚咽が彼の言葉を遮る。




 三〇年前。ジェフリーが魔物津波から一人生き延びた後のことだ。彼の時間はそこで止まってしまった。失った者の大きさに若いジェフリーは打ちのめされた。数ヶ月間は何もできなかったが、冒険者ギルドの併設の酒場にて、偶然だが、他の冒険者たちからあらゆる願いが叶うと言うが存在することを知った。最果ての迷宮は勇者や英雄でもたどり着くことさえ難しいと噂されていた。御伽噺だとして存在すら疑われていた。

 ジェフリーの未練は、あらゆる願いが叶うという妄執にジェフリーを縛りつけた。彼は失った人を取り戻すために力をつけた。二〇年の時を経て、数え切れないほど、迷宮を踏破し、勇者とも英雄とも呼ばれる存在となった。

 そして遂に最果ての迷宮の最深部に至り、神代の英霊たちに並ぶ存在となった。そして彼は願った。恩人の蘇りを冀った。だが彼の願いは叶わなかった。絶望のあまり神々を呪った。神々の恩寵である勇者としての力も英雄としての名声も全て無駄であったと叫んだ。勇者の力など消えてしまえと。


 『その願い叶えましょう』


 魔女の娘の一人にして最果ての迷宮主であるはジェフリーの叫びに応え、願いを叶えた。そしてジェフリーは最果ての迷宮の最深部で全てを失った。

 にしてみれば、死亡していない人間を蘇らせることはできないということなのだろうが、ジェフリーにとっては酷い結果となった。




 時が過ぎ、漂泊の果てに辺境の地に辿り着き、別の魔女の娘、にして無慈悲な魔女の二つ名を持つアデレイドに拾われ、運び屋を生業に一〇年の時を過ごすうちに、唯一無二の存在たる迷宮遭難救助人サルベージャーのキースに出会う。僥倖であった。

 キースは、迷宮の理を易々と破り、要救助者を苦もなく救い出す。通常、迷宮に囚われた冒険者は、生きていたとしても迷宮から救出することはできない。迷宮の一部となっているからだ。無理に迷宮の外へと連れ出せば、灰塵に帰して何も残らない。それが迷宮の理である。遺体や遺品も同じだ。

 だが迷宮の魔物が戦いに負け、魔物がその場に残した金品や装備品であれば、戦利品として冒険者たちは持ち帰ることができる。偶に出現する宝箱の中身も同じだ。冒険者の勇気に応えて迷宮という魔物が与える報酬なのかもしれない。

 キースと迷宮の関係は実に奇妙と言えた。迷宮はキースにだけ要救助者を報酬として与えている様に振る舞う。迷宮はキースが直接迷宮最奥に乗り込むことを許している。キースの真似をしたトレジャーハンターが降下中に灰のように崩れ、消え去る様子が、度々目撃されていた。キースが特別に神々に許されていると噂されるほどであった。実際は、今回不在のカネヒラもそうであるのだが、を持たない故に迷宮の理の埒外な存在となっているに過ぎない。

 ジェフリーがキースやカネヒラと出会い、共に仕事を受ける中で、キースたちと一緒であれば、迷宮で消失した大切な恩人を引き上げることができる筈だ、という思いが募り、先日いよいよ恩人の遺体を引き上げるのだと決意するに至った。仮令、遺体が迷宮で失われていたとしても、恩人が存在した証を、冒険者の身分証でも何でもかまわない。万難を排して引き上げるのだ、と。

 そして今まさに、その決意が成就され、ジェフリーの忘れがたい恩人は迷宮の外に運び出された。時の歪みに止まっていたジェフリーの心が、軋みながら動き始める。


 栗毛の美しい髪を一本に束ね、踊るように長剣を振るい、盾の変わりに短剣を器用に操る、とても快活な少女。将来は剣聖との呼び声も高く、西方城砦都市で知らぬものがいないと言われた冒険者。彼女の面差しが明確に脳裏に浮かぶ。


「どうなっているんだ……」


 僅かながら落ち着きを取り戻したジェフリーの言葉は、という魔女との邂逅も含め、今に至る全ての過去の事物の連なりに対する自問だったのかもしれない。対するキースの答えは実に簡素であった。


「わからない。どうだっていいよ。彼女は生きてる」


『刹那の実相が無意ではなく、仮相の心懐は有意ではない』と無貌の修道女が耳元で囁く。彼女の息遣いまで生々しさを伴って蘇る。


 ——そう。迷宮で失われたというのが間違い。


「い、生きているのか?」


 顔を上げて、グッとキースの両腕を掴み、抱擁を外すジェフリーの手に力が篭る。


「ジェフリーさん。痛い。握り締めないで……」


 キースの顔が痛みで歪むが特に抵抗はしない。


「生きているのかッ!?」


 必死の形相でキースに問う。


「さっき息を吹き返した。少し眠るって——」


 キースがそう言い終える前に振り払うようにしてジェフリーが走り出した。


「レイラ!」


 ジェフリーは軽い力で、彼自身とキースの位置を入れ替えたつもりであったが、キースにとってはかなりの勢いで振り払われたようになり、倒れてしまった。


 ——勇者は、力の加減がわからなくなるらしいけど、これはちょっと酷いかな。


 キースは少しだけ呆れた。地に伏したまま、転がっているコップを見つめ、枯れた迷宮の周りを吹き抜ける風の音を聞きながら、自分の心が落ち着くまで待った。


 やがてキースはよろよろと立ち上がる。


 ——今夜は、冷えるね。


 キースは一人、空を見上げて、冬の名残が来ることを予感した。

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