Ep.42 Thank youとトートガナシ

 島で一番大きな総合病院の奥島会病院は、空港から近い場所にあった。

 淡いクリーム色の四階建ての建物は、潮風であちこち錆びついている役場庁舎よりも大きく、新しくて清潔感のある外観だ。都内の大病院のように最新の高度医療機器を備えているわけではないが、それでも入院するのに十分な設備と医療スタッフを抱えているので、本土から隔絶されたこの島でも住民たちは安心して暮らしていける。


 美海と泉美は病院を前にして、魔王の城に乗り込む冒険者のような、固い決意を秘めた表情で顔を見合わせてうなずきあった。

 星南が入院したと須賀から知らされたのは、二日前のことだった。そのときには、具体的な病名までは聞いていない。

 練習を抜けて、お見舞いに行こうといい出したのは美海だ。


「大丈夫だよ。これまで練習で頑張りすぎてたから、きっと疲れが出たんだよ」

「そう、だよね……」

 美海は嫌なイメージを振り払うように頷く。

「とにかく、行こう」


 泉美にいわれ、意を決したように病院の玄関をくぐり、案内看板で入院病棟を確認する。三階と四階が入院病棟らしく、エレベーターで三階まで行く。ガラス扉で仕切られた先が病棟になっていて、ナースステーションで面会受付をしているらしかった。

 面会票を記載して、詰所にいた看護師に声を掛けると、彼女が病室まで案内してくれた。


「入室前に、しっかりと消毒をお願いします」


 病室前に置かれたアルコール消毒液を指し示しながら彼女がいう。二人はいわれたとおりに、入念に手指の消毒をする。さらに、病室前の足ふきマットでしっかりと汚れを落とすようにいわれたので、それに従った。


「セナ、入るよ」


 ドアをノックして美海がいった。

 大きな引き戸を開けて病室に入る。

 ベッドの上で上体を起こして座るようにしていた星南を見て、美海と泉美は思わず息を飲んだ。


 そこに美海や泉美が知っている、いつもの星南の姿はなかった。頭髪がまばらに抜け落ち、眉も剃ったように薄くなっている。顔にも首筋にも張りがなく、何十歳も年をとってしまったみたいだった。

「驚いたでしょ……」

 星南が悲しげに笑う。

 美海はゆっくりと星南のベッドに近寄る。ベッドサイドに吊り下げられた薬剤袋から伸びる細いチューブが、星南の左腕に繋がっていた。


「本当に、セナなの?」

「ごめんね。こんな格好で」


 彼女の弱々しい声に、美海は慌てて首を振る。


「あたしたち先生からも何も詳しいことは聞いてなくて、それで……きっと、最近の練習の疲れが出たんだろうって、そんなふうに思ってた。でも、これって……」

「ちょっと前から、なかなか体がいうこと聞かなくて、おかしいとは思ってた。この前、練習中に転んで怪我したところ、全然血が止まらなくて、やっぱりなって……」

「それって……」


 泉美がその病名を口にするのをためらうように、言葉を飲んだ。星南は力なく頷く。


「白血病が再発したみたい」

「再発って……ひょっとして、セナが青松大高校のラクロス部を辞めたのって」

「二年前の春の大会のあと、高校入学直前に急性骨髄性白血病に罹ったの。即入院することになって、しばらく化学療法での治療が続くことになった。その間は当然ラクロスの練習なんてできるはずもなくて」

「それで、セナをクビにしたっていうの? いくら強豪チームだからってそんなの……」

「誤解しないで。青松大高校をクビにされたなんて、わたしは一度もいったことないわ? なんとなく、みんながそう思ってるだけ。まあ、そのくらいの悪役っぽさがあったほうが倒しがいもあるかなとは思っていたけれど……」


 星南は小さく肩を揺らして笑うのと一緒に、咳込んだ。


「みんなも見たでしょ。ネレイデスには桜ノ宮先輩や森ノ宮みたいな、天才的なプレイヤーが何人もいた。病み上がりの私が必要とされるようなチームじゃなかった」

「でも東京なら、ラクロスができる学校は他にもあったのに、どうしてこんな島にきて、しかも新たにラクロス部を作ってまでラクロスをする必要があったの?」


 泉美の問いに、星南はほんの少し目許を緩め、はにかむような笑みを作る。


「知ってるでしょ? わたし、わがままなの。自分がやりたいことをやって、自分が思ったようにならないと嫌なの。一年後に自分がどうなっているかわからない。そんな状態で、今あるラクロスチームに入ったところで、きっとわたしはそのチームに何も生むことはなく、ただ、日比井星南という選手がいたという事実が、チームの年史に刻まれるだけ。それじゃ、嫌だった。ラクロスをやれるうちに、わたしが何かを残さなきゃってそう思ったの」


 三人の沈黙をさらっていくように、窓から入り込んだ風がベッドサイドのカーテンをふわりと揺らす。その窓辺を見つめ、星南がいう。


「わたしはきっと、呼ばれたんだと思う。この島でラクロスをやりなさいって、ラクロスの神様に」

「なに、それ」泉美が笑う。

「でも、おかげで私たちはラクロスに出会って、こうして全国大会の出場権も獲得できたんだから、きっとそうなんだよ。この島が、セナを必要としたんじゃないかな」

「ありがと、ミウ」


 そういいながら、星南は四十五度くらいに起こしたベッドに上体を預けた。


「ごめんね、しゃべり疲れちゃったみたい。少しだけ休ませて」

「そうだね。あたしたちも長居するつもりもなかったし、とりあえずは星南の顔が見れてよかったよ」

「こんな悪人面だけどね」


 三人でくすくすと笑う。こうやって笑い合うようになったのはいつの頃からだろうとふと思う。春に星南がラクロス部を作った当時は、こんなふうに彼女が感情を表に出すことのほうが珍しかったのに。


「じゃあ、また来るね。なにかあれば、連絡して」

「ありがとうイズミ。わたしは大丈夫、今度もまたすぐに復帰してみせるから」


 そういって病室を出ようとした二人にむかって、星南がいう。


「ごめん。ミウ、少しだけいい?」

「私?」

「うん。少しだけでいいから」

「じゃあ、あたしロビーのところで待ってるね」


 泉美はそういって病室を出た。

 美海がもう一度星南の枕元に立つと、「座って」と近くの椅子をすすめられた。椅子に座ると、ちょうど星南と目線が同じになる。


「どうしたの?」

「謝らなくちゃと思って……ラクロスを始めた頃、ミウがわたしに、秘密を教えてっていったのに、共有したい秘密はないなんていったから。本当は、こんな秘密を持っていたのに」

「こんな秘密、打ち明けられていたら、逆にどうしていいのか困ってたよ」

「ミウ、あのとき、わたしに賭けようって思ったって、そういってくれたでしょ? すごく嬉しかった。わたしのやり方が正しくないって分かってたから、正直、不安だった。でも、限られた時間で、自分が思うようにやるには、ああするしかなくて……だから、本当に何度もミウに助けられたよ」

「やめてよ、今そんなこといわれたら……」

 美海は声を震わせた。その先を言葉にしてはいけないような気がして、何もいえなくなった。


「全国大会、チームのキャプテンはイズミにお願いして。イズミなら、わたしよりも上手にみんなをまとめていけるから。それから、もし、青松大の桜ノ宮先輩にあったら伝えて。『絶対に、あなたたちを倒して、日本一になります』って」

「無茶いわないでよ……合宿のときに、絶望的な実力差だったのよ」

「大丈夫よ。みんな、本当に強くなったから……あと、もう一つだけお願い、きいて欲しい」

「なに」

 星南が小さな声で何かをいった。それが聞き取れなくて、美海は星南に顔を近づける。すると、星南が右手でそっと、美海の頬に触れた。

「ハグ、してくれない、かな」


 試合のときでさえ、彼女はハグなんてしなかったのに、恥ずかしそうにそういった星南が愛しくて、なによりも、彼女の体温を感じたくて、美海は精巧なガラス細工を扱うみたいに、そっと星南を抱き寄せた。

 胸に感じる鼓動が、自分のものなのか、星南のものなのかもわからず、このまま、二人の境界線がなくなってしまえばいいとさえ願ってしまう。

 こみ上げる嗚咽を抑えられず、ただ、彼女の耳元で何度も星南の名前を呼ぶ。

 美海の背中を抱く星南の腕にほんの少しだけ力が加わる。

 そして、かすれるような小さな声で星南がいった。


「ミウ……トートガナシ」


 トートガナシ。

 ありがとうの意味を持つ島の言葉。

 かつてはトートガナシを漢字で「尊加那志」と書いたのだと、星南の祖母がいっていた。

 加那志は愛しい人の意味。そして尊とは、尊い。大切なという意味。

 今では「Thank You」の意味で使われているこの島の言葉も、その起源をたどれば、大切で愛しい人への思いを込めた言葉だった。そして、その意味はきっとこうだったのだろう。


 ―― I Love You ――


 美海はもう涙を抑えようともしなかった。何度も洟をすすり、彼女を抱きしめながら、絞り出すように声を震わせた。


「大好きだよ、セナ」


 それから二週間後。日比井星南は十七歳の短い生涯を終えた。

 満天の星に南十字星が輝く、月のない夜だった。 

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