第8話:天安河原の戦い

 天安河原あめのやすかわらとは、太陽神アマテラスが天岩戸に隠れた時に、神議かむはかり(神々の会議)が開かれたという伝説の地である。

 巨石が無数に転がる岩屋戸川の畔は、この伝説になぞらえて、後の時代に天安河原と呼ばれた。そしてこの地で行われた九鬼と牙門の決戦も、天安河原の戦いと呼ばれることになる――


 翌朝、九鬼軍は霧が晴れるのを待って、岩屋戸川の南岸に布陣した。

 すでに対岸には牙門軍が整然と並んでいる。陣容は横に広く、川一つ隔てているというのに、半分包囲されているかのような圧迫感があった。

 影虎は陣頭で馬を立てて、敵陣を遠望していた。腹心の紋舞蘭が馬を並べて、主君に告げる。

「物見の報告では、敵は一万強。ほぼ全てが歩兵とのことです」

「流石に多いな……」

 九鬼軍は昨日の戦いで四千五百からさらに数を減らしている。数だけで言えば、戦力差は歴然である。だが影虎は悲観してなどいなかった。

「者ども聞けぇ!」影虎は馬首を巡らせ、自軍に向けて声を張り上げた。「敵の数は多いが、それは大した問題ではない。この遠征の最終目標は牙門を討つことにある。その牙門が、のこのこ出てきやがった。こうなったら話は単純だ! あいつさえ討てばこの戦はオレたちの勝ちだ! オレの長年の悲願がようやく今日、ここで叶う!」

 影虎の声に応じて、兵たちも自らを奮い立たせるかのように声を上げた。

「戦が終わったら、オレの素晴らしき故郷の味をみんなに振る舞ってやる! 駿河では出せなかったような褒美もたんまり用意してやる! だからあと一日だけ、全力で戦ってくれ!」

「おおおぉおう!」

「志摩の飯は美味いぞぉ!」

「うおおおぉおう!」

 それは不思議な光景だった。

 九鬼軍の内訳は、東国同盟の援軍として来た相模兵が三千。残りはほとんどが駿河出身の兵である。志摩出身で、最初から九鬼家に仕えていた者は、実は数えるほどしかいない。

 そんな寄せ集めとも言える軍勢が、海を超えたこの大遠征に付き従っている。それも高い士気を保って。並大抵の人物では成し得ないことである。

 一方、対岸からその様子を見つめる牙門は冷ややかだった。

「別れの挨拶は済んだか?」

 嘲弄するような言葉を、影虎陣営に投げかける。

「別れの挨拶だと……? なにを寝ぼけたこと言ってやがる。てめぇは朝の挨拶でもしてろ!」

「クッ……」

 この返しには牙門も苦笑するしかない。

 彼も影虎の人となりを伝え聞いてはいたが、噂以上の曲者であることをこの一瞬のやり取りで認めざるを得なかった。

 それでも、牙門の自信は揺らぐことがない。

「影虎よ。この大軍を前にしても威勢がいいのは大したものだが、貴様は誰を相手にしているのかをまるで理解していない。伊勢国は神の国。そして我が一族は皇帝一族天羽の庶流。つまり――正真正銘、神の血を引く一族だ。神の加護を受ける我が軍に敵はいない」

 影虎も負けじと言い返す。

「昨日、尻尾撒いて逃げやがった奴がなにを偉そうにほざく! そんなに神の力とやらが凄いというのなら、ごちゃごちゃ言わずにとっとと掛かって来やがれ!」

 牙門の言葉がハッタリでないことは、影虎も昨日の戦闘で思い知ったが、いつまでも怖気づいてはいなかった。かつて殲鬼隊で勇名を馳せた男は、妖も恐れなければ神も恐れない。

「馬鹿が……あれは慈悲というものだ」

 牙門は言ったが、それは独り言のようなもので、影虎には届かなかった。言い返すに値せぬと思ったのか、あるいは威勢のよすぎる影虎に圧されたか――

「茶番はここまでだ。始めるぞ」

 興を削がれたといった風な顔のまま、牙門は剣を抜き、号令を掛けた。

 影虎の方も前進の合図を送った。


 九鬼と牙門の決戦は、川を挟んでの遠距離戦から始まった。

 火薬の爆ぜる音が連鎖し、両岸に硝煙が立ち込める。

 九鬼軍の鉄砲隊はすべて相模兵で構成されている。相模の大将は向田むかいだ左近さこんという男で、この遠征が始まる以前から、皇国との実戦経験があった。鉄砲隊の数は両軍でそれほど大きな差はなく、まずまず互角の撃ち合いとなった。

 軍列中央の本陣で、影狼は馬に跨って戦況を見守っていた。

『怖いか?』

 心に囁きかける幸成の声。命運を分ける日とあってか、今日は朝から囁きかけてくる。

「いや……怖くはない。これくらいの戦は初めてじゃないからね。戦の経験なら幸兄よりオレの方が上だよ」

 そう影狼は言ったが、幸成の存在なしにはここまで落ち着いて戦に臨めなかったであろうことも、また感じていた。

『凄い戦力差だけど……これはもう、味方の頑張りに期待するしかない。オレたちはオレたちにできることに集中すればいい』

「うん。今日も頼んだよ、幸兄」

『ああ……オレたちで神兵を抑えるぞ』

 義兄弟同士で意気込んだところで、父影虎から声が掛かった。

「影狼、準備しろ。そろそろ出るぞ」


 牙門軍は川沿いに広く展開したまま動かず、総攻撃の頃合いを見計らっていた。

 川底は比較的浅く、渡河は容易である。敵の銃撃が止んだ頃に一斉に川を渡れば、あとは数の暴力で強引に押し切れるはずだった。

 九鬼軍に動きがあったという報告が牙門本陣にもたらされた時、まだ銃撃戦が始まってからそれほど経っていなかった。

「動いたのは弓騎兵三百。川上から迂回して我が軍の後背を突こうとしているように見えます」

「弓騎兵……影虎自らが動いたということか」

 影虎自らが率いる平安風の武士の存在は、すでに牙門松蔭も知っていた。

 歩兵を主体とする両軍の中で、まとまった騎兵戦力はこの平安武士だけである。数で劣る九鬼軍にとっては戦局を変える切り札であり、牙門が最も警戒していた部隊であるが――

「馬鹿め……ただでさえ少ない軍をさら分散させるとは」牙門はこれを好機と捉えた。「それでは遠慮なく、残った雑魚どもを潰させてもらおうではないか。全軍渡河して総攻撃を掛けよ! 弓騎兵は捨て置け。本陣だけで対応する」


 川を渡り終えた影虎たちは、牙門のほぼ全軍が、南岸に残った味方に襲い掛かるのを見た。

「ああ……なんてことだ。あれでは残った軍はひとたまりも……」

 影虎の部下の一人が、絶望のうめきを上げる。一万にも上る軍勢が一斉に川を渡る光景は恐怖であった。数で圧倒的に劣る味方が蹂躙されていくのを、黙って見ていることしかできない無力感と言ったら……

「チッ、陽動には引っ掛からなかったか」

 舌打ちする影虎。だが部下に引き返すかを問われると――

「いや、向こうには万次郎がいる。簡単にはやられねぇはずだ。それに、言っただろ? この戦は牙門さえ討てばオレたちの勝ちなんだ。オレたちはこのまま本陣を狙う」

 兵力の大半を対岸に投入した牙門軍は、本陣を影虎の別動隊にさらけ出す形になった。

 川底が浅いとはいえ、対岸に渡った軍をすぐに戻すことはできない。向こう岸に残した味方は壊滅の危機であるが、一方でこれは牙門を討つ千載一遇の好機でもあった。

「敵もそれを分かってそうしたはず。ご油断なきよう」

「ああ、分かってる」

 紋舞蘭の忠告をそれとなく聞きながら、影虎は軍を転回させて牙門本陣に向けた。

「行け! 敵本陣まで突き進め!」

 号令とともに駆け出す影虎の騎馬隊。

 その前に立ちはだかるのは鉄砲隊。牙門が対岸に総攻撃を仕掛ける前に下げていた部隊である。

 だが騎馬の足は速く、影虎隊と牙門本陣との間に割って入れた鉄砲隊は半数にも満たなかった。当然馬防柵の用意もなく、隊列も整わないままに、牙門鉄砲隊は騎馬の突撃にさらされることとなった。

「まだだ! 十分に敵を引き付けてから撃つのだ!」

 鉄砲隊を率いる将が叫ぶが、恐怖に駆られた兵たちが指示通りに動くことは不可能だった。

 遠距離からの騎射で幾人かが倒れると、狙いも定まらぬままに次々と発砲してしまった。

 影虎隊の方でも撃ち落とされる者があったが、勢いは止まらない。

「敵を十分に引き付けて――」

「遅い!」

 十分過ぎるほど敵を引き付けてしまった鉄砲隊の将は、紋舞蘭の騎射で喉を射抜かれて絶命した。

 この時、すでに影虎隊の多くは武器を薙刀に持ち替えている。

 将を失った鉄砲隊は一方的に斬り立てられ、もはや足止めにすらならなかった。

 鉄砲隊の軍列を突破した時、本陣はもう目と鼻の先であった。

 牙門本陣の兵力は見たところ影虎隊の三倍以上。まだ千人ほどは残っているようだった。

 だが、大将を囲うように配置された陣列は薄く、突破は難しくないように思えた。

「牙門様……敵がもうあんな所に……!」

 牙門の衛兵の一人がうろたえた様子で主君に告げる。

 その視線の先では、影虎が勝ち誇ったように呼ばわっている。

「もう逃がさねぇぞ牙門松蔭! 今にオレの親父と同じ所に送ってやる! 詫びの台詞でも考えておくんだな!」

 本陣に迫られた危機的状況――のはずだが、牙門の口元には不敵な笑みが浮かんでいた。

 太鼓の音が鳴り出したのは、その時だった。狂気をはらんだ子供の叫び声も聞こえてくる。

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