第12話 初めての口づけ
怒りを抑えたような重低音が聞こえて、ラナウィは思わず振り返った。
そこには漆黒の髪色の美丈夫が、腕を組んで立っていた。
家出したはずのバルセロンダだ。
着ているのは魔獣討伐隊の隊長服で、ところどころ血や泥で汚れている。とても晩餐会に出席するような格好でない。
また、結婚式と同じ格好――ラナウィは呆れつつも、苦笑してしまう。
眉間に刻まれた深い皺だって、彼の不機嫌さを表しているけれど不思議と怒りは湧かなかった。
会えば不安になることがわかっているのに、会いたい人。自分の情緒を一瞬でぐちゃぐちゃにしてしまう困った人。
どんな格好をしていたって、彼はラナウィの想い人なのだと実感する。
「せっかく呼ばれたのに仕事の関係で遅れてしまって申し訳ない。しかもこのような格好で晩餐会には相応しくないので、今夜は失礼させていただく。帰るぞ、ラナウィ」
「待て、姫を連れていくのは問題だろう」
ダヤンヤ侯爵がすかさず制止の声をかける。
「結婚したばかりなんで大目に見てほしいものだ」
威嚇するように笑って、彼はラナウィの手を取ると晩餐会の食堂から足早に出た。
王城の回廊までやってくるとピタリと足を止める。
手を取られたまま、振り返ったバルセロンダに、呆れつつ声をかけた。
「こんなことして外交問題になるわよ」
「新婚家庭から妻を連れ出す方が悪い」
「出て行っちゃったのバルスのくせに」
「あれはお前が……っ。いや、いい。もう薬は抜けたのか?」
「薬って魔法薬? ヌイトが作ったのよ、そんなに効果が短いわけないじゃない」
窺うような視線にはなぜか怯えが混じっているように見えて、ラナウィは内心で不思議になった。なぜ、それほどにバルセロンダが狼狽えるのか理解できない。
「なんで、そんなに普通でいられるんだ!」
「だってバルスがこうして迎えに来てくれたから。晩餐会、とても苦痛だったから、貴方が助けてくれて嬉しい」
するすると心情を語る口に、ラナウィはいっそ感心した。
いつもならば、恥ずかしさと悔しさで決して相手に伝わらないのに。
ヌイトゥーラの魔法薬はさすがだと納得せざるを得ない。
だが、告げられたバルセロンダは絶望的な表情でラナウィを見つめている。
「まだ、抜けてないだって……」
やはり夫は、ラナウィの想いが迷惑なのだろう。昔から、彼は自分を拒否してばかりなのだから。
魔法薬を飲めばすべてが変わると思っていた。いい方向へと。
だというのに、現実は厳しい。どうあがいたところで、自分が彼に愛される日はこないということか。
薄々分かっていたことだが、胸が痛くなった。
「仕事中だったのでしょ。私はこのまま帰るから、貴方は戻って? 一段落したら、家に帰ってきてよ。せっかく結婚できたのに、あの屋敷で、独りで待つのは悲しいわ」
「だから、そんな顔で俺を見るな!」
バルセロンダの腕にすがりつつ懇願すれば、彼は表情を一変させ怒鳴った。
憤怒の顔をした彼はそのまま、噛みつくようにラナウィに口づけた。
「ふっ…ん」
初めての口づけに、ラナウィはただただ翻弄された。
物語のように騎士が姫に送る、そっと触れるような優しい口づけではないのに。想像とはかけ離れた荒々しさになぜか甘さを感じる。柔らかくて温かい。
圧倒的な幸福感は、胸を痺れさせて、涙を滲ませた。
とろんと瞳を蕩けさせて、愛しい人を見上げれば怒りに染まった灰色の瞳を向けられた。
「今まで一度だって、そんな顔を俺に向けたことないくせに。なんで怒らないんだっ」
「だって結婚したじゃない…?」
「違うだろ、魔法薬のせいだろう! ああ、くそっ……さっさと帰れよ」
バルセロンダは吐き捨てて、そのまま足音荒く回廊を去って行ってしまった。
置き去りにされたラナウィはただただその大きな背中を見送るだけだった。
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