ハヤシライス③

 米を炊いている間に美味い飯屋、面白かった本や映画など色々話していると、ハチクマさんの奥さんが帰ってきた。

 一目見て、言葉を失ってしまった。顔のあたりを巡る血が、今にも沸騰してしまいそうだ。


「お帰り。紹介するよ、日本食堂期待の星……三代目だ」

 本名で紹介しないのか、と思い全身の力が抜けた。長らくあだ名で呼んでいるうちに、本名を忘れてしまったのだろうか、あり得る話だから恐ろしい。そして俺もハチクマさんの本名を時々忘れるし、今も思い出せない。


「まあ、お噂はかねがね……主人がお世話になっています」

 手本のような挨拶に、生まれも育ちも下町の俺は動揺してしまい、地に足つかぬよくわからない返事をしてしまった。

「丁度よく、飯も炊ける頃だ」

 振動のない陸の上であるにもかかわらず、ハチクマさんは列車食堂の厨房と変わらない姿勢で、台所に立っていた。

 はたから見ればおかしな格好だったが、俺も親父の店の厨房で同じように立つのかもしれない。


 台所には肉の代用に油揚げ、玉ねぎ、ウスターソース、トマトケチャップ、そして醤油が並んだ。ソースもケチャップも、使った形跡がない。

「あら、今日は何ですか?」

「いいから、疲れているだろうから座って待っていなさい」


 奥さんが俺の向かいに座ると、俺の身体は緊迫されてしまった。ウェイトレスをからかうのは俺の十八番おはこだが、どうもこの人だと駄目だ。

「うちの主人、料理を何にも教えてくれないんです。いじわるでしょう?」

「厨房と台所じゃあ勝手が違うでしょうから、俺でも教えられるかどうか……」

「洋食をねだっても、いつも言葉を濁して魚を煮たり焼いたりで、主人の洋食は見合いの席で一度食べただけなんです」

「何の用意もないのだからひどい話だよ。旦那様も人が悪い」


 台所で鍋を振るいながら弁明するハチクマさんに、奥さんが悪戯っぽい声で返した。

「あなたが作った洋食、美味しかったですよ。私も両親も、あれで見直したんですからね」

「ひどいなあ……。それと今日の晩飯は洋食だ、三代目に感謝したまえ」

 まあ、と言って目を輝かせる奥さんから思わず目を背けたが白く細い足が映ってしまい、やり場に困った末に膳を見つめ、うつむいた格好になってしまった。


 油抜きした油揚げと玉ねぎを炒める香りが居間に届いたところで、台所からはコトコトと煮込む音が聞こえてきたと思うと、さあできたとハチクマさんが膳に皿を並べていった。

「こんなに早くできるものなんですか!」

「ウスターソースもケチャップも醤油も、長い時間と多くの手間をかけて作ったものだ。調味料は最早、料理だよ」


 すると奥さんは、秘密の花園を見つけたように瞳を輝かせた。

「まあ、ハヤシライスね……」

「牛肉ではなくて、申し訳ない」

 ハチクマ夫妻の間に、俺が立ち入る隙はない。これがきっと、見合いで出された思い出深い洋食なのだろう。


 食べてみると、あっという間に作ったとは思えない、ちゃんとしたハヤシライスであった。陸の厨房で長い時間と手間暇をかけて作っていたのが、信じられなくなってしまう。

 ふわふわした油揚げを口に入れると、封じ込めていたハヤシソースが溢れだした。肉では出せない食感は、とても代用品とは思えない面白さだ。


 俺と奥さんとで絶賛していると、ハチクマさんの表情が曇り、悔しそうに

「敵わないなあ」

と言った。味覚に敏感で探究心旺盛なハチクマさんには、急ごしらえのハヤシソースでは不服なのだろうか。


「やっぱり、洋食屋の方が美味いですか?」

「お肉の用意がなくて、すみません」

 ハチクマさんはニッコリ笑ってかぶりを振った。その笑顔は、奥さんに向けられたものだ。

「いや、家庭料理には敵わないと思ったのさ。こういう皆で膳を囲む温かさは、どうしたって店では作り出せない」

「そうね。あなたが作るハヤシライスは、私たちにとって特別な料理ですもの」

 俺は微笑み合うハチクマ夫妻から目を逸らし、ハヤシライスを口へと運んだ。

 甘くて……何て美味さなんだ。

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