ハヤシライス②

 彼が皿を持ったまま、ぼろぼろと大粒の涙をこぼしていた。手にしていたのは、鱧の湯引きである。

「世の中には、こんな美味しいものがあったんですか」

「そ、そうやな、鱧ほど美味いもんはないな」

 うちの若い者が、と主人に謝ると「面白い若者ですな」と笑ったので、土産話を作れたからええか、と思って彼を放っておくことにした。


 それから、手が空くと食べ物のことばかり考えるようになってしまい、とうとう

「お世話になっておきながら申し訳ございません、暇をください。東京には、もっと美味いものがあるはずや」

と言って、店から出て行ってしまったのだ。


 私はすぐさま、料亭の主人宛に手紙を送った。

 儲けなどはいらない、かんざしひとつでも構わないから、東京で商売をさせてくれ。あの若者の消息が気になって仕方ないのだ、と。




 膳所本町は松江を小さくしたような、湖そばの城下町だった。

 見合い相手の家に着いてすぐ居間の隣で待ち、旦那様の合図でふすまを開けると、写真のコックが着流し姿で腰を抜かしており、私たち家族は呆気にとられてしまった。


 聞いた通りの食道楽で、宍道湖のしじみや出雲蕎麦のことばかりを聞いては嬉しそうにしており

「滋賀には瀬田しじみや伊吹蕎麦がある、やっぱりご縁があるのやなあ」

と、笑っていた。

 あちらのご両親は「早よう落ち着け」と言いたげに、肘で突いている。


 これが見合いだと知らされてから、彼は白昼夢の中にいるようになり、隙ありと言わんばかりに旦那様が話を進めた。私たちもその勢いに圧倒されてしまい、家同士の大事な話であるにも関わらず、ただただ聞いているばかりである。


 悪人ではないし、しっかりしたところに勤めているが、この人で大丈夫とは思えない。


 旦那様に「考える時間が欲しい」と伝えようと思った矢先、彼が私たちに洋食を振舞うことになった。

 これもまた突然のことだったようで、彼は血相変えて家を飛び出し、息切れさせて帰ってきた。

 皆でこっそりと台所を覗くと、背筋を伸ばして軽やかに包丁を捌き鮮やかに鍋を振るい、あっという間に出来上がった洋食七人前。こんなに早く作れるものかと、またもや呆気に取られてしまった。


「急ごしらえで申し訳ございません」

と彼は頭を下げていたが、洒落しゃれていながら馴染み深さもある味付けで、洋食を滅多に食べない両親も美味い美味いと喜んでいた。

 彼は食事の間、残った調味料をどうすればいいか、真剣な顔で母親に教えていた。

 この一件で、誠実で真摯な人柄を垣間見た。

 腕は口ほどにものを言う、とでも言うのだろうか。私たちは、胃袋から心を掴まれてしまった。




 ハチクマさんの新居にお邪魔することになった。休日が一緒だと、洋食屋の開拓と研究に付き合わされることはあったが、家に行くのは初めてだ。

 間借りしていた荒物屋から丁度いい空き家があると紹介されて、今までと変わらず川崎大師に暮らしている。


 今日、奥さんは目黒へ勤めに出ているそうだ。

 コックの賃金があれば、嫁を働きに出さずとも暮らしていける。ハチクマさんの食道楽が祟って借金があるのかと思ったが、そうではなかった。

「我々は短くても一泊二日、二泊三日や三泊四日は当たり前だろう? その間、嫁は家を守っていろだなんて、つまらないじゃないか」

 俺が思っていた夫婦の認識とはだいぶ違うが、ハチクマさんらしく妙に納得できた。


「ふたり揃って休みの日は、どう過ごしているんですか?」

「滅多にないけど、一緒に買い物するくらいかな。開拓した飯屋に連れて行きたいところだが、こういうご時世だから難しくなってきたね」

「ひとりの休みでも開拓は難しくなってきましたか」

「うん、最近は本を読んでばかりだ。日に日に規制が厳しくなってきて、色々不自由だね」


 部屋の隅には本がいくつか並んでおり、見てみると芥川ばかりである。

「芥川がお好きなんですか」

「いや……生まれも育ちも東京の芥川に東京弁を習おうと思って……。今は嫁から、ちゃんとした東京弁を教わっているところだよ。あっちは島根なのにね」


 それで本を読んでいるような喋り方だったのかとわかり、我慢できず大笑いしてしまった。外国語だって、そんな覚え方をしないだろう。

「そういうことでしたか! ずっと変な喋り方だと思っていましたよ!」


 笑い転げる俺を見て、ハチクマさんはみるみる真っ赤になっていった。

「そろそろ嫁が帰ってくるから、飯の準備をしないと」

 はじめは照れ隠しに逃げたのだと思ったが、窓から黄昏たそがれ色が差し込んでいた。


「三代目も食べるかい?」

「え! ご一緒していいんですか?」

「何がいいだろうね」

「家で洋食は作らないんですか?」


 少し黙ってから「作らないね」とだけ答えて、また口をつぐんでしまった。

 実家が洋食屋の俺にはわからないことだが、数少ない列車食堂のコックであっても、男が飯炊きを生業なりわいにしていることを恥ずかしい、とする風潮があった。

 食堂車従業員は皆、職場であったことを外では話さないのだ。ハチクマさんも例外ではないようである。

「そうだな、たまには洋食にしよう」

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