オムライス①

 少しばかり考えるような素振りをしてから、やはりオムレツかな、と言ったのはハチクマだ。


 夕焼けに染まった街を行く京浜電車でハチクマと、先ほどまで一緒に列車食堂で働いていたウェイトレスは、あかね色のヴェールに包まれていた。


 食堂車ではフライ返しを使わない。手首の動きだけで、中がとろっとした半熟のオムレツを綺麗に作るのは本当に難しく、今までに数えきれないほど練習を重ねてきた。しばらく注文がないときは家で作っている。

 そう言って、手首の動きをやってみせた。


「コックになる少し前に、まかないでオムレツを作らされた。それはもう、汗だくになって作ったものさ」

「オムレツを綺麗に作れたら、一人前ということですか?」

「うん、だからコックになりたければ、まずニワトリを飼うといい」


 鉄橋を渡る音がした。斜めに立ち上がった無数の鉄骨が、ふたりの時間を映画のように切り取っていた。穏やかな川の流れが、胸に隙間を開けて冷たい風を吹き込んだ。


「あ、ハチクマさん」

 彼女の顔を見つめると、長い睫毛と小さくふっくらした唇が光の中に浮かびあがって、時が止まったような気がした。

「私の家の近くに、美味しいパン屋があるんです。よかったら来てください」

 時が動き出した。彼女の家に行ったことはないが、話の流れで大体の場所を聞かせてくれていたのだ。実家がお茶屋を営んでいるそうで、茶娘からチャコと呼んでいた。


 川崎から乗り換えて川崎大師へ、そこにハチクマの住まいがあった。東京と横浜の間で、どちらの洋食屋で働くにも都合がいいと思って選んだ町だった。

 家主がニワトリを飼っており、頼めば卵を分けてくれるので、滋賀を出てから今に至るまで荒物屋の二階を借りている。世話になっているお礼に洋食を振舞っているので、出ていこうかと考えた際には、家主に必死の形相で引き留められた。


 休日には地の利を生かして東京か横浜の洋食屋に食事に行くことが多い。あの店の何という料理が美味い、という話を聞きつけては食べに出掛けて、行った先で新たに店を見つけて今度はここに入ってみようか、という過ごし方をしていた。


 考えながら食べていると美味しそうに見えず、その店のコックが不安になるし、自身もそういう客を見るとハラハラするので、ただ単純に美味い美味いと言いながら食べていた。

 店を出てから家に帰るか喫茶店に寄るかして、料理の余韻に浸りながら、あれはどうして美味かったのか、どうしたらあのようになるのかを考えてニヤニヤと過ごしている。

 導き出した答えを家の台所で試すことは難しいので、食堂車の厨房で確認する。自信がないときはまかないで確かめるが、そうでなければ客を実験台にしているので、答えが間違っていたときは悲劇である。


 しかし、美味しいパンが気になってならない。家ではもっぱら米食で、客としてもコックとしても、与えられるパンの味を問うことはなかった。

 美味しいパンは盲点だった。


 横浜の子安という町に来た。賑やかな商店街がずっと続いており、終わりが見えない。

 歩いて行くうちに、これかと思わせる雰囲気が醸し出されるパン屋が現れた。

 パン自体の味がわかりそうものを選び、適当なところに落ち着いて、それを昼飯にした。

 もちもちとした弾力があり、ほのかな甘さがある、ずっしりとしたパンだった。言ってしまえば餅に似ており、米好きでも美味しく食べられるだろう、と思わせる。

 門外漢なので秘密や秘訣は見当もつかないが、カレーやビーフシチューなど米にも合う味の濃いものに合いそうだ。


 パンには満足できたが、期待した奇跡も偶然も起きなかった。

 あったとしてもどう声を掛け、何を話せばいいのだろう。食道楽で洋食一辺倒のハチクマには、パンの感想しか思いつかず、気の利いた言葉など出てきてくれない。

 ああ、何と不器用なんだ。フライ返しを使わずにオムレツをくるめても、ひとりの女を気障きざな台詞で抱きとめることなど、とてもじゃないができそうにない。

 もう市電に乗って、野毛か伊勢佐木町の洋食屋で夕食としよう。そう考えてハチクマは、チャコの住む町を後にした。




「うわ、はもやないか。昼からどないしたんや」

 破顔とはこういう顔かと思わせる笑顔をハチクマが見せた。盆休みで滋賀の大津、膳所本町ぜぜほんまちの実家に帰ってきたのだ。


 戸惑い顔の両親が互いの顔を見合わせてから、おずおずと口を開いた。

「急な話やけどな、お前に会ってほしい人がおるねん」

「あ、あんたまだ食べたらあかんよ」

 鱧をおあずけ食らい、狐につままれたような顔である。すると正面のふすまが開いて、ハチクマはおののき仰け反った。


「だ、だ、だ、旦那さま!」


 貫禄たっぷりの男がピシャリとふすまを閉め、のしのしと入りハチクマの正面に座ると、両親がどこからともなく鱧を出した。

 ハチクマが学校を卒業して、最初に働いた呉服屋の社長である。

「どや、東京には美味いもんあったか」

「は、東京には鱧がございませんので、恋しゅうございました」

 平伏しているハチクマを、旦那様は声を上げて笑い飛ばした。

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