ハムライス③

「こいつは餓鬼の時分から厨房が好きでねぇ、頼んでもねえのに手伝いやがる。あの時も学校から帰ってきてすぐ、私の仕事を見ていたんでさぁ」

 あの時とは、位牌に刻まれた大正十二年九月一日、関東大震災のことであった。


「店はあっという間に潰れましたが、私とこいつは天井がカウンターにつっかえたもんで、命拾いしました。運よく通りに面した壁が破れて、私らはすぐ店の外へと這い出た。昼飯を食いに来た客もいましたが、同じように隙間ができたので何とか助かりました」


 親父はため息を飲み込んだ。

「居場所が悪かったんだなあ、もっと近くにいてくれりゃあ」

 この当時、まだ関西にいたハチクマも大惨事を新聞で知り絶句した。わずかな情報だけで衝撃を受けたのだから、被害に遭った人たちの苦労は想像もつかなかった。


「昼飯時でしょう? 一瞬でうちも周りも火の海になりましてね、逃げるのに必死でしたよ。白い服を着ているもんだから、暴徒だとか火付けをしたとか井戸に毒を入れたとか、自警団に問い詰められて……。一緒に逃げた客が日本人だ、コックなんだと言ってくれたから助かりましたが、いやもう、そりゃあ、ひどいもんでした」


 ハチクマの頭には、閻魔大王不在の地獄絵図が思い浮かんだ。地震は甚大な被害をもたらしたが、流言飛語による暴行や混乱に乗じた事件の方も凄惨だったのだ。

 罪人でもないのに責苦を受けるなど、本当の地獄であろう。


「それは大変なご苦労を……」

 重苦しさに押し潰されて、うつむいているハチクマに、親父はフッと笑って見せた。

「あの日のことを、これだけ話せたのは初めてです。あんな焼け野原になった東京を目にすることは、もう二度とないでしょうね」

 ハチクマは黙ってうなずいた。こんなつらい思いを、二度とさせてはいけないと。


「とりとめのない話になっちまいましたね」

「いえ、私は関西なので詳しく知りませんでした。こう言っていいのかわかりませんが、聞かせていただき、ありがとうございました」

 親父が愛おしいものを見る顔をして、仏壇に目をやった。


「立派なコックになって店を継ぐっていうのは、せがれとかかあの約束なんです。遠くに行っちまったから、その思いが強くなっているんでしょう」

「奥様にお線香をあげたいのですが、よろしいですか」

 親父は是非と言ってろうそくに火を灯して仏壇の前を空けたので、ハチクマは粛々と位牌の前に座った。

 一筋の煙が立ち上り、りんの余韻が静かに消えていった。


「遊びに来てくれたのに料理に線香まで、本当に申し訳ない」

「いいえ、料理は好きなので。出来ることなら、もっと厨房に立っていたかったくらいです。それに休ませていただきまして、ありがとうございました」

 しかし少し眠ったくらいでは、腕の重さは取れなかった。夜行列車で夜と朝、仮眠を挟まずこの店でハムライス三皿に、とどめのオムライス。少々、鍋を振りすぎたようだ。


「よかったら晩飯を食べていってください、今度こそ私の料理を食べてもらいますぜ」

「是非、お願いします。メニューはおまかせします」

 親父は自信とやる気に満ちた顔をしてみせた。

 ハチクマは助かったという顔で腕を揉んでいた。いくら好きでも身体には限度がある。


「ところで関西のどちらですか?」

「滋賀です」

「ははあ、そうですか。先日、修行した店に挨拶して師匠から聞いたことなんですがね、ふらっと飯を食いにきた若造が、美味かったから働きたいと言ってきて、雇ってみたらすこぶる腕が良く、あっという間に店のメニューを全部作れるようになったそうです。師匠もいい歳なもので、跡継ぎにしたいと願い出たら、次の日から店に来なくなって、もう何年もその若造を探しているそうなんです。知り合いのコックにも、何人かそういう目に遭っているのがいまして、皆で血眼になって探しているそうです。確かその若造も滋賀だとか言っていたそうですが、同郷人として何か知りませんか」

 ハチクマは、逃げる術を考えることで頭がいっぱいになった。

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