彼女の密かな愉しみ

oxygendes

第1話

「こんにちは、当院は初めてですよね。どこか具合が……」


 話している途中で、患者さんの不思議なものを見るような表情に気がついた。そしてその顔は……、

「もしかして、高島先生ですか?」

 私の言葉に患者さんは治療イスのヘッドレストから少し頭を上げ、首を巡らせて私をまじまじと見つめてきた。

「そうだけど。と言うことは……、ええと片桐クン?」

「はい、お久しぶりです」


 男性は高島先生、高校の時の体育教師だった。

「そうかあっ。えーっと、何年ぶりかな?」

「卒業以来ですから、八年になります」

「もうそんなになるのか。そうそう君は歯科大に進んだんだった。念願の歯医者さんになれたんだね」

「おかげさまで」

「いやいや、君は昔から頑張り屋さんだったからね。よかった、よかった」


 喜んでもらえたのはいいけど、治療イスに座り紙エプロンを着けた先生の姿はお世辞にも威厳があるとは言えない。

「それで高島先生、来院されたと言うことはどこか具合の悪いところがあるんですか?」

「ああそうなんだ」

 先生の表情が曇る。

「虫歯になってしまったのかな。ここのところ右の奥歯が疼くんだ」

「じゃあ、見てみますね。まずそこのコップの水で口をゆすいでください」

「う、うん」

 先生は紙コップを取って水を口に含み、くちゅくちゅして吐水鉢に吐きだした。

「イスにもたれてヘッドレストに頭をあててください。イスを倒しますから」

「ああ」


 あの頃、高島先生は新人教師で女子の間で人気が高かった。走る姿が躍動的でかっこいいとか、笑顔がかわいいとか言われていた。でも、私にはぴんときていなかった。適当に言葉を合わせていたけど、どこがいいのかまったくわからなかった。


「お口を開けてください」

「うぐ」

「上の歯ですか? それとも下ですか?」

「うえ゛のおぐからにばんめぐらい」

「はい、見てみますね」


 大きく口を開いた高島先生に顔を寄せる。そういえば、歯科医になって何十人も歯の治療をしてきたけど、知り合いの治療はこれが初めてだった。普段は治療対象として無心に観察、検査し、機械的に処理していく患者の口の中に、不思議な生々しさを感じた。


 検診針を先生の口に差し入れ、順番に診ていく。虫歯の無いきれいな歯の中に一か所だけあやしいところがあった。


「あら、ここですね」

「うう……」


 先生が情けない声を上げた。きれいな歯だけに治療は初めてなのかもしれない。

 検診針の先端で患部を突いて状態を見定める。

「ほんの初期の虫歯ですね。すぐに治りますよ。でも……」

 私は顔を上げ、目を見開いてこちらを見上げている先生の顔を見る。

「少し削らないといけませんけどね」

「あぐ」

 先生は少し涙目になっている。大きな図体をしているくせに情けない。多くの患者さんを治療してきて、初めて抱く感情だった。そして同時に、可愛いと思った。


「じゃあ、治療にはいりますね」


 私は検診針を、歯を削るためのロータータービンに持ち替えた。手元のスイッチで回転をオンにする。

「ヴーッ」

 ヘッド部分のローターが高速回転を始め、低い音を響かせる。その音で安定した回転を確認し、先端のドリルの脇から注水が出ていることを目で確かめた。


「お口を開けてください」

 先生は涙目のまま、私を見つめた。その両手はアームレストをきつく握りしめていた。怯えるようなまなざしに少しいらっとする。タービンを持ったまま、先生に顔を寄せた。


「大丈夫ですよ」

 やさしく微笑みかける。

「私に任せてください。学校ではあなたが先生でしたけど、ここでは私が『先生』ですから」


 一瞬の逡巡の後、彼は小さくうなずき、私を見上げた。そうよ、私にすべてを任せて。ちゃんときれいな歯に戻してあげますからね。

 私は彼の口の中にタービンを差し入れた。


  乁 乁 乁 乁 乁 乁 乁 乁 乁 乁


 治療を終え、私はこれまで味わったことのない充足感に満たされていた。虫歯はきれいに削り取り、光硬化樹脂で充填した。治療イスのそばにスツールを寄せて、彼とこれからのスケジュールを相談する。


「治療は済みましたけど。予防のために歯石のクリーニングをしておきましょうね。今だったら来週の水曜日の五時半の予約がとれますよ」

「お願い……します」

 彼は茫然とした面持ちのまま答えた。まだ初めての治療のショックから回復していないみたいだ。

「一番最後の時間枠だから少し後ろにずれるかもしれませんけど、大丈夫。いくら遅くなってもちゃんと最後までお世話させていただきますから」

「はい……」


 スケジュール表に記入しながら、ふと思いついた疑問があった。

「そういえば、前は甘いものは苦手じゃなかったですか? お菓子の差し入れがあっても受け取らなかったりして……。どうして虫歯になんか?」

「ああ」

 彼は治療イスに寝そべったまま答えた。

「今でも苦手なんだけどね。嫁さんがお菓子作りのサークルに入っていて……」


 彼の口からその言葉を聞いた瞬間、動転して息が止まってしまった。手から落ちそうになったペンをあわてて握り直す。

「魔女の何とかって言うサークルで、週一回、作ったお菓子を持って帰ってくるんだ。それを食べないわけにはいかなくてね」

「そ、そうなんですか」


 自分の声が裏返ってしまってないか、心配しながら彼の顔を見る。彼は何も気づいていないようだった。そっと息を整えてから、会話を再開する。

「奥様の気持ちを考えたら食べないわけにはいけませんよね。でも、あなたの歯も心配だし……。どうかしら、歯の治療をしたことを話して、食べる量をこれまでの半分で許してもらったら」

「そうだな。それがいいかもしれない」

「気を付けてくださいね」


 彼が帰って行くのを見届けた後、私はへなへなと座り込んでしまった。まさか、そんなことが……。


 サークルの名前は正しくは『魔女の大なべ』だ。私が主催者を務めている。純粋にお菓子作りが好きで始めたサークルだけど、歯科医がお菓子作りのサークルをやっているなんてしゃれにならない。人に知られたらマッチポンプと誹られるだろう。誰にも言えない秘密の趣味だった。


 私はメンバーの顔と名前を順番に思い浮かべていった。そして一つの名前に行きつく。まさか、奈緒さんが彼の奥さんだったなんて……。

 いずれにしても、今日のことは奈緒さんには秘密にしなければ。そして私には彼の歯科医としてやるべきことがあった。


 バッグからスマホを取り出し、メモリーから次の例会で作るお菓子のレシピを読み込んだ。ウィーン風のチョコレートケーキだ。

 材料表の分量のところをチェックする。スポンジケーキを作る時に加えるグラニュー糖の量は二百グラムにしていた。さっき彼に言った言葉を思い返す。『食べる量をこれまでの半分で』、だったら……。

 私は数字を六百グラムに書き換えた。全体をチェックしてから保存する。全体をコートするチョコレートに加える砂糖の量は変えなかった。こちらを変えると味の違いが目立ってしまうから。


 これでいい、だって彼は私の患者なのだから。ずっとずっと私がお世話する……。けっして手放したりなんてしない。

 私は次の例会に思いを巡らせ、奈緒さんに向ける笑顔を鏡の前で練習してから、スマホをバッグに戻した。


            終わり

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