人格化する人間以外の生物

 前者において悲しみを覚えたのは、ガシラに人的側面を見出してしまったからだろう。


 例えばウニの卵巣やイクラ、子持ちししゃもなどに対して悲しみを覚えたことはない。それらは食材であり、物質にすぎないからだ。身の回りにあるただの物質に悲しみを抱く人間は(きっと)いない。魚の腹を残虐に切り開いてむしり取った卵を、米に乗せたり火で炙ったりして嬉しがる。こんなことができるのは魚を単なる物質と見ているからだ。


 我が娘の腹を残虐に切り開いて卵巣をむしり取り、米に乗せたり火で炙ったりして嬉しがる両親はいない。娘が真の意味で人間だからだ。


 ところで、私はガシラにそのような残虐行為を行なって悲しみを覚えた。この理由はやはり、ガシラを人のように見ているからではないか?


 ガシラでなくともいい、例えば飼い猫飼い犬の腹に包丁を当てて切り開き、卵巣をぶち抜くことが耐えられる人間はいないだろう。これは人間が飼い猫飼い犬を人と見なしている確固たる証明になるだろう。


 私が何を言いたいかというと、生物の命の大切さや尊さというものは、人間のそれに置換して初めて感ぜられるということだ。人間はただの物質と見なした生物にそのような感情を抱くだろうか? スーパーに並んでいる食材に、いちいち悲しみを抱くだろうか? そこら辺をうろつく鼠やゴキブリ🪳が死んだからとて悲しみを抱くだろうか。


 抱いたと仮定しよう。そのとききっと、食材や鼠や🪳が最後の苦痛の表情を浮かべていると錯覚している。それらを人格化して生物と人間が必要十分の関係になっている。


 一つ、推測できることがある。


 殺人鬼は、人間をただの物質と見なしているということだ。非常に恐ろしい。我々一般人は即座に殺人鬼をただの物質と見なし、逃げ去る。

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命、というものを感じる瞬間 島尾 @shimaoshimao

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