呪いのスプラッタービデオ

がしゃむくろ

一話完結

「腹ぁ、食いしばれぇ!」

 宮崎さんがそう叫ぶと、私はぐっとお腹に力をこめた。ふつう、食いしばるのは歯だけれど、彼が顔を殴ることはなく、一撃目は決まって腹だった。

 だから、食いしばるのは歯ではなく、腹で正しい。

 でも、気張ったところで、私の貧弱な腹筋は、跳ね返す力など微塵もない。宮崎さんの拳がおへその上あたりに突き刺さるのを、素直に許した。

 息の詰まるような苦しさに、膝から崩れ落ち、床でのたうちまわる。

 彼は首をわずかに傾け、私を見下ろしていた。殺虫剤を吹きかけたゴキブリが、もがき苦しみながら死んでいくのを眺めるように。

「もう一発いくぞ」

 床に伏した私の髪をつかんだ宮崎さんは、力任せに引っ張って、無理矢理立たせた。

「よしっ、腹食いしばれぇ!」

 グフッと変な音が口から漏れ、またしても倒れる。その繰り返しだ。「お前を殴るこの拳が痛い」、そう私を責めながら、拳を振るい続けた。

 今日は五発目で限界だった。昼に食べたカップ麺が逆流してきて、私はそれを床にぶちまけた。

 ゲホゲホッとえずいている私の頭を、宮崎さんは反吐の中へと押し込んだ。いつものことだ。

 私は顔面から、反吐の中にダイブした。

「ほらっ。残すなよ」

 どうしようもない。いつものことだから。悪いのは私だから。

 フニャフニャになった麺をすするのは、まだマシ。きついのは酸っぱい汁を吸い上げること。

 胃液の臭気が口から鼻孔まで溢れると、抑え難い吐き気がこみ上げてくる。

 あれほど美味しかったものが、一度胃に入って帰ってくるだけで、どうしてこうも不味くなってしまうのだろう。

 私は人間の仕組みを呪った。

 それでも、必至でこらえながら、どうにかきれいにした。

「終わりました」

「見ればわかる」

「はい。すみません」

「……」

 宮崎さんの沈黙は怖い。こちらから動くべきなのか、彼の指示を待つべきなのか、まるでわからない。また暴力が始まるかもしれない。

 いつも私は、宮崎さんが望むことを一生懸命考えるけれど、期待に応えられることは少ない。

 いま、怒られているのは、私が約束を守らなかったから。外出時、宮崎さんから携帯にメッセージが送られてきたら、三十秒以内に返信しなければいけないというルールを破ったからだった。

 破ったというか、そんなつもりはなかったのだけれど、あるものに気を取られて、返事をするのが遅れてしまった。

 いつもなら絶対にしないミスだった。


 さっきまで、私は古本屋にいた。

「お前は本という娯楽物を持っているが、金はない。俺には借金をしている。借金をしている人間が、金も返さず、娯楽物を持っているのは正しいか?」

 そう問われて、自分から「本を売って、お金に替えます」と申し出た。

 どう多く見積もっても缶ジュース一本くらいの価値しかなさそうだったけれど、他に選択肢はなかった。

 もちろん、宮崎さんだってそんな小金が欲しくて、私を問いただしたのではないのだろう。他の女の人をアパートに連れ込んでいる間、私が邪魔なだけだった。

 もう慣れてしまったとはいえ、彼が私以外の女性と関係を持つのはやっぱり辛い。でも、それは私という人間の至らなさが原因なので、どうしようもなかった。

 しかし、宮崎さんは情事にふけっていても、常に私のことを見張っている。

 ふいに、彼はメッセージをよこす。

 いまどこにいる?

 まだ着かないのか?

 帰宅する前に連絡を入れろ。

 彼はGPSアプリで私の居場所を把握しているから、いちいち報告する必要はない。

 それでも必ずメッセージを送ってくる。そして三十秒以内に返事をしなければ、帰ってから制裁が待っていた。

 だから、私は常にスマホを手に持って、受信のバイブレーションを逃さないよう、ずっと気をつけてきた。

 古本屋にいる間も、ずっとスマホを握りしめていたんだ。

 ところが、本を売って店を出ようとしたときだった。

 出口の近くに置かれたワゴンには、特価品が並んでいた。

 そこには大量の本やCD、DVDの中に、一本のVHSが混ざっていた。私がボコボコに殴られることになったのは、このビデオのせいだった。

 それは古い洋画のスプラッタービデオ。

 私はホラーが大好きだった。

 宮崎さんとの同棲が始まり、彼が私の世界のほとんどを占めるようになって、彼以外のモノが消えていった。

 家族、友人、お金……そしてホラー映画。宮崎さんと会うまで、私の生活を覆っていたもの。

 宮崎さんと交際が始まった当初、彼は私のホラー趣味を否定したりはしなかった。ただ、人が苦しむ描写を見るのが辛いとか、血が出たりするのは怖いから苦手だと話してくれたので、私は話題にしないよう気をつけていた。

 男らしい彼にもか弱い一面があるんだなと、可愛らしく思っていた。

 ところが、同棲が始まってすぐ、これまで集めたソフトにグッズ、書籍といったホラーに関する一切合切をすべて処分させられることになる。

 きっかけは、学生時代にホラー好きの彼氏がいた話をしたことだった。

「その男が忘れられないから、こんな気味の悪いものを貯めているんだろう!」

「俺はそいつの代役か? 俺を騙しているのか? このあばずれが」

 彼とは肉体関係はなく、今では連絡先も知らないと弁明しても、宮崎さんは聞いてくれず、このとき初めて暴力を振るわれた。

 思えばこの頃から、彼は豹変した。こうして、彼は私の人生からホラー映画を排除していった。

 でも、古本屋でワゴンに並べられたビデオが目に入った時、どこかに押し込めていたホラーへの思いが、一気に溢れ出した。

 私は夢中で、ビデオテープへと手を伸ばした。

 タイトルは『THE SHAPE』。

 絶叫するブロンド女性の写真を背景に、血の滴りを思わせるタイトル・ロゴが中央に印字されている。

 監督はジョン・ヒル。

 その名前には見覚えがあった……そうだ、マニアが集まる海外のホラー系掲示板サイト。そこで彼の名を目にした。

 ヒルはたった一本だけ映画を撮り、死んだ。自殺だったそうだ。

 そのデビュー作であり遺作でもある一本は、スプラッタームービーだった。

 この映画は、公開されることなくお蔵入りとなってしまう。

 なぜなら、劇中の殺しのシーンが本物だったから。

 『THE SHAPE』はヒルが自身の凶行を記録した、スナッフフィルムだった。被害者はとあるプロデューサーで、彼が自害した後、その事実が判明したらしい。

 当然この映画は、永遠に日の目を見ることはないはずだった。

 ところが、インターネットの時代になり、ビデオショップで『THE SHAPE』を見つけたという情報が流れ始めた。

 それだけでも不思議な話だけれど、『THE SHAPE』が都市伝説と化したのには理由がある。

 見たら死ぬのだ。この映画を見た人間は、無惨な遺体となって発見される。

 呪いのスプラッタービデオ。

 海外のマニア達は、そう呼んでいた。

 驚くことに、私が手にしているのはその呪われたVHSだった。

 もちろん、そんなのは作り話だと思っていた。でも、私はたしかにいま、ジョン・ヒルが撮った唯一の作品をこの手につかんでいる。

 古びたケースを矯めつ眇めつしながら、久しく感じることのなかった興奮が涌き上っていることに気づいた。

 これを手に入れたところで、VHSを再生できる機器は持っていない。にもかかわらず、このビデオがたまらなく欲しかった。

 価格は税込で百十円。いま本を売ったお金と引き換えに、手に入れることができる。

 でも、宮崎さんの許可なく買い物したことがわかれば、死ぬほど殴られる。

 外で金銭のやり取りをした後は、必ずレシートを提出することになっているから、彼を欺くことはできない。

 それでも──何が何でも、このビデオを買わないといけない気がした。

 これで失った何かを取り戻せる。根拠のない確信が、私を突き動かした。

 

 蛇に睨まれたカエルのように、私は台所でただうつむいていた。

「今までお前が俺の連絡を無視した最長記録は、四十二秒。今回は五分二十八秒。大幅な更新だ。最高記録だな」

「はい……」

「何があった?」

「携帯が鳴ったのに気づけなかったんです」

「なぜ気づけなかった?」

 必至で正解を探しているけれど、どうしても宮崎さんが欲している言葉が見つからない。

 焦って考えれば考えるほど、正解から遠ざかっている気がする。

「財布を出せ」

 もう逃げ道はない。この言葉が出た以上、私は殴られるのを覚悟した。

「財布だよ。古本屋の明細もだ」

 私は床に放られていたバッグをつかみ、中から財布を引っぱりだして差し出した。

「明細は中に入っています」

 小刻みに揺れる私の手を睨みつけながら、宮崎さんは財布を取り、「一円玉が……三枚、十円玉が……一枚」と中身を数えた。

 そして明細を見た。

「ここには百二十三円とある。お前は所持金ゼロ円で家を出た。さて、財布には何円あるはずだ?」

「……」

「簡単な算数の問題だ。小学生でも解けるぞ」

「百二十三円です」

「百十円はどこにいった?」

「すみません。たぶん、途中で落としてしまったようで……」

 私の声は、自信のなさから徐々に消え入った。

「どうやったら財布の中身を落っことすんだ? 古本屋でこそこそと何か買ったんじゃないのか? えっ?」

「違います。そんなことは──」

「嘘をつくな!」私が言い訳するのを切り裂くように、宮崎さんは財布を投げつけてきた。

「すみません! すみません! 私の不注意です! 叱ってください。ごめんなさい!」

 文字通り平身低頭謝った。そうするしかなかった。

「この泥棒! 人の金を勝手に使いやがって。恩知らずめ」

「本当です。何も買っていません! ごめんなさい!」

「そうか。じゃあ、別世界行くか?」

 別世界。いつでも私を凍り付かせる、魔法の言葉。

「……落としただけなんです。嘘じゃありません」

「正直に話せば、何もしない。言わないなら、別世界」

「信じてください。帰り道に戻って、探してきます。どこかに落ちているはずなんです」

「……別世界」

 私は黙って、ゆっくりと正座した。宮崎さんは背後に回り、喉元に腕をかけ、両足で脇腹を挟む。そうして私を抱えたまま後ろに倒れると、一気に締め上げ始めた。

 大蛇が動物を絞め殺すのと同じやり方だ。

「ッウ……!!」

「ほれ、行ってこいや、別世界!」

 空気の通り道を遮断され、意識が薄らいでくると、脳が活性化して普段は見えないものが見えるようになる。それが別世界だという。「俺は昔、魚の骨がプカプカ浮いているのを見たことがある。ありゃ三途の川ってやつだな」宮崎さんはそう教えてくれた。

 当然、そんなのはデタラメだ。でも、何も見えないということを、彼は許さない。

 別世界に行った後は、必ず見たものを報告しなくてはいけない。

 宮崎さんが私の話に満足するまで、別世界への渡航は繰り返される。

 だから、私は必至であるはずもないものをでっち上げるようになった。

 意識が薄らぐ中、必至で何かを見ようと集中する。

 今回もそうだった。冷蔵庫を見つめていた。あの中には……あの中には……。

 気がつくと、宮崎さんが私の頬を張り手していた。

「おいっ、さっさと起きろ。気絶したふり、すんな」

「はい、すみません」

 私は本当に意識を失っていたのだが、謝るほかない。彼は恐ろしいことに、人が死なない程度に首を絞めて、失神させる加減を心得ていた。

 だから、彼は私が本当に気絶していたことを知っている。それでも、嘘をつくなと殴るんだ。

「で、どうだった?」

「死体が冷蔵庫から飛び出してきました」

「どんなやつだった?」

「知らない人です」

「よく思い出せ。誰だかわからないのか?」

「ええ、その……。わかりません。目玉がなかったような気がします」

「服装はどうだ? 見覚えのある服じゃなかったか?」

「裸でした。全身、痣だらけでした」

「髪は? 長かったか?」

「坊主でした」

「男か? 女か?」

「わかりません」

「そこが肝心だろう。チンチンはついていたのか?」

「そこまでは……」

「もう1回行って、チンチンがついているか確かめてこい」

 無茶苦茶だと思ったけれど、言い返せなかった。私はまた別世界へと連れていかれた。

 次に意識を取り戻したとき、床が濡れていた。失禁していた。

「どうだった?」

「……」

 張り手が飛んで来た。

「おい、答えろ」

「ありませんでした」

「何が?」

「……あれです」

また、頬を殴られた。

「あれじゃなくて、チンチンだろ!」

「チンチンはありませんでした」

 私の答えに、彼は満面の笑みを浮かべていた。


 最初、宮崎さんは優し過ぎるくらい優しかった。高価なプレゼントもたくさんもらった。

 彼には当時奥さんがいて、会うのは毎回ラブホテルだったけれど、それは気にならなかった。恋愛経験はあっても、男女の関係を持ったことがなかった私にとって、彼との情事は初めて味わう幸せだった。

 やがて、彼が奥さんと離婚し、私のアパートで暮らし始めた。

 その頃から、いろいろおかしくなった。

 ホラー映画好きだった元カレの件に始まり、何かちょっとした失敗や、気に障ることがあると、宮崎さんは狂ったように怒った。ひどく殴られるようにもなった。

 全部私が悪いと彼は言う。私と不倫したばかりに、前の奥さんからたっぷり慰謝料を請求されているらしい。

 初めは私も反論めいたことも言ったけれど、何度も何度も言い負かされ、叱責されるうちに、彼の言うことが正しいとしか思えなくなった。

 何もかも、私がいけない。私がダメだから、宮崎さんがこんなに怒るのも無理もないと思った。

 こんなに罵声を浴びせられるのも、死ぬほど殴られるのも、すべては私に原因がある。

 彼は出会ったとき、「物書きになりたい」と言っていた。彼の作品を読んだこともなければ、何かを執筆している姿を見たこともなかったけれど、彼なら間違いなく夢を叶えられると信じていた。

 だから、お金を稼ぐのは彼ではなく、私の役目だった。当時は介護施設で働いており、それなりの収入があった。

 ある日、宮崎さんは「小説家になるのは一旦やめた。人工知能で一儲けする」と言い出し、高価なコンピュータが必要だと私に購入資金を要求した。彼は私を“出資者”と呼び、「倍にして返してやる」と約束してくれたので、出し惜しみはしなかった。

 結局コンピュータを買ったのかどうかは、わからない。とにかくその頃から、彼は何かと因縁をつけては、私からお金を毟り取るようになる。

 まずは、私がもらったプレゼントの代金を請求し始めた。

 いや、請求するというのは正しくない。彼にとっては、私が自らの意思で返済をした、ということになっている。私の意思でお金を返していることを証明する書面も、毎回必ず書かされた。

 化粧品、二万。ネックレス、十四万。腕時計、三十万……。そんな感じだった。

 加えて、別れた奥さんへの慰謝料も、私が払うことになった。

 そうして、いつの間にか私の口座からはお金がなくなっていた。

 お金を返せなくなると、宮崎さんは別の稼ぎ方を教えてくれた。

「俺がプロデュースをしてやる。プロデュース料として、稼いだ額の八割をもらう。実行するかどうかは、お前が決めろ」

 結局、私の取り分は彼への返済に充てられるので、私のもとには一銭も残らない。

 でも、他に選択肢がなかったので、私は「やります」と答えた。

 彼の演出のもと、私は職場で介護をしているお爺さん、お婆さんの家族から、それらしい理由をでっち上げて、お金を頂戴した。詐欺といって差し支えない行為だったけれど、宮崎さんが「犯罪にはならない」と言うので、それを信じた。

 やがて、入居者から金銭を騙しとっていることが、職場にばれ、クビになった。

 あまつさえ警察も動き出したのだけれど、宮崎さんはそれを察知するやいなや、ものすごいスピードで当時のアパートを引き払い、知らない土地へと脱出した。

 私たちは逃亡者であり、共犯者となった。

 収入を失った私は、宮崎さんから生活費を借りるようになった。彼から借金をすることで生活を成り立たせている。だから、彼なしで生きていくことはできない。

 少しでも返金するため、家族にもお金を無心するようになった。

 当然、私が警察に追われていることを家族は知っているし、もし私から連絡があれば、すぐに警察に伝えなければならなかっただろう。

 だから、捕まらないために親を脅すよう、宮崎さんに指示された。

「警察にちくったら、死んでやる。牢屋に入るくらいなら、首をくくるからね」

 私にはそういうことを思いつく頭がないので、代わりに宮崎さんに考えてもらった。電話口に、彼が考案したセリフを話すと、両親は渋りながらもちゃんとお金を振り込んでくれる。

 いよいよ「もうお金は用意できない。勘弁してほしい」と言い出した親に、私は「娘を見捨てた畜生」だとか「自分のことしか考えていない豚」といった、人生で一度も口したことのない罵詈雑言を浴びせた。あれほど尊敬していた両親だったけれど、宮崎さんから二人がどれだけ能無しで意地汚く卑俗な人間かというのを教え込まれていたので、どんなに罵倒しても辛くなかった。

 こうして、私の世界には宮崎さん以外、誰もいなくなった。


 別世界の後、もらした尿を拭き取り、宮崎さんと一緒にすっかり暗くなった外へ出た。あるはずもない百十円を探すためだ。

 当然そんなものは見つからず、アパートに戻ってから、また尋問が始まった。

 私はいま、台所にパンツ一枚で立たされている。十月の末日だったけれど、その時期にしてはやけに寒かった。

 目の前の椅子に腰掛けている宮崎さんは、何かを思案しながら、じっと私をにらんでいた。

「なぜ、嘘をついた?」

「嘘ではありません。本当になくしてしまったんです」

「だったら、お前の通った道に一円たりとも落ちていないのは、どういうわけだ?」

「すみません。繰り返しになってしまいますが、誰かに拾われてしまったのだと思います」

「ほう……」

 彼の目は、全く以て何を考えているのかわからないが、私の回答に納得いっていないことだけは確かだった。

 宮崎さんは突然立ち上がると、リビングへと向かい、すぐに戻ってきた。

 その手には、爪切りが握られている。

「お前の乳首はきれいだよな」

「っえ……?」

「きれいだと言っているんだ。どう思う?」

「いえ、その、特にきれいだと思ったことはないですが」

「形も色も、俺好みだよ」

「あ、ありがとうございます……」

「もったいねえなぁ」

 そう言い終わるやいなや、宮崎さんは私を床へ押し倒し、腹の上にまたがった。

 抵抗する間もなく、私の腕は彼の両膝で固くロックされてしまった。

 冷たい笑みがこぼれた瞬間、宮崎さんは片手で私の左胸をわしづかみにすると、もう一方の手に握った爪切りで、先端の突起を挟み込んだ。

 鋭い激痛に、私は堪えきれず短い悲鳴を上げた。

「ほら、どうする? 俺の愛おしい乳首がなくなっちまうぞ。お前への愛情が目減りしちまうんだよ!」

 爪切りを握る力が強まった。

「ギィィィィィ!!」調子はずれのヴァイオリンみたいな音が、私の口から響き渡る。

「俺が許せないのは、嘘だよ。わかるか? 人を欺こうって魂胆が心底嫌いなんだ。たかだか小銭一枚くらいの買い物で、殴ったりはしない。俺を見損なうな。それよりもダメなのは、嘘をついたことだよ。人として最低だってことだ」

 そこまで言い終わると、乳首が解放された。根元から赤黒い液体が、蜂蜜のようにねっとりと垂れている。

「痛いか? 俺も痛い。嘘をつかれたことで、俺も傷ついたんだ」

「お願いです。許してください……。すみません、本を売ったお金で買い物をしました。ごめんなさい、ごめんなさい」 私は子どもみたいにメソメソ泣いていた。

「何を?」

「ビデオです。映画のビデオを買いました」

 その答えに、宮崎さんは黙った。恐ろしくて顔を直視することができないが、沸々と彼の中にこみ上がる怒りを、肌で感じていた。

「どこにある?」

「下駄箱の下に入れました」

「取ってこい」

 宮崎さんは私から降りると、そのままあぐらをかいた。

 吐き気がするほどの痛みをこらえながら、玄関に隠したビデオテープを取り出し、台所へと戻った。中央に鎮座している彼の前で正座をした。

「これです」

 私が差し出したVHSを、宮崎さんは何も言わず受け取った。ジャケットの表裏を眺めてから、ケースを開け、中身を取り出した。

「一体これは何だ」

「映画のテープです。古いホラー映画で──」

「そんなことは聞いていない。これは、俺に返すべき百十円よりも価値があるものなのか?」

「いえ、そんな価値はありません」

「だったら、何で買ったんだ?」

「……自分でもわかりません。すみません」

「お前にとって、これは俺よりも大事なものか?」

「絶対に違います。本当に、なぜ買ってしまったのか、わからないんです」

 精一杯、正直に話すことしかできなかった。言い訳も浮かばず、他に話すべきことは見つからなかった。

 『THE SHAPE』のラベルが貼られたビデオを、宮崎さんはまじまじと見つめている。

 次の瞬間、彼は立ち上がり、ビデオを持つ右手を高く振り上げた。

 叩き付けられると察した私は、脳が制止するよりも前に、「ダメっ!」と叫びながら、両手で宮崎さんの腕にしがみついていた。

「返して! お願い!」

 信じられないほど必至に、私はそう叫んでいた。自分の意思ではないように感じた。

 ハッと我に返り、宮崎さんの方を向いた。

 彼の目は、人のそれとは違って見えた。これは何だろう……そうだ、爬虫類とか魚とか、そういう類いの目だ。

 犬や猫にさえ感じられる一抹の情が、そこには微塵もなかった。

 私は自分の行動の意味を理解して、怖くなった。

 それは“反抗”だった。彼との間で、最大のタブーだ。

「あの、あっ、その、えっと」

 小刻みに震える私の手を振りほどき、宮崎さんはVHSを私の頭で叩き割った。

 脳天に角を打ち込まれ、目の前に閃光が走る。

 宮崎さんは繰り返し頭頂部を、ボロボロになったVHSで殴り続けた。

 ずっと無言だった。

 一瞬視界が暗転したかと思うと、気づいたら天井が見えた。仰向けに倒れたのだ。

 キーンという耳鳴り以外、何も聞こえない。

 蛍光灯をぼんやり眺めていると、視界に彼の顔が割って入ってきた。

 何か叫んでいるのだけれど、正確には聞き取れない。

 宮崎さんは見るも無惨なVHSからテープを引き抜き、私の口に詰め込み始めた。

 そうか、さっき彼は「元カレのだと思って咥えてろ」と言ったのだ。

 喉へとテープが侵入していく。このままだと窒息するだろう。

 苦しむ私を一瞥すると、宮崎さんは台所から出ていった。風呂場へと向かったようだ。

 早く、これを口から出さなくちゃ。早く、テープを──。

 でも……もう、良くない? うん、いいや。

 もう、死んでしまおう。それでいいやと思った。

 大好きなホラー映画を食べながら息絶える。こんなに幸せなことはないじゃないか。

 何とか生き延びようとする体を、私は必至に押さえつけていた。

 いいんだよ、私の体。もうやめようよ。

 これでおしまい。お休みの時間。

 視界が鮮やかさを失って、モノクロになっていく。

 もうすぐ。もうすぐだ。

 もう、宮崎さんのご機嫌をうかがわずに済む。暴力に怯えなくて済む。痛い思いをしなくて済む。お金を返さなくても済む。家族や友人を傷つけなくて済む……。

 本当は、もう一度好きな映画を思う存分見たかったけれど、仕方がない。今はそれよりも、楽になりたい。

 ああ、本当に終わる。やっと解放されるんだ。

 さようなら。私のくだらない人生。

 さようなら。さようなら──。


 急に息が吸えるようになった。

 あれ? どうしたの? 

 肺に酸素が流れているのを感じる。

 頭のてっぺんから足の指先まで、なくなっていた感覚が徐々に戻ってきた。

 舌を動かしてみて、気づいた。

 テープが溶けているんだ。

 口いっぱいに詰め込まれたテープが、キャラメルみたいに溶け出し、私の体に染み込んでいく。

 それとともに、頭の中にイメージが映し出された。

 カシャカシャカシャ……映写機の回る音。

 わかった、これは映画だ。

 私はいま、『THE SHAPE』を見ている。

 いや、そうじゃない。私は今、『THE SHAPE』の中にいる。

 凄い、凄いよ。

 ジョン・ヒルになって、『THE SHAPE』の世界を生きているんだ!

 監督の考えていることが、全部わかる。

 彼の苦悩も、怒りも、殺意も、全部。

 彼はただ快楽のために、殺して撮影したわけじゃない。

 苦しんでいた。自分を踏みにじるものから解放されるために、殺したんだ。

 それを誰かに伝えたくて、ヒルは『THE SHAPE』を撮った。

 何十年も経て、その思いは私に届いた。

 彼の意思が私の心に重なり、体中に力が漲ってくる。

 そろそろ映画も佳境に入る。

 一番の見せ場だ。

 さあ、始めよう──。  


 その後、宮崎は遺体となって発見された。

 宮崎というのは偽名だったが、とにかく彼は裸で冷蔵庫に詰め込まれていた。

 体中痣だらけで、髪の毛はほとんど毟り取られていた。

 目玉はくり抜かれ、声帯は潰されており、見るも無惨な姿だった。

 切断された男性器は、口の中から見つかった。

 同居していた女性の行方は、未だわかっていない。


(終) 

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