赤いきつね

ロク

赤いきつね

 1ヶ月。それが私の人生で残された時間。

 余命宣告をされたときは少し戸惑ったがもう64年も生きた。ガタが来てもおかしくない歳だと、それを受け入れることにそう時間はかからなかった。

 長年勤め上げた大阪の運送会社を辞め、私が生まれ育った町、そこらじゅうに思い出が転がっている町。この和歌山の田舎町を最期の場所に決めた。

 両親、兄、妻にも先立たれた私には帰る場所などなく、昔からの友人で不動産屋を経営している健二けんじに電話をかけた。私が故郷へ帰ることにした経緯を一通り話すと、健二は快く受け入れ、すぐに部屋を探してくれた。しかし、隣町なら山ほどあるのだが、わたしの故郷には空いている物件が一件だけで、事故物件だという。どうせすぐに死ぬ。そんなことは気にしない。私はその部屋に住むことを決め、彼の元を訪ねた。


やっさん。やばいと思ったら連絡してや。すぐに他の部屋用意するから」


 「昔からお前は大袈裟やねん。やばいことなんかあらへんわ。せやけど、面倒かけて悪いな」


 「困った時はお互い様や。ほな、これ鍵な」


 「ありがとう。これからちょっとの間頼んどくわ」


 健二から鍵を受け取り、今日から私が住むアパートへと車を走らせる。

 窓を開け、煙草に火をつける。太陽に照らされキラキラと光る海を横目に眺めつつ、生暖かい潮風と煙草のけむりが混ざり合った匂いが鼻へ抜けていく。漁師だった父親が学校まで車で送迎してくれた記憶が蘇る。同級生に煙草臭いと言われ、当時は嫌いだったけれど、今では遠い記憶を感じさせる懐かしく温かいこの匂いがたまらなく好きになっていた。

 

 煙草を4本吸い終えた頃、アパートに到着。外壁の塗装がかなり薄くなっている。

 私の部屋は2階の1番端、205号室。錆びた階段をのぼり、鍵を開けて部屋に入ると、すぐ右手にキッチンがあり、前を見ると8畳の木目調のフローリングが広がっている。トイレ、風呂もあり、風呂は足を伸ばしてゆったり浸かれるバスタブがある。外観とは打って変わって、随分と綺麗な部屋。一人暮らしの老人には十分すぎるほどの物件である。なによりも窓から綺麗に海が見える。その上家賃は無料タダ。こんなにいい部屋なら事故物件だろうがなんの問題もない。

 

 軽く荷解きを済ませ、近隣住民に挨拶をした。住民らは口を揃えて、「もんが住み着いてるみたいやから気ぃつけや」と心配そうに言った。私は「大丈夫です。全て聞いております」と笑顔で返した。

 しかし、近隣住民が心配するのも無理はない。この部屋で5年前に1人そして半年前に1人命を落としているのだから。それに加えて、発見された死体はいずれも、満面の笑みで亡くなっていたという。さらに、死ぬ少し前くらいから、「部屋にきつねの化け物が出た」「赤い妖怪が出た」などと話していたらしい。このことから、近隣では赤いきつねの死神が住み着いている呪いの部屋だという噂が浸透していた。

 健二からこれらの話をあらかじめ聞いていた私は、きつねなんかに化かされることなどないと、なんの心配もなく暮らし始め、毎日少しずつ思い出の場所を巡っていた。

 家を出て小さな坂道をのぼると、神社があり、その前に石ころが無数に散らばった空き地がある。幼い頃、兄とよくここでキャッチボールをした。外野手のくせにピッチャーの練習をやりたがる兄に、いつもキャッチャーをやらされたっけな。久しぶりに兄の球を受けてみたい。

 そこからさらに10分ほど歩いたところに雑草が生い茂った空き地がある。ここには祖父母が暮らしていた瓦屋根の木造の一軒家があった。ぼろぼろで冬は寒く夏は暑い、風通しの良すぎる家だった。兄と、この家の庭で、新聞紙を丸めたボールと、棒にガムテープを巻いたバットで野球をしたもんだ。私達兄弟が遊びに行くと、祖母がコーヒーとお菓子を用意してくれたが、とにかく遊びたい年頃だった私達はろくに話もせずに兄弟で遊んでばかりだった。今ならゆっくりコーヒーを飲みながら話ができるのになぁ。

 家に帰り、身の回りのことを済ませて布団に入り、人の顔のような形になった天井の薄いシミをぼんやりと眺めていた。少しして、携帯電話がプルルルル……と音を鳴らした。

 

 「もしもし?」


 「あ、康さん。調子はどう?」


 「また健二か、毎日電話してこんでええて。元気やしまだまだ死なへんから」


 「それならええんやけどな。ほんで、なんも変なこと起きてへんか?」


 「大丈夫、大丈夫。めちゃめちゃええ部屋やわ。ほんまにありがとうな」


 「それならよかったわ。また明日電話するわな」


 「ええ言うてるのに。すまんな」


 そう言って電話を切った。心配性で面倒見の良い健二は毎日、安否確認の電話をくれる。本当にありがたい話だ。いつ死んでも、発見が遅れて腐ってしまうことはないな。そんなことを考えていると急に胸が苦しくなり、呼吸が辛くなった。

 あぁ。もう最期かな。そんなことを考えながら目を閉じていたら、瞼の向こう側が赤く眩しく感じた。うっすらと目を開くとそこには毛並みが明るく光った赤いきつねがいて、足で首筋を掻きながらこちらを向いていた。ハッと驚いて目を閉じると、しゃっくりが止まるかのように苦しかったのが引いていった。そしてもう一度目を開くと赤いきつねは姿を消していた。

 これが噂の死神か? むしろ、体調戻ったけど……。

 それから、家の中で胸が苦しく、呼吸が辛くなるたびにその赤いきつねが現れ、苦しみが引くのと同時に赤いきつねもいなくなった。


 今日は、私の青春が詰まった場所にきていた。窓から見える、家を出てすぐの海だ。

 道路を横断して階段を降り、砂浜と呼ぶには石の割合が多いような気がする砂浜へ。今日は私一人、貸切だ。右を見ると遠くまで海岸が広がっていて左に目をやると雑に積まれたテトラポット。波打ち際にはペットボトルなど、ゴミがちらほら。ここはあの頃のままだ。

 この場所には数えきれないほどの思い出がある。もう10年も前に亡くなってしまった妻、聖子せいことの思い出が。

 家が近く、小学生の頃から顔見知り程度の仲だった聖子と中学生の頃同じクラスになった。愛嬌のある笑顔とツヤが天使の輪っかのようになっている綺麗な髪の彼女に僕は夢中だった。

 そんな彼女に耳を真っ赤にしながら交際を申し込んだのはこの砂浜だった。想いが伝わり、デートを重ね、2ヶ月ほど経った頃この砂浜でキスをした。お互いに、初めてで唇に力が入ってカチカチになっていたのを今でもはっきりと思い出す。夜になると2人でこの砂浜に来ていろんな話をした。学校でのこと、将来のこと、面白かったテレビのこと。本当にいろんなことを話した。

 それから数年経って、高校を卒業したら大阪で働きたいと彼女に話したのもここだったな。それを聞いた彼女は、真っ直ぐな目で自分もついて行くと、私と同じ将来を歩んでくれると言ってくれた。それが嬉しくて、絶対に幸せにすると強く心に決めた。

 私は高校の卒業式の日、聖子を砂浜に呼び出し、アルバイトでコツコツ貯めたお金で買った小さなダイヤモンドの指輪を見せ、プロポーズをした。彼女はすぐにその指輪を左手の薬指にはめて自分の顔の横に並べてニッコリと笑い、私に飛びついてきた。私はギュッと受け止めた。

 その後、私は大阪でトラックドライバーとして働き、妻は専業主婦として支え続けてくれた。子宝には恵まれなかったが、その分、妻との時間は濃くて、日本各地、海外、とあらゆる場所を巡り、まだ見たことのない景色を一緒に見た。妻と過ごす毎日には笑いが絶えず、幸せだったとしか思えない。短い時間だったけれど、妻の最期まで一緒に過ごすことができてこれ以上の幸せは他にない。妻も幸せだったなら私の人生は100点満点だ。

 だけど妻は幸せだったと言ってくれるだろうか。私にはどうしようもない心残りがある。

 それは10年前。仕事を終え、帰り支度をしていたとき病院から妻の命がもう持たないという連絡を受けたが、私は「妻は死なへん」そう伝えて電話を切った。その数時間後、妻が死んだという連絡がきた。そのときのやるせない気持ち、自分に対する苛立ちは今でも頭をよぎる。

 だけど、今日この砂浜に座って海を眺めていると、その気持ちよりも妻との楽しかったこと、幸せだったことばかりが思い出された。気がつくと、目から涙が流れて止まらなくなっていた。止めどなく溢れ出てくる涙を最後の一滴まで流して、近くに転がっていた石ころを力いっぱい海へ放り投げた。

 家に帰り、健二からの安否確認の電話を終え、眠りにつこうとすると、今日はいつも以上の苦しさを感じた。不思議なもので命が燃え尽きるときというのは自分でわかってしまうものだ。

 もう本当に最期だと目を閉じると、瞼の向こう側が赤く眩しくなった。また赤いきつねかと思い、目を開くとそこには聖子が座っていた。

 あかん。あかんわそんなん。最後の一滴まで流したはずの涙がまた溢れ出てきた。


 「ごめんな。聖子。さいごに会いにいかへんくて」


 ずっと伝えたかった言葉はすぐに口から出た。


 「やっぱり気にしてたんや。でもやっっちゃんはこやんと思ってたしこやんといてほしいと思ってた。康っちゃんが死ぬまで絶対に死ねへん。康っちゃんよりも長生きするからって言った私の言葉を信じてくれてたからこやんかったんやろ?」


 優しく温かい手で私の頭を撫でる聖子の涙がぽつぽつと私の顔を濡らしていた。


 「うん。死なへんって信じたかった。ほんまにごめん。こんな俺もう嫌かもしらんけど、また来世があったら今度こそさいごまで聖子を幸せにさせてほしい」


 「康ちゃんはやっぱりアホやなぁ。私は死ぬまでずっと、康ちゃんと同じ人生を生きられて幸せやったよ。何回でも私は康ちゃんと一緒になりたい。今までもこれからもずっとありがとう」


 「こちらこそありがとう」


 私は目を閉じ、これ以上ない優しい笑顔のまま逝ったのだろう。

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