夜勤のお供に緑の君と

大宮 葉月

緑の年越し

 木枯らし吹く師走、それも大晦日の夜。

 普通の仕事に努めている人なら、家族と一緒に温々とこたつに潜りこんで某歌合戦を楽しんだり、笑ってはいけないあの長寿番組で、笑い納めをしているのが定番の過ごし方……だろう。


 しかし、私は違う。今日も今日とてお仕事の真っ最中。それも夜勤だ。

 思えばこの年になって介護施設で働くことになるなんて考えたことも無かった。

 元々人付き合いも苦手で社会人になってからは特に苦労し、一つの会社で仕事も長続きもせず、職場を転々と渡り歩いた結果。たどり着いたのが3Kと名高い介護のお仕事だった。


 今時手書きの日報から視線を外し、明かりが消えてがらんとした共用リビングをぼんやりと眺める。閉じられたカーテンから漏れてくる街灯の灯りがなんとなくホームシックな気分を誘う。


 夜の介護施設は不気味なほど静かだ。私が働いている階は認知症の入居者が生活するフロアで、昼間は特に騒がしい。この施設で働き始めてようやく一年が経とうかというところだが、慣れるまでは特に大変だった。


 認知症という言葉を聞いたことはあっても実際にどんな症状なのか。知識としては知っていても、実際にその人達のお世話をするということがどういうことか。知る人は決して多くは無いだろう。

 身も蓋もない言い方をするなら、人の姿をしていて全く未知の人類と接しているような感覚と云えば少しは伝わるだろうか。


 飲みかけのボトルに手を伸ばし乾いた喉を茶の渋みで潤す。直に22時の巡回の時間だ。ペンライトと巡回チェック表を挟んだボードを手に持って、真っ暗なフロアの巡回を開始した。


 この施設はいわゆるユニット型と呼ばれる作りで、入居者一人一人に居室が割り振られている。この階の入居者は17時に夕飯が始まり、18〜19時までには就寝準備を済ませて、翌朝6時くらいまでは睡眠を取っていただくことになっている。


 しかし、認知機能の低下による影響か(諸説あります)眠りが浅い入居者も少なくない。そういう人達が寝てるか起きてるか確認して記録に残してゆく。また夜間の排泄の処理も重要な仕事だ。運が悪ければ、居室に入った途端香ばしい匂いがして、そのままシーツ交換と汚れた衣服の着替えを行うことだって珍しくは無い。


 幸いなことにこの時間は特にトラブルに見舞われることもなく、切り抜けることが出来た。スタッフルームに戻ってくれば、時刻は直に23時。今年が終わるまで1時間を切った。


 ここ最近は年の瀬を前に息を引き取る人がいたり、かと思えば慌ただしく急遽入居があったりと師走という名の通り忙しい日々だった。


 介護の神様なんているのかも分からないが、いつもは夜も大変な入居者もぐっすりと夢の中だ。コチコチとフロアの壁に掛けられた時計の長針が進む音だけが、静寂の中で痛いほどに響いている。


 カリカリと日誌にボールペンを走らせていると、廊下の奥の非常階段に繋がる厚い防火扉が開く音が聞こえた。もうそんな時間かと、パタンと日誌の冊子を閉じる。


「おつかれー○○君。今日は静かだね」

「お疲れ様です。3階はどんな感じですか?」

「昨日、入居した305の○○さん。尿道カテーテル入ってるから、巡回毎に尿量計らないといけなくてさ。さっきもバルーンが満タン近かったから、排出したところ。後は普段通りかな」


 気さくに話しかけてきたのは、今日の3階の夜勤を務めるベテラン職員。

 なんでも二児の母で、夫婦揃って介護の仕事をしているとか。私も入りたての頃には厳しくご指導ご鞭撻を賜った。


「分かりました。尿量はメモして後で伝えればいいですね?」

「それでOK。あー……と、明日なんだけど、急遽実家から親が来ることになって。お正月の初詣レクの付き添い、代わってくれるとありがたいかなーなんて」


 ママさんはなんとも申し訳なさそうな顔をして、目の前で手を合わせている。

 私は何も登録されていないスマホのカレンダーから顔を上げると「いいですよ」と即答した。


「本当に? ありがとー助かる!」

「別にうちに帰っても特にやること無いですし。年末年始とお正月手当、ついでに残業代もきっちりいただいておきます」

「うんうん。もらえるものはきっちり貰っておきなさい。それじゃピッチ(PHS)預けるから、後よろしくー」


 くあっと眠そうに欠伸をして、ママさんは去って行った。これから二時間の仮眠休憩に交代で入るのだ。休憩中の職員がいるフロアはその間、すぐ下のフロアの職員が見回ることになっている。再び非常扉が開いて閉じた音を確認し、担当フロアのPHSを胸ポケットにねじ込んで、足早に三階の巡回へ早速向かった。


 巡回から戻ってくると、いよいよ時計はあと10分ほどで日付をまたごうとしていた。思いがけず介護の仕事に飛び込み、無我夢中でやってきたわけだが、肌に合っている仕事というものは本当にあるのだなと実感した一年だった。


 仕事は確かに大変だ。初任者研修で受けた座学や実技とのギャップ。私より遙かに人生の先輩である方々の、下のお世話や食事介助をすることに最初は正直戸惑った。けれど、続けていくうちに悪くないなと思うようになったのも事実だ。終の住処でなんのしがらみもなくただ自分が誰かも忘れて、穏やかに生を全うするご老人達とのふれ合い。


 もはやまともに話すことも出来ない人達と共に過ごす時間が、こんなにも尊いものだったとは。社会人になって初めて人に胸を張って、誇れる仕事をしている実感を持てたのだ。


 そんなささやかな自尊心を満たしていると、くーとお腹が鳴った。日付が変わるまであと五分。私は手提げのバッグから今年の年越し蕎麦「緑のたぬき」と、スーパーで買った海老天のパックを取り出した。


 見慣れた緑の蓋を半分ほど剥がし、粉末スープとお揚げを取り出す。

 だしの匂いが香る粉末スープをひとさじ残さず麺の上に振りかけて、熱々のお湯を注いだ。


「お?」


 蓋を閉めて電子レンジで海老天を温めているとごーんと鐘の鳴る音。

 近くの神社で打ち鳴らされる除夜の鐘。煩悩なんて感じる暇も無いほど慌ただしく過ぎ去った一年。


 夜勤をこなすようになってからは、夜食のお供は大抵緑のカップ蕎麦だった。


「……いい香りだ」


 鼻腔をくすぐるのは鰹が効いた嗅ぎなれた出汁のあの匂い。いつもはここに、卵や魚フライなどを乗せて食べるが、今宵は大晦日。昔、実家で母が作ってくれた海老天入りの年越し蕎麦がふと脳裏に浮かんだ。あれを食べながら「行く年、来る年」をぼんやりテレビで眺めて、年越しを迎えた学生時代が懐かしい。


 十分に麺がほぐれたところで、お揚げをそっとつゆの上に浮かべる。パックから取り出した湯気が立つ海老天も一緒に。付属の七味を振りかければ、普段より豪勢な「緑のたぬき」が美味しさをアピールするかのように湯気を立てていた。


「いただきます」


 割り箸を割って茶色く透き通るつゆから蕎麦を掬い口に運ぶ。口の中で広がるのは、いつものあの鰹が効いた味とピリリと舌に来る七味の刺激。


 思わず頭に浮かんだのは、孤独を愛するおじさんの一人飯ドラマ。

 だってこんな幸せな味。こう表現する以外、ないだろう。


 ————こういうので、いいんだよ。こういうので。


 麺を堪能した後は衣がふやけないうちに海老天にかじりつく。スーパーの天ぷらとは思えないほど歯ごたえのある食感。ぷりっとした海老の身が、緑のたぬきのつゆと絡み合って口の中で恵比寿様がご光臨されたかのようだ。


 少し大げさかも知れないがそれくらい美味しい。もちろん、お揚げも忘れずにいただく。私は断然後乗せ派だ。サクサクしたあの食感は、なににも変えられないオンリーワンの食感なのだから。


「ごちそうさまでした」


 つゆも一滴残らず飲み干して幸せな時間は終わった。暖房はついてても少し肌寒いフロアの冷気も忘れるほど、お腹も心も幸福で満たされた。このまま眠ってしまいたいところだが、仮眠休憩までは後1時間あるので、ここで気を抜くのが出来ないのがまぁまぁ辛い。


「……あ」


 時計の短針は0時を指していた。蕎麦に夢中になってるうちに新年を迎えたようだ。眠い目をこすりつつ、この後やらなければいけないことを頭の中で並べる。

 介護施設の夜は長い。しかし、それもあっという間に思えるほど、時間の流れを速く感じるのが夜勤の仕事だ。


「さて、それじゃ残りの仕事も頑張りますか」


 直に夜間の排泄処理の時間だ。口の中に残る鰹出汁の余韻に浸りつつ、私はまた仕事へと戻るのだった。



 

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