38.

 一命を取りとめた弟は、私が到着する頃には既に意識も回復していた。

「いろいろと、思い詰めてたみたいでな。落ち着いてるけど、手が痺れるらしい(それだけで終わるんだろうか)。医者は検査が必要だと言ってる(今は、もういいだろう。傷つけてしまう)。夜遅くにすまなかったな(また痩せてるじゃないか。もう仕事なんか辞めて、帰ってくればいいのに)」

 憔悴しきった様子の父は、落ち窪んだ暗い目で私を窺う。漏れ出る声は親の不安と愛情を、痛いほど伝えた。

「私のことは気にしないで。お母さんは?」

「今、献市と話をしてる。さっきまで、ショックで話もできなかった(また自分を責めてるんだろう。でも、どうしてやればいいのか)」

 父は溜め息をつき、壁に凭れて野太い腕を組む。残業を終えた帰りだったのか、だらしないシャツ姿にはネクタイもない。黒々としていたはずの七三は崩れて、いつの間にか白髪が勝っていた。

 幼い頃は、肩車の度に髪を掻き回して遊んだ。父はその度に私の脇をくすぐって、最後は揉みくちゃになって母に笑われた。右腕に私を、左腕に弟をぶらさげて回してくれる遊びも定番だった。仕事が忙しくてあまり家にはいられなかったが、休みには父親らしいスキンシップで私達を育ててくれた。

「まあ、とにかく助かって良かった(俺は、家庭に向かない人間だったんだろう。家族がこんなに苦しんでいるのに、いつも何もしてやれない。無力で情けない)」

「お父さん」

 いくらネガティブ要素が増幅されるとしても、そんな内容は聞き流せない。脈絡もなく呼んだ私に、父は驚いたように私を見た。

「私は、お父さんとお母さんの子どもで良かったと思ってる。多分、献市も」

 本当は「美祈子も」と言いたいが、今はまだ難しい。

「……そうか(優しいまま、育ってくれたな。良かった。俺達も、これで救われる)」

 俯いて目頭を押さえた父に、言葉にできないものが湧く。

――ご両親がどんな思いで君を守り続けてきたのかは、僕みたいな人間でも分かるよ。

 蘇る園長の言葉に十九年の忘却が重なる。私が忘れている間も、両親はずっと覚えていた。私を生かすために美祈子を暗いところへ追いやって、まるで日向を許されない子のように扱った。私の信じる歪んだ現実に、本来の現実を歪めて合わせたのだ。

 ああ、そうだ。私に「妹殺したんだろ」と言った男子は、程なく親の仕事の都合で転校していった。辞めたのかもしれない。父親は、うちの社員だった。

 それからはもう誰も、同じ質問をしてこなかった。してくるほど、誰も近寄らなくなったのだ。小学校を卒業するまで、私は一人でいることが増えた。でも私はその切っ掛けが何だったのか、その男子の言葉すら消し去っていた。ただ自分がわけもなく「仲間はずれ」にされているのだと、親にも相談できずベッドの中で泣いた。

 感傷は再び自責の念に落ち、底でのたうつ。苦しい息を吐いた時、目の前のドアが引かれて母が姿を現した。

 泣き腫らした目を更に潤ませた母は、何も言わず私を抱き締める。痩せた腕と私より小さな体が痛々しくて、詫びる言葉しか浮かばない。

「ごめんね、お母さんのせいなの(私のせい。また守れなかった。みんな私がだめにしてしまう。ごめんなさい。私のせい。ごめんなさい、ごめんなさい)」

 父以上に堪える、悲痛な声が突き刺さる。これでもまだ、「私は悪くない」のか。誰も悪くないのなら、傷ついた人は、心は、美祈子は、何が救うのか。

「お母さんのせいじゃない。お願い、責めないで」

 震える体を抱き締め、目を閉じる。もし私が事実を打ち明けて詫びれば、母は同じように私を抱き締めるだろう。分かっている。そんなことは、分かっている。噛み締めた奥歯が、鈍い音を立てた。

「私も、献市と話せる?」

「もう消灯時間は過ぎてるし負担が掛かるから、短くな(何もなければいいが)」

 父の不安に、「忘れている」私は答えてはいけない。母の背をさすって父へ預けたあと、ドアの向こうへ体を滑り込ませた。

「献市」

 小さく呼んでカーテンを引いた私に、点滴に繋がれた弟は薄く笑んだ。首が固定されているのは、手の痺れに関係してだろうか。固そうなカラーを押さえて、弟は椅子の方に寝返りを打った。

「ごめんな、心配掛けて(来なくて良かったのに)」

 掠れた声と裏腹に、心の声は鮮明に聞こえる。最初から、容赦はなかった。

 ……ああ、そうだ。そうだよね、当たり前だよね。

 短く吸った息が、鼻に抜ける。つんと沁みた痛みに、唇を噛んだ。泣いてはいけない、泣くわけにはいかない。熱を持った目頭を押さえ、涙を禁ずる。

「いいの。私の方がいつも心配掛けてるでしょ。家のこと、任せっぱなしにしててごめんね」

「気にすんなよ(来たってどうせなんもできないだろ、一番大事なこと忘れてんだから)。ねえちゃんこそ、もう良くなった?(良くなってるよな、離れたとこで散々好き勝手して暮らしてんだから)」

 そのとおりだ。忘れたくせに、何か分からぬ「申し訳ないような」手触りが居心地悪くて、大学進学とともに家を出た。それからは滅多に、それこそ盆正月くらいしか戻らなかった。

 弟も大学時代は一人暮らしをしていたが、卒業と同時に実家へ戻った。跡継ぎとして、全ての重荷を背負うためだ。

「私が家に帰ったら、少しくらい楽になる?」

「変わんないよ、無理しないで(やめろよ、帰ってくんなよ。親父達が必死で顔色窺うのを、また見なきゃいけなくなるだろ。お前のおかげで、俺がこれまでどんだけ理不尽押しつけられてきたと思ってんだよ)」

 弟は、大人しい表情に疲れた笑みを浮かべながら息を吐く。

 予想どおり、最大の犠牲者は弟だった。ネガティブが増幅されているとはいえ、「思ったことがない」わけではない。最愛の妹を喪ったのに話題にすることもできず、箝口令の理不尽に虐げられながら十九年も生きてきたのだ。私の今の痛みなど、それに比べれば塵のようなものだろう。

「ごめんね。献市には本当に、つらい思いさせて」

「……え?(まさか、思い出したのかよ。じゃあなんでまだ生きてんだよ、なんで生きてられるんだよ。美祈子殺したのはお前だろ。なんでだよ。耐えられないのは)」

 俺だけかよ、と掠れた声が小さく漏らす。骨ばった手首に巻き付けられたバンドから視線を上げると、力なく開く虚ろな目があった。

 いつから、だろう。一緒にラーメンを啜って帰ったあの頃にはもう、弟の心は悲鳴を上げていたのかもしれない。私が人生を謳歌する背後で、どれほどの犠牲を強いられていたのだろう。

「ごめん。ちょっとつらいから、もう寝るよ(もうなんも喋んな。消えろカス、死ね)」

 力のない現実の声とは裏腹に、心の声は鋭く突き刺さる。封じられなくても、もう何も言えそうにない。分かっている、ネガティブが増幅しているだけだ。でも。脳裏で「おねえちゃん」と明るく呼ぶ無邪気な笑顔が霞んでいく。

 このまま居座れば抜き差しならなくなりそうで、黙って腰を上げる。「ゆっくり休んで」とも言えないまま、ふらつく足でカーテンをくぐった。

 私はもう、来るべきではないだろう。次に会う時は、全てを終えて覚悟を決めてからだ。

 ごめん、献市。死ぬまで私を許さなくていいから。

 痛みを眠らせて、長い息を吐く。静かにドアを引いた。

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