37.
予定どおり八時過ぎに現れた園長を、緊張しつつ迎える。
「すみません、急にお誘いして。お忙しくありませんでしたか?」
「準備があるから忙しくはあるよ。でも夕飯の誘いを断るほどじゃない」
「入谷先生の様子は、どうですか?」
「僕が話をすると全部陰謀にされるから、教団経由で彼を指導した牧師に対話を任せることにした。休職療養、彼が望めば異動も受け入れる話はした」
園長は前回と同じようにスーツの上を脱いだあと、ダイニングの椅子に腰掛けた。
「どうかした?」
しばらく待っても聞こえてこない声に、いえ、と頭を横に振る。園長の心の声は、聞こえないのか。一度に感じた安堵と落胆を持て余したまま、コンロへ向かった。
「教会を出てから、話をした人の心の声みたいなのが聞こえるようになったんです。幻聴なのは分かってるんですけど」
再び火を入れ、フライパンを揺する。
「それが割と胸を抉られる、心を折る感じの声が多くて」
「だろうね。心を安定させてる要素を壊そうとしてるんだよ」
音を立て始めた麺にソースを加えると、腹の空く香りが立つ。
「あれは、本当に思っていることなんですか?」
「本当ではないけど嘘でもない、ってとこだね。誰だって、相手の評価が好感や肯定しかないわけじゃないだろう。好きなところもあれば苦手なところもある。普段はどれだけ仲良くやってたって、たまには文句や愚痴を言いたくなる時もある。悪口が聞こえたなら、そこはネガティブな要素を増幅させてるだけだよ。『そんなことは思ったことがない』わけじゃないけど『そこまでは思ってない』んだ。反対にポジティブな要素を増幅させて舞い上がらせて、判断力を失わせることもある。とにかく心の安定を失わせるのが目的だから」
焼き目がついたのを確かめて火を止め、二つの皿に盛った。
「ちなみに、僕の心の声は聞こえる?」
「聞こえません。どうしてなんですか?」
仕上げに鰹節と青海苔をふりかけて、テーブルへ運ぶ。
「僕の力に及ばない霊だからだよ。とはいえ、油断すれば飲まれるけどね」
園長は湯気を上らせる焼きそばを眺めて、旨そうだね、と目を細めた。
「お待たせしました。食べましょう」
私も向かいの席に着き、祈りの形に手を組む。
園長が一度も薫子に襲われないのは、そのせいなのだろう。改めて腑に落ちた理由に納得しつつ、祈りの声を聞く。耳を澄ましても、それ以外の音は聞こえてこない。
一言くらい、と浅ましく耳を澄ました欲を散らして、結びの言葉を揃えた。
携帯が父からの着信を告げたのは、食後のコーヒーを片手に儀式の流れを聞いている時だった。心の声が聞こえる現状を考えれば避けたい相手だが、無視するわけにもいかなかった。園長に断りを入れて窓際へ向かい、深呼吸を一つしてから応えた。
父は少しの間を置いて低く私を呼んだあと、唐突に不幸を告げた。
――献市が、首を吊った。
脳裏で繰り返される父の声に、耳を塞ぎたくなる。
「これも、私が助かろうとしたからですか」
「ありとあらゆる方法で心を折りに来る、その一つだよ」
園長はハンドルを繰りながら、冷静に事実を告げた。この人は、動揺することがあるのだろうか。今だって顔色一つ変えないまま、とても自力では辿り着けそうにない私を病院へ運んでくれている。
「でも献市は無関係なのに!」
「妹さんにとってはそうじゃない。弟さんにも、彼女の霊と死を引き寄せる要素があったんだ」
「それでも、こんな」
憔悴で崩れ落ちそうな全てをどう立て直せばいいのか、溢れそうになる涙に歯を食いしばる。
「僕達は、彼女達の魂を本来いるべき神の元へと還そうとしている。でも今の彼女達には、特に妹さんには神の言葉が届かない。自分の居場所を奪われて『殺される』と思ってる。向こうも必死なんだ」
美祈子は、私を殺せば救われると思っているのかもしれない。私を殺せば自分も救われなくなると分かっていないのだろう。園長の言葉は聞こえているのかもしれないが、信じていない。そこまで追い込んでしまったのは、私だ。
「私は本当に、許されるべきなんでしょうか」
「その考えを引き出して、最終的には儀式を拒否させて君を殺すのが彼女達の目的だ。でもそれは誰も救われない、最悪の結果だよ。どうしても罰されたいのなら、全て終えたあとでその思いを抱えて最後まで生きればいい。でも」
園長は淡々と伝えながら、行く手を阻むように続く赤信号に何度目か分からないブレーキを踏む。
「そんな人生を、選ばないで欲しい」
険のない横顔を、街の灯りがぼんやりと照らす。頷けないまま、シートの上で膝を抱えた。
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