31.

 私が死を願えば、そこで死ぬ。死は確かに怖い。でも美祈子に襲われたあの時は、本当に死んでもいいと思ったのだ。

「亡骸、か」

 呟くと、胸の奥がまた軋むように痛む。痛みを逃すように息を吐き、バスタブに凭れた。

 湯を緩く掻いた手を眺める。帰りがけ、園長は私の手を取って祝福を与えた。これでしばらく、薫子と美祈子に襲われることはないらしい。

 許されたいと思わなければ、救われない。でも私のしたことは、許されて良いことなのだろうか。もちろん弟がしていたら「仕方なかった」「どうしようもなかった」「知らなかったんだから」と言うだろう。美祈子の後を追わないように、必死になって守るはずだ。

 私だって、頭では分かっている。八歳の子に完璧な責任なんて背負わせられないし、霊のことなど分かるわけもない。「結祈子は悪くない」と、父は何度も言った。自分のせいだと母は泣いた。でも、だめだ。あの時私が手を離し、背中を向けてさえいなければ。

 小さく舞う視界に諦めて、仰け反るように頭を起こす。

 私は本当に、許されるべき命なのだろうか。そこまでして守るべき命なのか。美祈子、しょーくん、幸絵、種村。私のせいで四人も死んだ。ナイフで四人殺していれば、死刑だろう。「見えないから許される」なんて、あっていいことなのか。苦労して私を守るより、私の命で全てを終える方が遥かに良い結末ではないのか。

 答えの出ない思考を断ち、腰を上げる。滴り落ちる湯の音に、あの日の水音を思い出す。苦しかったはずだ。美祈子は、ずっと。消えそうもない罪悪感に溜め息をついて、バスタブの栓を抜いた。

 風呂から上がると、携帯に沢岡からメールが届いていた。

 『その後、無事ですか。事件について少し話したいことがあるので、これから行っても構いませんか』。

 仕事帰りだろうか。八時を回った時計を確かめ、濡れ髪を掻き上げる。あんな目に遭ったのに、うちに来るのか。事件のためとはいえ、もう公の捜査ではないだろう。事実を解明せずにはいられないのが刑事の性なのか。

 了承を返し、色褪せた部屋着に気づいてクローゼットへ向かった。


 沢岡がチャイムを鳴らしたのは、それから五分も経たないうちだった。

「すみません。返事がなかったから不安になって、近くまで来てて」

「ご心配お掛けしてすみません。お風呂に入っていたので」

 詫びつつ迎えた今日の沢岡は、首の右側にガーゼを貼りつけていた。

「首、大丈夫ですか? そこ、あの時の痕ですよね」

「ちょっと肌が荒れたようで、見た目が悪いんで隠しました」

「病院には」

「ひどくなったら行くんで、大丈夫ですよ」

 事もなげに返して、勧めた椅子に座る。

「お夕飯、召し上がりました?」

「いや、まだです」

「うどん程度なら作れますが、いかがですか」

 沢岡は脱いだ上着のポケットからメモを取り出しながら、ぜひ、と笑った。

「あれから、変わったことありました?」

「はい。一応の策も分かったので、まとめてお話します」

 早速の問いに、冷凍庫を開きつつ答える。私一人で整理するより、沢岡の力を借りた方がいい。冷えた空気を浴びつつ、冷凍うどんを取り出した。

 玉子とじうどんを目指して手を動かしつつ、土曜と今日のことを伝えていく。儀式とそれに必要な私の覚悟を除いたが、丼へ移し終える頃には全ての内容を話し終えていた。

 いただきます、と手を合わせて、沢岡は早速うどんへ向かう。

「あなたのせいじゃない、で楽になれる話ではないんだろうけど、でも結局周りはそれ以外、掛けられる言葉はないですよね。先生のせいじゃないんだから」

 私からうどんへ視線を移し、軽く吹き冷ました麺を啜る。

――結祈子のせいじゃない、お母さんのせいなの。お母さんが悪かったの。

 今は簡単に、若かった母の泣き腫らした顔を思い出せる。

 社会的に見れば、母の責任になるのだろう。うちの園では送迎は必ず責任の取れる保護者を、と頼んでいる。でも二十年前は、その辺はまだ緩かったのではないだろうか。私以外にも園バスの迎えに出ていた子や、保育園の弟を迎えに行って一緒に帰る六年生がいた。時代が、それを許さなくなったのだろう。

 私が忘れてしまったあと、家からは美祈子のものや写真、話題が消え去った。法要は私を除いた家族でひっそりと行っていたのかもしれない。私は当然、気づいたことすらない。母は今も、自分を責めているのだろうか。許されるべきではないと、私の罪まで背負って。

「全て思い出しましたけど、両親に言うかどうかは迷います。どんな思いで家の中から妹の痕跡を消していったのか、親としてあれほどつらい決断はなかったはずですし」

「難しいですね。いつか自然に思い出す日を待っているのか、このまま思い出さずに幸せになって欲しいと願っているのか。ただどちらであっても、受け入れてくれるとは思いますけど」

 沢岡は気休めを言っているわけではないだろう。多分、そうだ。どちらの思いだったとしても、両親が私を突き放すことはない。それならとっくに遠ざけられていたはずだ。

「話すかどうかはまた、全てが終わってから考えます。今はとても答えが出せそうにないので」

「そうですね、抱えすぎると苦しくなるから。一つずつ解決していけばいい」

 ふわりと質感良く仕上がった玉子と麺をつまみ、沢岡は豪快な音を立てて啜る。シャツの袖をまくり上げ襟元を開いた、よくいるサラリーマンの格好だ。細いようでも園長よりは縦にも横にも一回り大きく、がっちりとしている。

 園長が今日の夕飯のことを何も言わなかったのは、祝福があればもう大丈夫だからだろうか。それとも、気づいているからか。

――たとえ君が回復の途中で僕に牧師に対する以上の気持ちを抱いたとしても、その誤解に付け入るつもりもないしね。

 園長は、私が感情転移を起こしたと言いたいのだろう。でもそうではない。こんなことが起きる前から、私は。

「ごちそうさまでした。旨かったです。やっぱいいですね、できたてのメシは」

「良かったです」

 満足そうな笑みで手を合わす沢岡に、思考を切り替える。これも終わってから考えよう。拗れるだけだから、今は動かさない方がいい。

 今度は二人分のコーヒーを淹れるために、腰を上げた。

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