十一、令和元年五月二十七日(月)

30.

 美祈子は私の四つ下、三人姉弟の最後に産まれた。幼い頃から体が弱くて、風邪を引いてはこじらせていた。一歳か二歳、その頃にはもう家に吸入の機械があったはずだ。私も弟も、割と早い時期に美祈子は「ぜんそく」という病気なのだと教えられた。特に私は、よく見てあげてね、と母に姉としての任務を与えられた。

 といっても私は美祈子が大好きだったから、まるで負担ではなかった。むしろ任務を与えられたことが誇らしくて、率先して世話をした。

 私は、決して大人しい方ではなかった。弟と美祈子は大人しかったが私は活発で、幼稚園では男子と棒を振り回して遊んでいた。幼稚園から帰っても飽き足らず、庭を駆けずり回っているような娘だった。家で大人しく絵本を呼んでいたい弟を庭に引っ張り出しては、鬼ごっこやかくれんぼを強要した。

 そんな私でも、美祈子に対しては善き姉になろうとしていた。絵本を読んでやったり人形遊びをしたり、外へ出られる時でも気遣って、激しい運動はさせなかった。もちろん喘息には慎重に、美祈子の変化をそばで観察し続けた。

 その結果、小学校へ上がる頃には発作の兆候にも気づけるようになっていた。どこで判断していたのかは覚えていないが、子どもならではの感覚的なものだろう。祖父母や両親は感心したし、感謝もした。私は一層自信をつけて、私がいなければ守れないような、そんな浅はかな優越感に浸っていた。

 小学校に上がって自分がつまずいてからは、失われた自信を美祈子の世話で回復しようとした。心配する両親達を、自分はまだこれだけできるのだと安心させたかった。

 事件はそんな最中、私が八歳、美祈子が四歳の冬に起きた。

 私はインフルエンザか何かで学級閉鎖中で、学校が休みだった。母の代わりに園バスの迎えに行って、美祈子を連れて帰った。庭で遊びたいと言ったから、直接庭へ向かった。

 実家の庭は池泉庭園で、象徴となる池のほかに大きな庭石がたくさんあった。幼い頃はかくれんぼの良い舞台になったが、その頃の私は庭石を登る遊びに燃えていた。

 その日も美祈子の手を離し、唯一攻略できないでいた庭石へ挑んだ。自分の背丈よりも高いそれは岩肌が滑らかで、足を引っ掛けるところがほとんどなかった。今日こそ攻略したくて悴む手をさすり、ジャンパーを脱ぎ捨てて臨んだ。

 庭石は上が少し平らになっていて、そこへ手を掛ければあとは楽だった。ばねのような体を歪めて膝を載せ、一気に体を引き上げた。ようやく攻略した頂上で立ち上がり、達成感とともに庭を見下ろした。

 最初に見えたのは、池に沈んだ美祈子の背中だった。

 美祈子は池のそばで遊んでいて発作を起こし、池へ落ちて死んだ。溺死か水の冷たさによる心臓発作か、私には知らされなかった。ただ私のせいで、私が手を離したせいで死んだのは事実だ。

 私は自分を責めて、責めておかしくなった挙げ句、妹の全てを記憶から消して「なかったこと」にした。

 あれは小学四年か五年、学校でも声を取り戻していた頃だ。一度だけ「お前、妹殺したんだろ」と、ニヤついた顔の男子に言われたことがある。私は当たり前のように、弟しかいないと返した。

――だから、妹いたけどお前が殺したから弟だけなんだろ。

――ううん、最初から弟しかいないよ。なんでそんなこと言うの?

 その時、クラスがしん、としたのを覚えている。あの顛末は結局、どうなったのか。私が中学から私立へ移ったのは、そんな理由もあったのかもしれない。

「多分、家族はみんな分かってたと思います。でも誰も、両親も思い出させようとはしませんでした」

「これ以上、我が子を喪いたくなかったんだよ。言葉は悪いかもしれないけど、喪った子どもの記憶より生きている子どもの命だ。ご両親がどんな思いで君を守り続けてきたのかは、僕みたいな人間でも分かるよ」

 園長は私の告白をノートへ綴りながら、両親を慮った。

「でも、だから『こうなった』んですよね?」

「そうだね。じゃあここからは、僕が話そう」

 ペンとノートを置くと、ソファへ凭れて手を組む。じっと見据える私に苦笑して、コーヒーを勧めた。

「最初に分かっていて欲しいのは、妹さんは亡くなった時点では君を全く恨んだり憎んだりしていなかった、ということだ」

「でも、そんな」

「君は突き落としたとか発作が出たのに無視したとか、そんなわけじゃなかっただろう。素直な子どもの考えることだよ。自分が苦しくなって池に落ちて死んじゃった、程度の認識だったはずだ。わざわざ『お姉ちゃんがあの時私の手を離したから』なんて余計な情報を引っつけて、大好きだった姉を悪者にはしない」

 園長は淡々と言葉を継ぎながら、優雅な所作でコーヒーを飲む。私も言い返す言葉を失くして、カップを傾ける。少し酸味のある、華やかな口当たりだった。

「でも君は、あまりに自責の思いが強すぎた。死は終わりではなく魂が神の元へ還るだけだけど、まだ理解できていなかったんだろう。純粋故に強すぎる絶望と自責の思いが、妹さんの魂を繋ぎ止めて上がれなくした。妹さんに、足枷をはめてしまったんだ」

 私の感情を必要以上に揺らさないようにか、園長はこちらを見ないまま私達の間に起きたことを解き明かしていく。それでも、与えられた衝撃はすぐには受け止められない。手元で、小さな水面が揺れていた。

「そのあと、君の防衛機能が生きるために妹さんの記憶を消し去った。それは決して間違いじゃない。でも霊にとっては、暗い壺に押し込まれ封印されてしまったようなものなんだ。何も悪いことはしていない無垢な魂が、まるで悪霊のような扱いを受けてしまった。天国にも上がれず暗闇から出ることも許されず、身動きもできない。何もできないまま、自分を忘れた姉が自分には許されなかった人生を歩む姿を眺めるしかなかった。二十年近くね。恨みが芽生え育つには、十分な時間だ」

 十九年、だ。今年で十九年。理不尽と不条理に耐え兼ねて、恨み憎しみを募らせたとしてもおかしくはないほどには長い。私が押し込めて、美祈子を変えてしまったのだ。

「そして今また、君の罪悪感に幼い魂が囚われた。二つの死の共通点を意識は分かっていなくても、もちろん無意識は分かってる。君は心のどこかで『また同じことをした』と悔いたはずだ」

 美祈子だけでなく薫子も、私は助けることができなかった。それだけでなく、上がることまで阻止している。震えた手で運べなくなったカップを置き、固く組んだ。

「妹さんと薫子ちゃんは、まだ別個体を保ってはいるけど根が融合しつつある。これまでは、妹さんが薫子ちゃんに力を与えて攻撃させていた。ただ君が思い出したことで、自身も本格的に動けるようになった。沢岡さんを襲ったのは薫子ちゃんだけど、君を襲ったのは妹さんだ」

「どうすればいいんですか」

「妹さんの霊を祓うしかない。そうすれば薫子ちゃんは問題なく上がっていける」

「……美祈子は」

「できる限りのことはする。ただ、もう無垢な魂に戻して上げるのは無理かもしれない」

「そんな、私のせいなのに!」

 思わず噛みついた私を、園長はまっすぐに見据え返す。強い視線にたじろいで結局、俯いた。あの時締めつけられた手首は少し痛みがあるくらいだが、噛まれた傷は消えなかった。袖の下には今も、小さなかさぶたと内出血が歯型に並んでいる。

 でも美祈子の十九年の痛みや苦しみは、こんなものではないはずだ。私は、許されてはいけない。それこそ、元凶である私が死ねば全てが片付くのではないだろうか。

「君はもし、自分ではなく弟さんが同じことをしていたら『お前のせいだ』と言える? お前が殺した、お前が自分を責めたせいだと詰れる? 今からでもご両親を、事実を教えなかったせいだと責められる?」

 大人しい声が訥々と、到底無理なことを並べていく。どれも無理だ。できるわけがない。それでも、美祈子を殺したのは弟じゃない。私だ。

「不幸が起きたことには違いない。やりきれない不幸だ。これ以上連鎖する前に、ここで断たなきゃいけない」

 揺れて落ち着かない視線を上げ、園長を見る。

「そのためにも君は、自分を許す必要がある。許されたいと願ってくれなければ、助けられない。儀式の最中にも、向こうは抵抗してありとあらゆる方法で君を屈させようとするだろうから」

「どんな風に、ですか」

「嘘や脅迫、誘惑や哀願で弱いところを突いてくるんだ。まず間違いなく君の罪悪感を突いて揺さぶってくるだろう。絶望に落とし込んで、死を選択させようとするはずだ」

 死か。でも私は、償うべきではないのか。

「君が『死んでもいい』と思えば儀式は失敗して、君は死ぬ。君の意志を歪めることはできないから」

 園長は寂しげな笑みで私を眺めたあと、コーヒーへ手を伸ばす。

「君は生きて、幸せになるべきだ。僕に、君の亡骸を抱かせないで欲しい」

 私を見ないまま零れた願いに、胸が鈍く軋んだ。

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