八、令和元年五月二十一日(火)

23.

 朝起きたら、アネモネが枯れていた。一輪残らず花首を垂れ、生気を吸い取られたかのように萎れていた。きっと、私の処理が遅かったせいだろう。スパティフィラムは白の苞も鮮やかだし、葉や茎は元気そうだ。

 カーテンの向こうに小雨の降りしきる外を眺め、薄暗い部屋に戻る。室内干しの洗濯物はエアコン直下、除湿を掛けているから乾きに問題はないが私が寒い。洟を啜りつつ、パーカーを求めてクローゼットを開く。目の前に浮かんだ小さな顔に、短い悲鳴を上げた。


 響いたチャイムの音に目を覚ます。床で寝ていたのか、体が痛いし寒い。冷え切った肌をさすりながら、再びのチャイムに起き上がる。クローゼットの扉を閉めて、玄関へ向かった。

 ドアの向こうへ呼び掛けると、種村です、と聞き覚えのある声がした。幼稚園にも来た不躾な記者だ。

「どういったご用件でしょうか」

「縄畑の事件と真瀬牧師の関係について、お伺いしたいんですが」

 最初の名前はともかく、二つ目は聞き流せない。少し迷ったが、ドアチェーンを残したまま開けることにした。

 種村は頭を軽く下げて、突然すみません、と今更わざとらしく詫びる。ここへ来たのだから当然、私が休職していることも分かっているのだろう。

「縄畑と鈴井の死因は、もうご存知ですかね」

「いいえ、存じません」

 いきなりのいやな話題に、眉を顰める。開けたのは間違いだったかもしれない。

「両方ね、不審過ぎる変死なんですよ。縄畑の方は頭をぶっちぎられた上にまだ見つかってないし、鈴井の方も」

 幸絵も、やはり自殺ではなかったのか。

「自分の髪で首絞めてたってんで自殺にはなってるんですけど、実際はそっちより髪を飲んでの窒息死らしいんですよね。胃まで髪が到達してたって。でもねえ髪なんて、先生、飲めます? トイレ入って五分も経ってなかったらしいですよ」

 長く垂れた私の髪を眺めながら、種村は尋ねる。確かめるように髪の流れを撫で、粟立つ肌をさする。確かに、尋常な死に方ではないだろう。

「警察も、まるで誰かに髪を突っ込まれて無理やり飲まされたみたいだって言ってるんですよ。けど、監視下のトイレでそんなことできるわけありませんよね。できる状況だったなら、警察の大失態ですわ。まあそんなわけで、ヤク以外の筋はもう手を引くっぽいですよ。警察も、『見えないもん』相手に仕事はできません」

 私のところには、あれ以来音沙汰はない。もちろんそれが一番だ。思い出した警察署での夜に、顔をさすり上げる。気分が悪い。横になりたくなってきたが種村は気にせず、以前、と話を続けた。

「先生の園、訴えられたことがありますよね? その時にオカルト説があったの覚えてませんか」

「はい、覚えています。でもあれは、本当に頭を打っての痙攣で」

「ああ、それは分かってるんです。そっちがどうこうじゃないんです。あの時オカルト説を唱えたのは、実は私なんですよ」

 突然の自己申告に、視線を上げる。懺悔でもするつもりなのだろうか。

「調べるとどうも、牧師回りにそっち系の不審さがあったんです。まあ結局事件とは結びつけられそうになかったので、賑やかしみたいな三文記事になりましたけど」

 懺悔どころか、詫びる気もないらしい。その記事が教会員達の疑心暗鬼と不興を買い、主任牧師だった榎木えのきは異動となったのだ。ふわっとした人だったが、決して悪い牧師でも園長でもなかった。穏やかで温かい、優しいおじいさんだったのに。

「当時は榎木牧師が怪しくて、副牧師だった真瀬牧師には注意してなかったんです。でもあれは、榎木牧師が庇ってたんですねえ。本丸は真瀬牧師だったようで。すっかり騙されました」

 種村は、まるで事実を語っているかのように顎をさする。しかしそれが事実の確証なんてないだろう。ないはずだ。気分の悪さも手伝って、じわりと背中にいやな汗が浮く。

「真瀬牧師は、かなりオカルトに精通していらっしゃるようで」

「それは、牧師ですから。聖書に悪魔や悪霊が当たり前のように出てくる以上は、知っていてもおかしくはありません」

「でも教団の教義的に、オカルトに傾くのはアウトですよね? 悪霊や悪魔が憑くってことは神がそばにいない、つまり信仰が足らないことで説明がつく、とか。それなら真瀬牧師は、教義に反した行動を自ら選んでなさっていることにはなりませんかね。私達マスコミへの仕打ちもそうですが、牧師としての資質に疑問を感じます」

 種村の説明に、浮かぶ顔は一つだった。しかし種村になぜ、そんな話をしてしまったのか。園長を失墜させようとしていると思われても仕方ない

「入谷牧師は教義に厳格な方です。真瀬牧師も教義に基づき行動なさいますが、より現実的な策を実践なさいます。教義の捉え方や考え方の違いであり、良し悪しでは図れません。ただマスコミの方々への対応は『許しなさい』『祈りましょう』で放置していれば、連日園に押し掛けて子ども達を怯えさせ、職員達を疲労させていたでしょう。私は真瀬牧師の決断を支持します」

「まあ、先生はそうでしょうね」

 まるで私が特別であるかのように答え、種村はわざとらしく溜め息をついた。これまでは気にならなかった小粒な目や、脂ぎった段鼻が厭わしい。私を怒らせようとしているのだろうか。違う向きでも気分が悪くなってきた。

「先生は、真瀬牧師が悪魔祓い的な儀式をされているのはご存知ですか?」

「存じません」

 ドアを開けたのは失敗だった。今更どうにもならない後悔を噛み締めて、痛みの走り始めたこめかみを押す。

「そうですか。ちなみに私は、悪魔を祓う方法を知ってるなら呼ぶ方法だって知ってるだろうって思うんですよ。園児のためなら、マスコミに全面戦争を仕掛けるような人ですよ。ヤク呷らせて幼気な園児を殺したヤク中と見捨てた母親に制裁を加えたとは、考えられませんかね」

「そんなこと、ありえません」

 はっきりと否定した私に、種村は少し驚いた様子で顎を引いた。

 園長は確かに、ふわっと「許しましょう」「祈りましょう」なんて言う人ではない。だからといって、罪人を憎み命を奪うなんてありえない。あの人は罪は憎んでも、人を憎むことはない。

 種村は、そうですか、と物言いたげに返してメモに何かを書く。まだ帰らないのだろうか。もう、ドアを閉じてしまいたい。疲れた視線を落とすと、ドアの隙間にきっちり種村の爪先が差し込まれていた。小汚いスニーカーだった。

「先生は最近、真瀬牧師と夜に出掛けられてますよね」

 驚きのあと、嫌悪感が湧き上がる。昨日感じた気配は、種村のものだったのかもしれない。

「私まで加担したとおっしゃりたいんですか」

「いや、そうじゃありません。ただ先生は、真瀬牧師の『お気に入り』ですよね? 教会員でもないのに採用されたのは、真瀬牧師の強い推しがあったからだとか」

「どちらも初耳です。それも、入谷牧師ですか?」

 重くなる一方の頭をどうにか保ちながら、種村を見据える。そんな話は聞いたことがない。そもそも面接の場に園長はいなかった。話だってこれまではずっと、用事がある時に言葉を交わすくらいだった。

「違いますが、信頼できる筋ですよ。本当にご存知なかったんですか」

 呆れたような口調で返す種村に思わず苛立つ。事実かどうかも分からない話で、なぜこんな扱いを受けなければならないのか。

「失礼ですが、先生は男女の機微には長けておられませんね。前回私が真瀬牧師についてお伺いした時も、不快さを全面に出されて否定されましたし」

「当然です」

「真瀬牧師が自分を好きだと考えたことは?」

 もう答える気も潰えて、項垂れる。左手には、当然のようにあの痛みが走り始めていた。

 大きく溜め息をつき、顔をさすり上げる。

「ありませんし、ありえません。……申し訳ありません、具合が悪いのでお帰りいただけますか」

「ああ、お休み中ですもんね。では今日は、これで失礼します。名刺を入れておきますんで、何か思い出したことがあればご連絡ください。あと、そのつもりがないなら気をつけられた方がいいですよ。牧師とはいえ、相手は男ですから」

 ようやく抜き取られた爪先に、ドアを閉めて鍵を下ろす。向こうに気配が消えるのを待って、ドアを背にしゃがみこんだ。滲む視界に目元を拭っても、また視界は滲んで揺らぐ。

 ショックと嫌悪感と、あとはなんだろう。頭は痛いし体は怠いし、心細いし、誰を信じればいいのか分からないし、もうどうでもいい。

 気がすむまで一頻り泣きじゃくったら、一層体が重くなった。額に手を当てると、なんとなく熱い気がする。そういえばさっき。

 ようやく思い出して、肌寒い部屋のクローゼットを眺める。今も寒いが、開けるのは怖い。あんなものがまだ見えるなんて、薬が足りないのだろうか。薬を増やせば、消えるのだろうか。

 エアコンを切り、洟を啜りながらベッドへ潜り込む。熱っぽい息を吐きつつ目を閉じ、もう何事も起きないように神に祈る。浮かんだ園長の姿を掻き消して、眠った。

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