七、令和元年五月二十日(月)

20.

 薬のおかげでよく眠れるようになったが、そのせいか日中もぼんやりと揺蕩っているようで思考がまとまらない。とはいえ、飲み始めて二日足らずの薬を合わないと判断するのは早いだろう。

 朝起きてご飯を食べ一通りの家事をしたら、もうすることがなくなった。この土日で始めた大掃除と片付けは、二日間ですんでしまった。

 園ではもう、高橋先生の指導が始まっている時間だ。子ども達は私が倒れた姿も見ているだろうから、疑問は抱かないはずだ。そのうち私のことも忘れてしまうだろう。

 鬱々と塞ぎ込んでいく胸に、携帯を取り出す。諦めない園長からのメールは一昨日から一日二回、生存確認するかのように届いていた。返信しないと救急車か警察を呼ばれそうで、ひとまず返信はしている。土曜は夕拝があったから夕飯の誘いはなかったが、昨日はあった。でも、断った。ラーメンも結局割り勘にはできなかったし、何よりこれ以上は踏み込まれたくない。

 園長も幸絵の死亡を知って、必死になっているのだろう。もうこれ以上の犠牲者を出したくない気持ちは分かる。私が死んだって日本にはまだ一億数千万人も生きている、と思うような人なら牧師にはならないだろう。あの人は、善き羊飼いだ。

 本棚から、子どもの頃に使っていた新約聖書を取り出す。開いた聖書は、蛍光マーカーのアンダーラインでちかちかする。私が通っていた日曜学校では、朗読に合わせて該当箇所にアンダーラインを引く習慣があった。

 「見失った羊」の話は、ルカの福音書にある例え話の一つだ。私は物語性に溢れたルカの福音書が一番好きだった。

 百匹の羊のうち一匹がいなくなれば、羊飼いは残り九十九匹を置いても探しに行くだろう。その一匹が見つかれば喜んで、周囲の人を集めて祝うだろう。それと同じように、神は一人の罪人の悔い改めを心より望み喜ぶ、とそんな話だ。

 子どもの頃は、いなくなった一匹の羊に自分を重ね合わせていた。群れからはぐれて、暗い森で寂しく途方に暮れて鳴いている子羊だ。そこに、深く生い茂る草を掻き分けて誰かが探しに来てくれる。ようやく見つけた自分を、大喜びで連れて帰るのだ。

 子どもの私なら、喜んで手を差し出していただろう。でも今は拒んで更に後ろへ、切り立った崖へと後ずさっている。救いを拒む日が来るなんて、思わなかった。

 余計鬱々とした胸に聖書を閉じ、首を回す。薄暗い部屋は、大掃除のおかげで更に殺風景になってしまった。花でも飾れば少しは華やぐだろう。今は無性に、緑の力に頼りたい。一息ついてクローゼットを開き、外出の準備を始めた。


 家を出る前は花屋と本屋へ行くつもりだったが、花屋で観葉植物と花を選んだら疲れてしまった。すぐ決められるつもりだったのに、なかなか決められなかった。薬のせいかもしれない。

 予想より重く手に食い込むレジ袋に一息つき、カフェのドアを押す。ランチを食べて少し休憩して、余裕があれば本屋へ寄って。

「お客様」

 窓際の明るい席に向かう私を、店員が呼び止めた。

「申し訳ありません。小さなお子様連れのご入店は、お断りしておりまして」

 すまなげな表情で伝える女性店員を、思わず見据える。でも彼女が、初対面の私にこんな性質の悪い冗談を言う理由はない。

 店員は押し黙った私を訝しげに見返したあと、視線を落として「現実」に気づく。

「え、あれ? お客様、あの、お子様連れでは」

「一人です。でも、申し訳ありませんでした」

 踵を返してドアへ向かう私を追い、店員は外で頭を下げた。本当に申し訳ありません、決して入店拒否をしたかったわけでは、と泣きそうな表情で詫びる店員に居た堪れなくなる。大丈夫です気のせいじゃありません私が憑かれてるだけですから、なんて言えるわけがない。結局、気にしないでください、と逃げるように店をあとにした。


 その足で向かった神社の社務所で事情を話すと「そういうのはやっていない」と苦笑され、代わりに招福祈願を勧められた。災いを祓って福を呼ぶ、その災いの中に入るだろうとの解釈だった。ただ「災いを祓う」と言われた途端、薫子をそんなものにしてしまうことへの罪悪感が湧いた。さっきまでは恐ろしくて突き放したかったのに、そこまですべきではないように思えてためらった。勢いで鳥居をくぐってしまったが、よく考えたら私は園長の助けすら拒んでいる状況だった。

 救われたいのに、救われてはいけないような気がしてしまう。でもどちらにしても今のままでは限界だから、ちゃんと見える人にどうすればいいのかを教えてもらいたい。

 たどたどしくそんな願いを伝えた私に、初老の神主は近くの寺への訪問を提案した。

――確か、そういうものが見える住職さんだったはず。

 予想外の提案を受けて訪れた寺には、園長より少し若く見える住職がいた。寺は後継者不足だと聞くが、都会だとそうでもないのかもしれない。

 住職は訝しむことなく私を受け入れて経緯を聞き遂げ、そうですね、と視線を私の背後へやった。

「確かに、幼いお子さんの霊に見えますね。あ、あまり見られたくないのかな。逃げちゃいました」

 どことなく線の細い住職は細面に品の良い笑みを浮かべて頷く。緊張感を解く柔和な態度に、思わず肩の力が抜けた。

「悪い霊ではないですよ。そもそも、この寺は悪い霊が入ってこられないようにしています。入れるほどなら害はありません。お子さんだから、自分に気づいて欲しくてちょっかいを出してるんでしょう。生前もあなたが大好きで、やきもち焼きだったのではないですか」

 見える人がそう言うのなら、そうなのか。でも「ちょっかい」や「やきもち」であんな風に本棚を倒したり沢村の事故を引き起こしたり、しょーくんや幸絵を殺したりするのだろうか。確かに公輝や彩乃に噛みつく行動は生前の薫子からも予想できるが、今起きているのはそれ以上のことだ。

「助けられなかった私や殺した相手を恨んでの復讐、ということは」

「いえ、とてもそんなことをする子ではないでしょう。むしろあなたが好きで離れがたくて、なかなかあちらへ行けないように感じました。四十九日のうちに未練が消えると良いのですが」

 住職は引っ掛かることを口にして苦笑し、私を見る。薫子が見えているのは確からしかった。

「すぐに向かわれる方もいらっしゃいますが、四十九日はこの世の未練を整理してあちらへ向かう準備をする期間なんです。この時期は霊現象が起きることもありますが、きちんとお弔いをすれば四十九日で別れを告げて上がっていかれます。特に子どもの魂は綺麗ですから」

 仏式で見送られた薫子は、やはり仏式で上がっていくのだろう。

 四十九日か。長いような気もするが、一ヶ月半なんてすぐだ。薫子は、大丈夫だろうか。

「もし未練が消えなくて四十九日で上がれなかったら、祓わなくてはならないのでしょうか」

「いえ、そのようなことはいたしませんよ。あれは最後の手段ですから、恋しくて離れられない、稚い子どもの霊にするものではありません。それに」

 湧いた不安へ答えを与えたあと、住職は一息ついて衣の袖を軽く整えた。

「どのような霊でも悪霊扱いしてすぐに祓おうとするのを、私は良しとしておりません。たとえ悪霊と呼ばれるものでも、最初からそうだったわけではないのです。こちらの態度が、怒りや恨みの引き金になってしまうこともありえます。大好きな先生に悪いものと扱われて祓おうとされるのは、はっきりと分かっていなくても傷つくものだと思いますよ」

 安易な訴えには思うところがあるのか、ここに来て初めて本音と思える熱のこもった主張だった。ただ、確かにそのとおりではある。神社で「災い」と括られてためらいはしたものの、私は既に薫子を恐怖の対象として見てしまっている。生きていた頃と一八〇度変わってしまった私の態度に、薫子が腹を立てていたとしても仕方ないだろう。身体のあちこちに浮かぶあの赤い筋は、必死の抗議なのかもしれない。

「実害が起きたのは、そのせいでしょうか」

「いえ、あの子にはそんな力はありません。偏った思い込みで間違った判断をしてしまう、認知バイアスの類だろうと思います。特にあなたは病院に掛かられていると仰いました。まずはご自身の治療に専念されるべきではないでしょうか」

 とはいえ病気だと判断されたのは、幻覚だと思われたからだ。実際にそばにいるのであれば、幻覚ではないだろう。それにしょーくんや幸絵の死の真相はともかく、沢村は病気ではない。幼稚園で園児をたくさん見たあとだったから、疲れでそんなものを見たような気がしたのだろうか。どことなく、噛み合わない。

「見えない、分からないものへ恐れを抱く気持ちは十分に理解できます。ただ相手は幼い子どもの霊であることを忘れず、受け入れてあげてください。四十九日が来て無事成仏できるように祈ることが、今のあなたにできる一番のことです」

 住職は往生際の悪い私に取るべき術を教えて諭す。ああ戻って来てくれましたね、と私の隣へ笑みで視線をやった。

「見る限りは、至って普通のかわいらしい女の子ですよ。たださっきから胸が苦しいので、呼吸器の問題で亡くなったんでしょうか。もう大丈夫、苦しくないんだよ、と教えてあげてください」

 言い当てられた死因に、全てを飲み込んで頷く。素人の私がぐだぐだと考えていても、なんの実りもない。住職は私より遥かに物事を知り、見えない世界に通暁している人だ。正しいのは、私ではない。

「そうですね、その方が建設的です。突然押し掛けてしまって、申し訳ありませんでした。アドバイス、ありがとうございました」

「迷いが晴れて良かったですね。また迷われた時はいつでもおいでください」

 頭を下げた私を、住職は鷹揚に受け止める。

「ありがとうございます。では、相談料を」

「いえ、よろしいですよ。困った方を助けるのは当然のことです」

 緩やかに頭を横に振られたが、そうはいってもプロをただ働きさせるわけにはいかない。でも、と諦めない私に住職は笑う。

「子ども達にとって、あなたは太陽のような存在なのでしょうね」

 私には見えない何かを見てまた笑い、では、と御守の購入を勧めた。

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