16.

 受洗していないのは、別に大きな理由があるわけじゃない。ただ自分が受洗するに値しない人間だからだ。

 それでも、さすがは牧師と言うべきか。私はあまり話さなかったのに、朝に比べれば胸は随分空いていた。職員室へ戻った私を見て、副園長も安堵したような笑みを浮かべた。本当にごめんなさい、と力なく項垂れる姿を素直に受け入れる余裕も生まれていた。

 おそらくしばらくは遠ざかることになる保育を、暗い気持ちで行うのは本意ではない。改めて園長に感謝しつつ、教室へと向かった。

 クラスでは高橋先生の指導で、粘土遊びの最中だった。遊び一つにも、きちんと指導案が存在する。創造の楽しさを経験するのはもちろんのこと、集中力を養う、指先の発達を促す狙いも存在する。

 邪魔をしないよう後ろのドアからこっそり入った私に、数人の子が気づいた。ただ、みなが笑顔のあと訝しそうに足元の方を見る。

 子ども達はみな、薫子を存在しているものとして共有している。以前電話で指示を仰いだ園医は「一度見に行く」と言ってくれたが、未だ気配がない。副園長が訪ねた大学病院のアドバイスも、そのうち消えますから大丈夫です、大人の方までパニックにならないように注意して対応してください、程度のものだったらしい。

 ただ園医の方は私に一つ、もっともなアドバイスをしていた。

――先生のとこにその子が見えるってヒステリーが起きたんですよね? それなら、先生がクラスから離れたらいいじゃないですか。

 その時は素直に受け止められなかったが、今は受け止めざるを得ない。確かに私が現れない限りクラスは平和で、誰も「かおるこちゃんがいる」とは言わないのだ。周りも本当は分かって、皆同じことを思っているのかもしれない。私がこの場に執着しなければ、この集団ヒステリーは速やかに解消する。私の休職とともに問題は消えるのだろう。私が消えれば。

 せんせえ、と窺うようにしながら寄って来たのは、久し振りに登園を果たした公輝だ。スモックの袖をたくし上げた手は、粘土の塊を掴んでいる。

「どうしたの?」

「かおるこちゃんが、なんかひきずってる」

 前からはよく見えないのか、確かめるように後ろへ回って覗き込んだ。本当に、これほどリアルにイメージできるものなのか。

「あたまだ。せんせい、あたまがあるよ!」

 ぱっと顔を上げた公輝に、思わず顔が強ばる。背筋に冷たいものが勢いよく這い上がって、体中に散った。

――死体、頭が引きちぎられてんですよ。

 脳裏に、山際の声が繰り返される。そんなはずがない、そんなわけがない。

 無理やり顔を整え、発見したかのように目を輝かせる公輝の頭を撫でる。

「そっか。でも、今は粘土のお時間だからね。公輝くん、恐竜は作ったの?」

「ううん、まだ。これからつくる!」

 屈託なく返し、あっさりと公輝は戻って行った。早鐘を打つ胸と滝のように流れる冷たい汗に、息が荒れる。

 きっと公輝が、どこからか情報を。

 考え得る可能性は、すぐに否定された。しょーくんの死亡は知っていても、死に様を知っているのは「私だけ」だ。私は、誰にも言っていない。

 収まりがつきそうにない荒い息を吐きつつ、ゆっくりと隣を見る。私には相変わらず、何も見えない。でもここに、「薫子がいる」のだ。

 次は、私だ。私が死ぬ番。

 耐えきれず、そっと廊下へ出る。壁に凭れ、震える手で流れ続ける冷たい汗を拭う。目を閉じて深い息を繰り返す。大丈夫だ、あと半日がんばろう。子ども達の明るい声を支えに、呪文のように数度唱える。気持ちが落ち着くのを、じっと待った。

 大丈夫、大丈夫だ。

 どうにか落ち着いた胸に目を開いた時、ふと鼻を突く臭いがして視線をやる。

 足元に、乱れ髪の生首が転がっていた。長い髪の、半分は茶色くなっている。

 短く息を詰めたあと、一瞬で全てが暗がりへと吸い込まれていった。


 私を診た医師は、低血糖ですよ、と言った。

――「変なもの」が見えたのは、低血糖の症状の一つですよ。きちんと食べて眠れば大丈夫ですから。お大事に。

 処置は点滴一本、念の為頭部CTも受けたが異常はなかった。私は救急車の中で意識を取り戻したあとも、しばらく「見えないもの」と闘っていたらしい。全く覚えていなかった。

 救急車に同乗して付き添ってくれたのは、手の空いていた職員だった。でも処置室から出た時にいたのは、まさかの園長だった。

「副園長が、家もそれほど離れてないしご家族に来てもらおうと電話をしたんだけど」

 ハンドルを繰りつつ切り出した園長に、思い出して俯く。緊急連絡先で実家と母の携帯を書いたが、どちらも本物ではない。

「申し訳ありません、嘘を書きました。家に、家族にはかけて欲しくなくて」

 今回だけではない。これまでも適当な番号を書き続けてきた。それが当たり前で、嘘を書いている意識なんか消えてしまっていた。

「家族とうまくいってないの?」

「そんなことはありません。祖父母は優しいし両親と弟も。皆いい人だし、大事にしてくれます。かけたらすぐに誰かが来てくれたと思います。だから、呼んで欲しくなくて」

 あの人達は、間違いなく善良な人達だ。あんな善良な人達を私ごときのために……とにかく、これ以上迷惑を掛けたくはない。

「家族に迷惑を掛けるのが怖い?」

「怖くはありません。申し訳ないだけで」

「君もグレてた?」

「そうじゃないです、ただ……すみません、あまり家族の話はしたくないんです」

 胸に湧く靄のような感覚に、中断を申し入れる。何かが、どこかが揺らいでいる。この感覚は、あまり好きではない。

「そうか。じゃあ、一番直近で付き合った彼氏の話でも」

 なぜ、家族の次がそれなのか。別にセクハラとは思わないが、訝しくはある。

「先生、お酒飲んでませんよね」

「飲んだら寝てるよ」

「そうでしたね」

 園長は、酒が入ると五分で眠る人だ。園の皆で飲む時は乾杯のあと健やかに眠りに就き、ラストオーダーの声を合図に起こされて目を覚ます。二次会には来たことがない。

「直近って言っても一度だけですし、いい話じゃないですよ。大学一年の頃に、先輩と付き合いました。すごく雰囲気のある人で、スタイルも良くてモデルみたいな人でした。格好いいなあと思ってたから、『付き合おうか』って言われた時はすごく舞い上がったんですけど」

 顔の造作は、そこまで整っていたわけではなかった。ただ知的で大人びた雰囲気と選ぶ服がぴったりで、大人の世界を見せてくれそうで憧れた。

「外出が好きで、遊園地とかおしゃれなカフェとか、あちこち連れて行ってくれる人でした。でも会計の時になると、いつも私を残して消えるんです」

 最初はトイレとか携帯が鳴ったとか理由をつけていたが、やがてそれすらもなくなった。素知らぬ顔でどこかへ消え、会計を済ませると当たり前のように現れた。

「『貧乏なのが言い出せないんだな』と思って、黙って出してたんですけど」

「出してたんだ」

「今はもちろん、だめな人だったって分かりますよ。でもそれまで、そんな卑しい人に出会ったことがなかったんです。友達とは奢ったり奢られたりしてましたけど、出せない子なんていなかった。だから本当に、そんなことをする人がいるなんて思わなくて」

 途中入学組はともかく、高校時代のエスカレーター組はどこも似たような経済力の家庭だった。私はピアノと絵画を習っていたが、女子のバレエ率は異常に高かった。乗馬や能を習っている子もいて、能の子は日本文化を伝えるために渡仏した。

「ただプレゼントはちゃんと自分のお金で買うべきだと思ってたので、誕生日は香水、クリスマスはマフラーをバイト代で買ってプレゼントしたんです。でもマフラーを見るまでもなく、すごくいやそうな顔で『あのさあ、俺がずっと何欲しいって言ってたか覚えてる?』って」

 今もよく覚えている。薄い袋に察したのか、開けようともしなかった。

「確かにずっと雑誌や店で見せられてましたけど、それ、二十万もする腕時計だったんです。だから私もさすがに『貧乏は恥ずかしいことじゃないですけど、お金を集るのは恥ずかしい行為なんですよ』って諭したんです。そしたらキレて」

「だろうね」

 園長は苦笑しつつ、私の向こうを確かめながら左折する。ウインカーの音が消えると、車内にはエンジン音の唸りが響く。園長の愛車は、年季もののセダンだ。

 牧師の謝儀、いわゆる給料は概ね教会員の数に比例する。うちは牧師館があるから住居費はタダだが、公共料金は自己負担だ。おまけに会計報告で、謝儀は余すところなく全教会員の目に晒される。受洗していない私は教会員ではないのに、当たり前のように資料を配られるから知ってしまった。園長を兼務しているから牧師だけの謝儀よりは多いが、それでも決して高くはない。

「『俺は貧乏じゃない』とか『愛情が足りない』とか、散々言われました。でも結局は『金がなきゃお前みたいなぺらっぺらと付き合うわけねえだろ!』って、お金目当てだったのを白状して逃げて行きました。正月明けには、大学で『一反木綿』って呼ばれるようになってました」

 大人になればそれなりの凹凸もできるだろうと期待したのは中学の頃だ。しかし高校生を過ぎ大学生になり二十歳を越え大人になっても、私の体はぺらりと薄いままだった。もし私の胸がE、は無理でもD……せめてCくらいあったら、彼はあんな台詞を吐き捨てることもなかっただろうか。どのみち別れたけど。

「それで?」

「これで終わりですよ」

「名誉回復は」

「何も。一反木綿並みにぺらっぺらなのはそのとおりですし」

「腹は立たなかった?」

「そうですね。ショックは受けましたけど、こんなものだろうと」

「『こんなもの』とは?」

 ぽんぽんと続いていた質疑応答が、ふと途切れる。園長は最後の赤信号に車を止め、私を見た。

「『自分はこんな扱いを受けて当然の人間』だと?」

 まるで私の「何か」を知っているかのような言及に、肌が粟立つ。さっきから胸が落ち着かないのは、このせいだったのか。いやなものが蓋を開きそうで、意識が向きそうで苦しい。私は、こんなことを望んだわけじゃない。でももう、半泣きで見返すだけで精一杯だった。

「ごめん、追い詰めるつもりじゃなかった。いい話し方じゃなかったね。ただ」

 無言の抵抗に、園長は苦笑で返す。変わりそうな信号に気づいて一旦区切り、ギアを入れた。

「生きることを迷うほど苦しい時は、頼って欲しい。僕は神じゃないから奇蹟は起こせないけど、温かい食事を一緒に取るくらいのことはできる」

 静かに車を滑らせながら、園長は牧師らしい言葉を口にする。胸に落ちた熱に、さっきとは違う向きで何も言えなくなった。私が何度となく死に引き寄せられていることなど、お見通しなのかもしれない。もうずっと、今この時すら揺らぎ続けている。

「ありがとう、ございます」

 小さく伝えたあと、窓外に見え始めた教会を眺める。頂点に聳え立つ十字架が小さくぶれて、目を閉じた。

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