六、令和元年五月十七日(金)

15.

 私は結局、簡単な取り調べと尿検査を受けただけで返された。改めての召喚もなさそうだったから、もうこれで終わりなのかもしれない。しょーくんも幸絵も死亡、特に幸絵は署内で死んだ。そちらの処理で大変なのだろう。山際に私の送りを押しつけられた沢岡は、「内密にお願いします」と勝手なことを言った。

 ただ、送る車の中で気になることも言った。自分の自損事故の話だ。

――女の子が、いきなり飛び出してきたんです。跳ねそうになって慌ててハンドルを切って、フェンスにぶつけました。でも慌てて車から降りても、どこにもいなかったんです。先生の園の制服によく似た服を着てました。

 あの時間は既に保育が終わっていたから、そこにいたっておかしくはない。ただ、「どこにもいない」のは気になった。場所は歩道が片側だけにある、見通しのいい道路だったらしい。

――先生は、幽霊とか信じますか?

 まさか現職の刑事にそんなことを尋ねられるとは思わず、一応は、と答えた。沢岡は少し間を置いて、「今回、ちょっと異様なんです」と抑えた声で言った。


 いやな夢の詰まった浅い眠りのあと、重い足取りで園へ向かった。

 幸絵の死も胸にあったが、それより私を見捨てた園への複雑な思いが占めていた。私が荷物になるのなら、こんなやり方をせずに退職勧告をして欲しかった。集団ヒステリーと幻覚に振り回されている現状が原因でも、薫子の死を防げなかった力不足が原因でも、私はすんなり受け入れていた。

 登園してすぐ、副園長のところへ向かう。任意同行の一件を伝えると副園長は驚き、慌てたように頭を横に振った。

「違うの、そんなつもりで答えたんじゃない。あの人達、なんてことをしてくれたの!」

 警察側は私を任意同行できるように、質問を考えて仕組んでいたのだろう。悲痛な声に、私の予想した意図はなかったことは察せた。

「分かりました。ひとまず今日は、予定通りクリニックへ行ってきます」

 本当はもう、それすらどうでもいいような気さえする。しょーくんが死んで幸絵も死んだのなら、次は私ではないだろうか。殺した二人の次は、救えなかった私だ。

 ちょうどいいだろう。救えなかったくせに、なぜまだ生きているのか。

「岸田先生、園長が呼んでる。クラスは高橋先生に頼むから、教会行ってきて」

 電話を置きつつ指示する副園長に、ぼんやりと揺蕩っていた思考を断って腰を上げる。予想より重くて、少しよろけた。

「大丈夫ですか」

 咄嗟に隣の高橋先生が腕を掴み、支える。心配そうに窺う視線には、貶める意図など微塵も感じられない。皆が皆、問われたことに素直に答えた結果が、昨日の任意同行だったのだろう。

「すみません。あとを、よろしくお願いします」

 今日これからだけでなく、もうずっと託すことになるかもしれない。頭を下げて、教会へ向かった。

 暗いことを考えてしまうのは、生きていれば仕方ない。禁じれば余計苦しくなってしまうだろう。でも建設的なことを考えるには、生み出す気力がいる。生きることすら揺らいでいる今の私では、とても無理だ。

 教会の重いドアをくぐり、一息つく。牧師室へ行くなら左だが、足は誘われるように礼拝堂へ向かった。重厚な木のドアを引き、誰もいない礼拝堂を奥へと進む。花は飾られているが、特別な装飾があるわけではない。限りなく装飾を廃した作りは、禅寺にも似ている気がする。

 掲げられた簡素な十字架を眺め、祈りの形に手を組む。何か、と思ったが何も浮かばない。今は特別救ってくれとも、生かして欲しいとも感じなかった。零れ落ちたのはまるで逆の、「もう無理です」と諦める言葉だった。神など本当に、いるのだろうか。

 ぼんやりと十字架を眺める隣に、影が立つ。

「岸田先生、生まれた時からこっち側だっけ」

「はい。母方がクリスチャンで、私も小学校以外はプロテスタント系です」

 そこまで主流教派で育っていて、就職でなぜ外れたのか。別に何か不満があったわけではない。ただ、なんだろう。大きな道を歩くのに疲れたのかもしれない。母は少なからずショックを受けていたが、それでもやめなさいとは言わなかった。

「じゃあ、『神のいない心』を知らない人だね」

 園長は私を見下ろして笑い、近くの長椅子に腰掛ける。一人分開けられたスペースに、私も腰を下ろした。

「僕も同じだけど、『神のいない心』ってどんな感じだろうと思ったことない? 良いことをしても悪いことをしても、胸に全く神の浮かばない心」

 ああ、と納得して頷く。小学校に入った時、まるで神様の話をしない周囲に「神様を信じてないの?」と聞いたことがある。周囲は茶化すように笑いながら、教師に「岸田さんが変なこと言ってます」と告げ口した。

「僕は祖父と父が牧師って最悪の環境で育ったから、中学で盛大にグレてね。でも父も祖父も典型的な『いつか神の愛が通じる脳』の持ち主で、僕がどれだけグレても放置してた。ただ教会員って、小煩い人が多いでしょ。監視されるあの感じと、自分は大して清くもないくせにこっちには清さを求める窮屈さが、ヘドが出るほど嫌いで」

 私が知っている牧師の一人も娘がかなり反抗していたから、割とよくあることなのかもしれない。聖職者の親を持てば必然的に「聖職者の子」になってしまう。子どもらしい自由が、宗教の善に制限されてしまうのだろう。とはいえ、ここまで言う牧師は初めてだ。

「世の中のありとあらゆることが気に入らなかった。キリスト教なんて特に大嫌いだったから、信仰も神も捨てたつもりだった。でも気を抜くと、ふと心の片隅に神の気配が湧いてしまう。悪いことした時とかね」

「それ、分かります。『親にバレる』じゃなくて、『神様が見てる』『神様に叱られる』って思うんですよね」

「そう。僕は金髪で眉剃って煙草吸って殴り合いながら、『ああ俺地獄行くなあ』って浮かんでた」

 今の見た目からは、まるで想像がつかない荒れ具合だ。膝の上で組まれた滑らかな指先から、視線を上げる。顎は細く尖り、輪郭はまだ緩みがない。引き締まった首筋が、清潔そうなシャツの襟に吸い込まれていた。

「そこからなぜ、牧師になろうと」

「単純だけど、召命しょうめいを受けてね」

 一番縁遠そうな言葉が出てきて、素直に驚く。召命は、いわゆる「神の導き」だ。牧師は大抵、それを受けて道を選ぶらしい。ただ私は、大したことのない日常の出来事に牧師自身が意味を与えただけだろうと信じていなかった。神から全力で距離を置こうとしていた園長が、それを認めたのか。

「召命って、ほんとにあるんですか?」

「僕も作り話だと思ってたんだけどね。僕の場合は、死ねなかったんだよ」

 苦笑交じりの答えに一瞬、固まる。葛藤は、そこまで追い詰められるものだったのか。

「中学三年の頃、僕があまりにグレすぎたせいで遂に祖父が病んでね。牧師を辞めざるを得なくなって辞めたあと、酒を飲んで大暴れして警察の世話になって、そのあと精神科に入院した。それから二十年近く出たり入ったりを繰り返して一昨年、肝臓癌で死んだ」

 ああ、と視線が落ちる。悔いを感じないわけはないだろう。胸のどこかが鈍く痛む。膝の上で組んだ手を、固くした。

「祖父が最初に入院した時、さすがにショックを受けて見た目はひとまず真面目に戻した。牧師の祖父は嫌いだったけど、祖父自身は嫌いじゃなかったからね。でも中身までは変われない。『神のいる心』には、どうしても従えなかった。かといって捨てることもできない。『神のいない心』を知らないから、捨てようがないんだよ。それで高二の時、命もろとも捨てるつもりで滝の上から身投げしたんだ」

 園長は一息ついて長椅子に凭れ、仰ぐように十字架を見る。

「でも、落ちなかったんだよ。目を開けたら、水面まで数センチのところで止まってた。浮いてたんだ。そのあと、ゆっくりと水に入っていった。まるで子どもを初めて水に触れさせる時みたいに」

 驚いて、横顔をじっと凝視する。嘘ではないのだろう。嘘なら、ここにはいないはずだ。

 神は、本当にいるのか。

「信じられなくてもう一回飛び込んだら、今度は普通に落ちたけどね。溺れかけて死ぬかと思った」

 園長は笑いつつ、無謀ぶりを打ち明ける。死ぬつもりで飛び込んだところにもう一度飛び込めば、それは死にかけて当たり前だろう。

「浮いてたことにも驚いたけど、胸に堪えたのはそのあとの、ゆっくり水に入っていった方だった。僕は散々神を嫌って裏切って、悪態もついたし否定し続けた。日常生活も、決して神に褒められるようなものじゃなかった。人もたくさん傷つけたしね。本当に天国と地獄があるなら、間違いなく地獄行きだよ。でもあの時に神の恩寵というか、自分がどれほど神を憎んでもその逆は決してないことが分かったんだ。頭ではなく、感覚で。今もまだうまく言えないけどね。でも、この感覚が消えるまでは死ねないと思った」

「それで、牧師に」

「まあね。あと神学部なら有名どころでも偏差値控えめだし、この教団なら父と祖父の二枚看板ですぐ就職できるんじゃないかと」

 相手を選んで話していると信じたいが、大丈夫だろうか。この教会にも小煩い人は少なくない。今回の園長の強硬策を、やりすぎだと眉を顰めている人達だ。特に教義に忠実な入谷にとっては、苛立ちを隠せないものらしい。

 確か年齢は園長の一つ下、園長のように「神のいない心」を知らない業界のサラブレットではなく、「神のいない心」も知る一般家庭出身だ。園長が主任牧師へ昇格するに当たって赴任してきたが、年が近いこともあって何かと比較されている。

 でも別に、どちらが良くて悪いわけではないだろう。私は、信仰は神と自分の間での個人的な「約束ごと」みたいなものだと思っている。別に牧師がいようがいまいが、関係は変わらない。牧師なんて、とはさすがに失礼かもしれないが、自分に合ったタイプを選べばいいだけだ。

「そのうちでいいから」

 園長は一息ついて腰を上げる。私を見下ろし、少し目を細めた。

「洗礼を受けない理由を、教えてください」

 思いも寄らない言葉を残して、颯爽と帰って行った。

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