第4話

 それっきり女との会話も途絶え、また無言のまま少し歩く。


かれこれ二時間にもなろうかというところで、先頭を歩いていた男が立ち止まった。


 どうやら目的地に到着したらしく、男は先ほど店で受け取った袋を取り出し、そこから包み紙にくるまれた細長いものを手に取った。


 男がその包み紙を丁寧にはがすと、中には翡翠をこれでもかと磨き上げたかのような、限りなく透明に近い深い緑色の液体が入った試験管が入っていた。


 その中身には皆目見当もつかないが、目を奪われるほどに煌めく液体からは、グロテスクな絵画によく似た気味の悪さが漂ってくる。


「あれはいったい何なんだ?」


 女に聞こうと横を向くと、女からは殺気とも或いは恋慕とも分からない、少なくともこれまでの静かで淡々とした様子からは想像もつかないような、奇妙な気配を感じた。


 喉元まで出かかった言葉をそれ以上進ませることができず、女とともにその男がやろうとしている行為をただ黙って見つめることにした。


 男はひとしきりその翡翠色の液体を眺めたあと、これまで顔を隠していた布作面に手をかけ、それをまくり上げた。


 その顔を見て、一瞬声が漏れた。


 男の顔は右半分が薬品で焼けたかのように皮膚が爛れ、右の目が白く変色していまっている。ヒゲをそることにも痛みが伴うのか、ヒゲは伸びっぱなしになっており、残った左側の顔にもシミや青あざが目立つ。幼子が見れば、すぐにでも泣きだしそうな面持ちをしている。


 男はその綺麗とは言えない顔に、長年恋焦がれた女の裸体を目にしたような、恍惚の表情を浮かべている。興奮を隠せないのか、白く浅い息を吐きながら、試験官のなかの液体を凝視している。


 翡翠色の液体で試験管の内側をなぞるようにゆっくりと回転させる。愛撫のようなその行為に本能的な嫌悪感を感じたその時、男はその液体を躊躇なく飲み込んだ。


 飲み込んですぐ、男はうめき声とも喘ぎ声とも分からぬ声を発して、積もった雪へと静かに倒れ込んだ。


 地面に倒れ込みピクリとも動かない男に白い雪が降り積もっていく。


 「は?」


 思わず声がでた。目の前で起きたことに理解が及ばず、ただ愕然とするしかない。時間にして十数秒にも満たないような間の出来事を理解するのに、その数倍の時間がかかった。


 まだ呆然としている旅人の裾を女が二度引っ張り、


「驚きましたか?」


などとほざいた。


「驚くもなにもないだろう!目の前で人が一人死んだんだぞ。お前、このことを知りながら黙っていたな」


「ええ、もちろん知っていましたよ。それを言わなかったのは意地悪でも、ましてやあの人が嫌いだったというわけでもありません」


「では、いったいなにが面白くて黙っていたんだ」


「別に何かが面白いわけではありません。この国ではこのようなことは日常茶飯事ですし、それに……」


 女が次の言葉をつなげようとした時、男が倒れた方向からなにか家鳴りに似た、軋むような破裂するような音が聞こえだした。


「それに、私が貴方とした約束が果たされるのは、これからですから」


 女の言葉で封を切ったかのように、男のいた場所から小さな木が生えてきた。その木は骨を軋ませ、今にもへし折ろうとしているかのような耳障りな音を雪原に融かしながら急激に成長していく。


 やがて木は人間程度の大きさになり、その成長を止めた。


 何が起きているのか理解できないまま、「こちらへ」と言って歩き出す女について木の所へと向かった。


 木は男の表皮に根を生やし、血を吸うかのように脈打っていた。根元にはまだ男の体があったが、木に潰されていてもはやその顔を見ることは出来ない。


 木の葉には光沢があり、濃い紅色の蕾が小さいながらその存在を主張している。やがて蕾が開きはじめるとともに、甘く強い香りが鼻腔を掠めた。小さな毬のような花が塊になって枝先に咲いている。雪のような白色の花は、内側に薄紅の蕾の名残がある。


 男の命を養分に、一本の美しい沈丁花が咲いた。


 汚いものに蓋をするように咲くその花は、先ほどまでの強い香りが嘘のように、もう何の匂いも発しなくなっていた。

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