5.書くことをやめた理由。そして再び

 ある日、岸和田さんから会わせたいヒトがいるから来てと言われ、ノコノコと出版社へ出向いてみた。彼女が編集者としてのアンテナを高くし、出版業界の動向を探っているうちに、何かをつかんだらしいのだ。


 彼女が案内した先は出版社ビル一階にある打合せスペース。僕らは背の高いパーティションに囲まれたブース内に腰をおろした。「会わせたいって、誰に?」と問う僕を、いなすようにして立ち上がり、岸和田さんはブルーのパーティション越しに伸ばした手を振って「ここです」と合図する。


 ブースにやって来たのは顔見知りの中年男性だった。顔は知っていたけれど、知人という意味ではない。このビルの喫煙室でよく出会うおじさんだ。ヒゲ面で小太りの、いつもニコニコしているヒトである。さっそく交換した名刺には『スペクトラム文庫 編集長』と書かれていた。スペクトラムといえば、ライトノベルを出している飛ぶ鳥を落とす勢いの部署ではないか。ほほう、このヒゲの微笑み屋スマイリーさんが編集部をけん引しているのだな。しかし情報誌の編集長もそうだったように、編集長ってみなヒゲ面なのかね、と思う。人間観察モードに入りかけた僕を後目しりめに、岸和田さんが紹介をはじめた。


「この子、小説書くんですよ。そちらのラノベとかどうかなぁと思って」

 おいおい、僕は『子』じぇねぇし。ラノベ書いたことないし。あきれたことに岸和田さんは勝手にストーリー組み立てている。

「へえ、そうなんだ。何か書いてみなよ」


 スマイリー編集長はニコニコしながら、びっくりするほど小さな声でいった。これが彼の地声であることは喫煙室で知っていたけど、正直言って、もう少し反応がほしかったよ、食いついてくるかなと思ったよ。結局、書けたら見せてということになり、その日はお開きになった。その帰り道、「どう書けそう?」と聞いてきた岸和田さんに、「考えてみる」と、僕もびっくりするほど小さな声で答えた。


 正直、その時点で僕は断るほうに傾いていた。長編は公募用にSFものを数作書いたことがあるのみ。しかも、ハードSF志向だったから執筆たたかいに使っていた文体は固く無愛想だった。ライトノベルを読んだことがなかった僕は、どんなテイストで書けばいいのやらまったく見当がつかなかったんだ。おそらくジュブナイルをベースとして対象読者年齢を高めに設定すれば、それらしいものに仕上がるかなと思ったけど、それはあくまで想像。自信がなかったのかもしれない。


 後から思えば、せっかく歴戦の編集者つわもの軍団に原稿を見てもらえる良い機会だったのに、もったいないことをしたものだ。ウラを返せば、僕は岸和田さんという一個人の編集者を、それほど信頼していたともいえる。


 前も書いたと思うけど、岸和田さんの家と僕の家は近く、駅も一つ隣りだ。帰途の電車の中でも、あまり乗り気でない僕の様子に気づいた岸和田さんが、「ウチで飲もう」としきりに誘ってきた。その頃、僕は大学から続いた彼女のA子と別れたばかりだったし、それを岸和田さんも知っていた。このまま肉食女子の家に行くなら先の展開を読むのも、さして難しいことではない。ふと、安部公房の『砂の女』が頭に浮かぶ。ひとまず家に帰るよと告げて、僕は電車を降りた。


 岸和田さんが僕をSFから引き離して、作家として方へ導こうとしていることは感じていた。SFが出版界のメインストリームからはずれつつあることは、僕も肌感覚で理解している。それは書店に行けばわかる。季節が変わるごとに、SFの売り場面積が狭くなっていったから。その替わりに来るのはホラーやライトノベルだろう。当時はまだ兆候でしかなかったけれど、優秀な編集者の岸和田さんはその動向を正しくつかんでいたんだな。


 断る理由はもう一つあった。そのとき僕は会社の幹部候補として、いわゆる出世コースに乗っていた。上司からはっきりそう告げられていたし、「君がどう考え、どう動くかを見てるから」と言われれば、それはもうしか道はないわけだ。目の前にあるチャンスは自分からつかみにいく、人生は一度しかないからね。


 それに小説は、いつでも書けると思った。が明らかに人生の分岐点だったけれど、間違った選択をしたとは思わない。僕は小説家になりたい気持ちと小説を書く努力とを、ひとくるめにジップロックに包み込んで、冷凍庫に押し込めた。


 自宅へ着いた僕は、すぐさま岸和田さんに次号を最後に連載を降りたいことをメールで伝えた。直接彼女に言わなかったのは、その場で消えてしまう言葉で伝えるよりも、後に残る文字で丁寧に、僕の状況と心持ちを説明したかったからだ。


 岸和田さんからは「わかりました」と短い返答があって、それきり会っていない。その後、ショートショートの連載ページがどうなったかも知らない。見本誌が送られて来なくなったから。彼女が結婚して退職したという噂を聞いたのは、それからしばらく経った後だった。年賀状をいただいたこともあったので、それほど僕のことを怒ってはいなかったのかな。ぜひ、そうであってほしい。


 今年の秋、ふと思い出して、数十年ぶりに冷凍庫から霜だらけの物体を取り出してみた。カチカチに凍ったジップロックの中身はあちこちが欠け、発掘された氷漬けマンモスの奥歯のように黒ずみ傷んでいるように見える。僕はレンジに入れて解凍してみた。湯気とともに懐かしい香りが立ち昇る。小説を書きたい気持ちの匂いだ。


 すっかりサビついた感覚に油を注しながら、少しずつ文章を紡いでみる。本を読まなくなって久しいから、言葉がすぐに浮かんでこない。数十年ぶりに読書も再開しよう。もう夜空にかかる月は一つしかないし、時間はたっぷりあるからね。


 そうそう。

 このエッセイ自体が、とある作家のパスティーシュになっているんだけど。

 岸和田さんは、気づいてくれるだろうか。


 終

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担当編集の岸和田さん 柴田 恭太朗 @sofia_2020

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