セイイロ自然公園
『ショド岬の広場中央』、『トライデア・ホテルの東屋』ときて、三箇所目の身代金受け渡し場所は、他の二箇所とは違って海辺から離れた所にある。
ミミサキ市は、その全体が海に突き出す半月のような形状をしているのだが、隣の市との境界はセイイロ山という、北西から南東に伸びる山が引いている。
そのセイイロ山南西側のちょうど中央あたりにある、『セイイロ自然公園』が俺達の次の目的地だ。
俺はこの辺りの地理に疎いので、ノラの案内に従って車を運転し、自然公園の駐車場に車を入れた。
「この、『セイイロ自然公園の大石』が受け渡し場所に指定される場所で、今まで六年目、九年目の計二回指定されています」
「つまり去年はここだった訳だ」
車を降りながら、説明してくれるノラの言葉に頷き、俺は案内されるまま公園の中へ歩みを進める。
トライデア・ホテルもそうだったが、ここも公園の中に車道は敷かれておらず、車で内部まで近づくことができない。逃走を考えれば不便な場所だ。
ふと振り向けば、駐車場からはミミサキ市内が一望できた。道中あまり傾斜があったようには感じなかったが、山に近いため、高台に位置しているようだ。遠くに海が見え、空気も他の場所とは違うような気がする。なんというか、潮よりも緑の香りが強い。
山の方を見上げれば、ゴツゴツとした印象のあるセイイロ山が間近に迫って見えて壮観だ。
市内で海と山のどちらも堪能できるあたり、ミミサキ市が観光業に特化している理由が、改めてよくわかる。
「ユージさん、こちらです」
先に行っていたノラに呼ばれ、俺は歩みを早める。
自然公園の中はその名の通り、自然に溢れている。遊具があったりする訳ではなく、木々が生い茂っていた。風が吹くたびに、ザワザワと葉を擦れ合わす木々の音が心地よい。
一応ビジターが迷わないように、板張りの遊歩道が設置されているが、柵がある訳ではないので、行こうと思えば道なき道を歩くこともできる。自然保護の観点から、推奨される行動ではないだろうが。
緩やかな上りが続く遊歩道は、セイイロ山を軽く上るような形になっている。道中、数名の観光客とすれ違った。
「このまま道を行くと、ハイキングコースに繋がっています」
「セイイロ山の反対側まで超えられるのか?」
「いえ、ここからでは中腹からあまりに急勾配なので、途中まで行って戻ってくるコースです。本格的な登山道は別であります」
しばらく歩くとぽっかりと開けた所に出て、ノラはそちらの方へと歩いていく。
下草に覆われた空間に、巨大な岩が鎮座していた。
「これが大石です」
「すごい、想像していたより、ずっと大きいな……」
「一応、観光名所の一つです。二〇〇〇年も前にセイイロ山から落ちてきたと言われていて、見頃になると観光客も増えるんですが、少し早いので今の時期は静かですね」
岩の高さは、一〇メートルは軽くありそうだ。鯨が海から頭を出してきたような形状をしていて、荒々しい迫力がある。
「見頃?」
岩に見頃があるのかと不思議に思い尋ねると、ノラは、岩の周囲を囲むように生える樹木へ指先を向けた。
「あの岩を支えるように生えているのがシィカスの木なので、三月ごろから真っ白な花が咲き始めるんです。そうすると、シィカスが海の白波、この岩が鯨のように見えるって言って」
「あ、やっぱり鯨に見えるんだな」
先程自分が思ったことが合っていたようで、少し嬉しくなった。
ノラは頷き、さらに岩へと近寄ると、その棚のようになっている場所に触れた。左右にあるシィカスの木がアーチを描いている。
「去年、身代金はここに置いていました」
言われるまま、俺もその周辺を調べる。当然、それはただの一枚岩だ。何か仕掛けがあるわけでもないし、仕掛けられる様子もない。
先程トライデア・ホテルでもしたように周囲を見渡してみるが、辺りは木々に覆われている。隠れられる場所は多いが、逃走に骨が折れるだろう。
「本当に何がある訳でもないんだな」
何かしらの手がかりを求めて来た訳だが、結果得るものは何もなかった。この犯人と事件は、あまりにも異質だということが改めてわかっただけだ。そんなこと、今までの捜査で、すでに痛いほど感じている。
「ショド岬の広場中央にも行きますか?」
ノラが尋ねてきてくれるが、俺はどこか脱力した気分で緩く首を振る。
「そこはどの道、明日行くからな。ダミーの身代金を置く時に、何か仕掛けられていないか、徹底して調べる」
俺の言葉に、ノラは普段ほとんど変わらない表情を顰めた。
「ユージさん、それは許されません」
「何がだ?」
「ダミーの身代金です。今まで、それらはすべて見破られています。お金を渡さなければ、いたずらに被害者の監禁日数が伸びます。優先するべきは、リリさんが一日でも早く帰宅できるようにすることです」
ノラの淡々と諭すような言葉に、俺の中のもやもやとしていた感情が煽られた。
ミミサキ市に到着してから早くも四日。得られた有力な情報は、犯人からかかってきた電話の声の一部が、警察官であるナミのものだった、ということくらい。その原理も理由も不明で、何の手がかりにもなっていない。
他の声についてもサイチが解析を進めてくれているが、警察のデータベースに残る音声データとはどれとも合致しなかった。
連日の聞き込みでも、誰もリリが誘拐された姿は目撃していない。ミオリの証言する時間に、確かに住宅街を抜けていったということがわかっただけだ。
「警察が、みすみす誘拐犯の要求を飲んで身代金を渡すなど、あって良いことではない」
口から漏れた声は低く、言葉には、俺が思っていたよりも凄みがあった。目の前のノラが、少しだけ怯えた表情を浮かべる。
しまった、と内心思ったが、溢れ出した言葉は止められなかった。
「警察は市民の命と生活を守る。その中には、彼らの財産を守るということも含まれている。誘拐されていた被害者が帰ってくればそれで良いなどと、そんなものは怠慢だ。奪われた金は、次なる悪事に使われる。そこでもまた被害者が生まれる。警察が権威を失う。努力もせずに、市民が稼いだ金を脅し取ろうとするような悪党を、見過ごせと言うのなら……俺は、警察というものに失望する」
一五歳の少女に向かって思いの丈をぶちまけながら、俺の脳裏には、昔見た警官の姿が浮かんでいた。
いつでも厳しい表情をして、それでいてとても優しく、正義感に溢れた警察官。彼こそが、俺の理想だ。
母子家庭で、貧しかった俺の家。母は体が弱く、なかなか働きにも行けなかった。日々食いつないでいくだけで精一杯で。
俺はある日……売り物の惣菜に手を伸ばした。そんな俺の窃盗を見咎めた、近所の交番勤務の警官。激しく叱責されたが、彼は自らの財布を出して、俺にその惣菜を与えてくれた。
後日、その警官が家に訪ねてきた。はじめは俺を逮捕しに来たのだと思ったが、彼は母と何かを話し、一枚の書類を渡していた。
その一ヶ月後から、生活が劇的に楽になった。彼がヤマ国の政府に、俺達親子の生活保護を申請してくれたのだ。
ヤマ国のそういった救済手当は、近隣の他国に比べても遅れている。ミミサキ市のように豊かな者はさらに富み、貧しい者はますます貧しくなる社会。あの警官の存在がなければ、俺も母親も飢えて死ぬか、犯罪に手を染めていた。
そちら側に落ちたら、もう自力では元に戻れない。だからこそ、警察がいる。それが警察の、俺の役目のはずなのだ。
知らず知らずのうちに、俺は拳をきつく握りしめていたらしい。
「ユージさん」
ノラの華奢な手が拳に重なって、はっと顔をあげた。ノラの指先は驚くほど冷たい。
「それでも、一日でも早く娘に会いたいという、コン夫妻の気持ちを無下にはできません。だから、身代金の監視を徹底して行いましょう。犯人と最も接近できるはずですから」
少女の大きな瞳が俺を見つめている。ノラの囁くような高めの声は、木々の葉擦れの音に混ざって、心地よく耳に響く。
「……すまない、少しムキになってしまったな」
「いえ、大丈夫ですよ。私も、ユージさんと同じです」
そう言って、ノラは目を細めた。
「ミミサキ市を守るために、刑事をしていますから」
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