第二章

トイ少年

 俺の目の前には、不安そうに眉を下げた少年が座っている。

 歳は九歳。所謂坊ちゃん刈りという、綺麗に揃えられた髪型が、彼の育ちの良さを象徴しているかのようだ。ソファに腰かけている足は、しっかりと床についておらず、プラプラと揺れている。

 隣に座った母親が、護るように彼の背中に腕をまわしている。彼女の瞳は、どこか俺を責めるような色を持って、向けられていた。

「嫌なことを思い出させてしまってすまないけど、三年前、君が誘拐されていた時のことを教えて欲しいんだ。犯人のことを話せるかい?」

 ここはコン家とはまた別の豪華な邸宅。そして少年の名前はマキノ・トイ。三年前の誘拐事件の被害者だ。三年前はノラが刑事になり、誘拐事件を担当し始めた最初の年になる。そのため、トイ少年はノラのことを憶えていた。

 トイは、どこか助けを求めるような眼差しを、俺の横に座っているノラへと向ける。

「憶えていることだけで、構いませんよ」

 彼を安心させるように、落ち着いた響きの声でノラが応える。と、頷いたトイはようやく口を開いた。

「僕を連れて行った人のことは、見ていません。学校に行く途中で、急に目の前が真っ白になって、気がついたら、どこかのお家にいました」

「君が八日間いた家だね、どんなところだったか、憶えているかな?」

 続けた俺の問いかけに、トイは頷く。

「家じゃないことはわかったけど、僕のこのお家に良く似ている感じがしまた。とても綺麗なところで、暖かくて、心地よくて、ずっといたかったくらい」

 そう語る少年の表情は、話を聞き始めた当初よりも柔らかくなっている。当時のことを思い出して嬉しくなってしまった、というような感じだ。とても、誘拐されていた被害者に話を聞いているとは思えない。

「どこか部屋に閉じ込められていたのかな?」

 トイは首を振る。

「僕が目を醒ましたのは、僕の部屋によく似ている感じのお部屋でしたが、家の中、どこでも自由に行けました。家の外だけには出られなかったけど」

「家の広さはどれくらいだった?」

「あんまり広くはなかったです。一階だけで、僕の部屋の他にお部屋が二つと、リビング。あと、トイレとか、お風呂とかがありました」

 平屋でリビングの他に部屋が三部屋あって、広くない訳ないだろ、と内心で突っ込む。次の質問を考えながら視線を上げれば、吹き抜けでもないのにやたら高い天井に、豪奢なシャンデリアが下がっているのが目に入った。こんなところで育っている子供なら仕方ないか。マキノ家は貿易会社を経営しているらしい。

「家に窓はあった?」

 トイは頷く。

「窓からはどんなものが見えたかな? 聞こえた音とかは憶えているかい?」

 質問を続けると、彼は何かを思い出そうとするように、少しだけ表情を曇らせた。

「海が見えました。綺麗でした。音は……気になるようなことは何もありませんでした」

 漠然としているが、ある程度の位置の特定には役立つ。さすがのミミサキ市でも、海が見える所ばかりではない。

「そこでも犯人は見なかった?」

「誰にも会いませんでした」

 少年の瞳が、少しだけ上を見るように動く。

「ご飯はどうしていたの?」

「朝と、昼と、夜、ご飯の時間になると、リビングのテーブルの上に料理が並んでいました。どれも僕の好きなものばかり、すごく美味しくて」

 つまり、犯人は誘拐してきた子供に目撃されないように、監禁している部屋に食事を届け続けていたことになる。何故そんな面倒なことをするのか。

「本当に、犯人は見ていないんだね? 一度も?」

 トイがまた頷く。俺の語調が強くなった問いかけに、少しだけ怯えたような表情を浮かべた。

 そんな息子の感情の機微を察して、隣の母親がいっそう俺を強く睨みつける。何だか誘拐犯より、俺のほうが悪者になっているような気分だ。

「そうか、わかったよ。大丈夫。家に帰れたときは、どんな感じだった?」

 その眼差しが痛くて、俺はメモをとっていた手を、降参を示すように軽く上げて話を進める。

「急にまた目の前が真っ白になって、気がついたら、家の近くにいました。連れて行かれた日、僕がいた場所に。だから、歩いて家まで帰りました」

 トイの話が終わると、俺は鼻から息を吐きながら、ゆっくりと目を閉じた。埒が明かないと思うのと同時に、薄気味悪さを感じる。

 実は過去の誘拐事件の被害者に話を聞くのは、これで三人目だ。

 犯人から身代金受け渡しの指示の電話を受けてから、俺とノラは一度署に帰り、録音した犯人の音声データをサイチに渡した。その後、過去の被害者達の家を順に訪ねている。

 去年の被害者の女の子からはじまり、一昨年の男の子を経て、三年前がこのトイ。皆が皆、使う言葉は違えども似たようなことを証言する。

 誘拐されていた家は自分の家に似ていて、快適だった。犯人は見ていないが、何不自由ない生活をしていた、と。

 去年の被害者の女の子は、「お母さんと会えなかったのが寂しかった」とは言っていたが、皆その語りぶりから、トラウマのようなものを抱えてはいないようだ。怖い思いをしたことは、一度たりともなかったらしい。

 子供がピンピンして帰ってきたからだろう。彼らの親からは、金を取られたことに対する、恨み言や嫌味を言われることもなかった。

 犯人のやり口がスマートなのだと言ってしまえばそれまでだが、あまりにも奇妙だ。皆が皆、自分の家に似たような家に監禁されていたという。ならば、犯人は被害者の家を事前に調査し、わざわざ似たような家を一軒、監禁場所として用意していることになってしまう。

 加えて好みの食事まで提供してくれるというのだから、至れり尽くせりだ。そこまでして、誘拐してきた子供のメンタルケアをする理由は何だ。

「もう、宜しいでしょうか……」

 俺の質問が止まったのを見て、今まで黙って俺たちの会話を聞いていた母親が、言葉を挟んだ。俺は笑顔でそれに応える。

「はい、とても参考になりました。ありがとうございます」

 ノラも丁寧に感謝の言葉を述べ、母親に見送られながら元被害者宅を後にする。すでに太陽は沈み、辺りは暗くなっていた。


 家の庭に駐めていた車に乗り込む。もちろん何も言わずとも、俺が運転席でノラが助手席だ。

「次は四年前の被害者に話を聞きに行きますか?」

 シートベルトを締めながら、ノラが問いかけてくる。彼女の手には、誘拐事件をまとめたファイルがある。そこに、今までの歴代被害者の情報が纏められているのだ。

 俺は運転席の背もたれに体を預けながら、一度小さく溜息を漏らした。

「いや、元被害者への聞き取り捜査はもうやめる。きっと皆同じことしか言わない……被害者たちは、嘘をついている」

「嘘?」

 常に淡々としているノラの声が、少しだけ高くなる。

 俺は車のエンジンをかけながら頷く。

「気がつかなかったか? 犯人を見ていないかと聞くと、皆右上の方に瞳が動くんだ。あれは脳の構造の関係で、嘘をつくときに人間がとりがちな仕草なんだよ」

 指で右上を示し説明をしながら、俺は車を走らせはじめる。

「なるほど……では、被害者に話を聞いたのは、無駄でしたね」

 ノラは助手席に座る時、シートベルトを胸元で握って、ちんまりと座る。そんな彼女が小さな声でそう言うので、俺は前を向いたまま首を振った。

「いや、そんなことはないさ。被害者に会ってみて改めて、彼らの中に恐れや不安がないことがわかった。つまり、脅されて犯人についての証言をしていない訳ではない、ということだ」

「脅されて、とは?」

「例えば、『俺のことを警察に話したら、お前の両親を殺すぞとか』」

「卑劣」

 ノラの端的な返事に、俺は低く笑い声を漏らす。

「だから、そういう脅しをしている訳ではないんだろうな、と。もしそういう脅しがあったら、彼らは怯えるはずなんだ。でも、そんな素振りは微塵もなかった」

 それどころか、監禁されていた時の生活を、懐かしむような気配さえも感じた。

「しかし実際は、彼らは嘘をついてまで、犯人についての証言をしようとしない。つまり、彼らは自らの意思で犯人のことを庇っている。あんなに幼い子どもにそうさせる何かが、犯人にあるということだ」

 一切の痕跡を残さずに、被害者宅に電話をかける高度なハッキング技術。幼い子どもの人心掌握を完璧にやりきる手腕。

 今日だけでも判明した犯人の特異性は、犯人像を形作るのに、きっと役立ってくれるはずだ。

 俺の説明を聞きながら。ノラは何か考え込むように黙っている。しばらく車内には沈黙が落ちたが、ぽつりと「ユージさんって、本当に本庁の刑事なんですね」と呟いた。

「それ、褒めてる?」

「わりと」

 なら良かった、と笑って。車をミミサキ署の駐車場へと滑り込ませる。

「今日の捜査は終わりですか?」

「ああ。明日はリリちゃんが誘拐された日に、通ったはずの通学路を見に行く。何か手がかりが掴めるかも知れない」

 わかりました、と素直に返事をしたノラは、助手席から降りる。俺も車のエンジンを止めて、一緒に車を降りると、彼女は不思議そうな顔をこちらへ向けてきた。

「ユージさんは、ホテルに帰らないんですか?」

 本庁ではあり得なかったことだが、ここミミサキ市での捜査に、拳銃は携帯していない。さらに、貸し出されているこの車は、捜査中はずっと使用することを許可されている。なので、わざわざ帰宅前に刑事課に寄る必要はないのだ。

「サイチに音声の解析を頼んだだろう。進捗を聞きに行く」

「なら、私もご一緒します」

 ノラの返事に頷いて、二人で署の三階へ向かう。ノラからはすっかり、俺への不審感はなくなったようだ。特に何かを言われた訳ではないが、その態度でわかる。

 捜査がやりやすくなって助かるという面もあるが、単純に、信頼を向けられるのは嬉しい。それが、一五歳の少女からのものならば、尚更。

 不意に緩みそうになる頬に手を当てながら、刑事課に到着した。

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