第41話 過去の傷が二筋あるとしたら

「エマはんとつきおうてた間にそのなんやらがあって、アヤは忘れとる、と?」

「ええ。ただし、アヤの記憶が混然としているのは、その期間だけではありませんわ。その前にも実は一時期、あったようですわね?」

「は? ……あ……そういや西苑にいたときの覚えが……あの子は……」

 そうですわ、とマーガレットは目を伏せた。

 リリーも顎に手をあてて考え込んだ。

「中一の終わりに塔の姫さんとなんか、なぁ……」

「中一の終わりと、高一の初夏と。どちらかではなく、両方かも知れませんわ」

「は……?」

 マーガレットは、もう一歩リリーに近付き、もっと声を潜めた。

「アヤは右利きで、ですから左手首に傷が残っていますけど、それが二筋あるの、リリーは気付いていらっしゃいました?」

「あ、ああ……」

「一年前は、わたくし、二度も斬りつけるほど死にたかったのかと思ったものでした…… けれどあのときの傷は、やっぱり一筋だったのかも。もう一筋は、その前からあったとしたら? 中一の末にも自殺未遂をして、それで、誰も知る者のいない東苑に転籍なさったのだとしたら?」

 リリーが息を飲んだ。

――西苑におった綾姫ゆうのがバレますから、エスカドに入らへんかったんどすやろ――

 リリーはああ言ったものだが。

「いや……でも、うちが聞いたとき、アヤはなんで転籍したか自身も知らん、覚えてないゆうた…… あれは嘘やったんか?」

「嘘ではないと思います。アヤもほんとうに知らないのでしょう。だからわたくし考えたんです。東苑への転籍は、アヤ自身をたばかるためのものだったのではありません? 西苑にいたこと、綾姫だったときのことを思い出しにくい状態にしようと、誰も以前のアヤを知らない逆の苑へと転籍させ、唯一の東西合同生徒組織であるエスカドロン・ヴォランへの入隊も禁止した。……つまり、おそらく、ご両親が仕組まれたこと、と」

「あ!!!!!」

 リリーは絶句した。文字通り、言葉を失う。

「だとしたら……アヤの記憶が蘇らないように、それだけの配慮をご両親がなさっているのに、わたくし達は、アヤを西苑の人々に合わせて、ヘルフェリッヒ様とも対峙させて……このまま行ってしまっていいのかと思ってしまって……わたくし」

「マーガレット。なんや、変どす」

 リリーは胸が悪そうに口許を抑えた。

「そうやとしたら、今回のことは、えらい変や!! 転籍やらは、学院と相談しへんとあきまへんやろ? そしたら学院長もグルや……。たぶん、三年前は、アヤの事情を知って、それで例外中の例外の転籍を認めたんや。けど、今回は、アヤが西苑の生徒と会うたり喋ったりするんを、ちぃとも気にしてないふうやないか……? なんで、今回は……?」

 マーガレットもハッとした。

「……確かに、私が学院長でしたら、今回も、アヤを混乱させるのを恐れて、保護するために、学院の危機といえど、東西の交流を回避しようとしたでしょう」

「つーか、東西ごっちゃにして生徒に対決さすなんて方法、学院長権限で、強引に中断かてできたで?」

「……成り行き任せに静観しているということは……。これは、学院長もご両親もエマ様も参画しての出来レース? それとも危うい賭けですの……?」



 背後で障子が開く音がし、ハッと、二人は振り返った。

「エマ様がたの饗応がお済みですって」

 西苑睡蓮組のクラス委員長が、無邪気に笑っていた。

 聞かれなかったようですわね、とホッと目配せしあいながら、マーガレットとリリーは示し合わせていたかのように屈託のない笑顔に切り替わって、

「なんや、いよいよ出番やな!!」

「頑張りましょうね、クラス長様!」



 水屋では、綾がきびきびと立ち働いていた。

 マーガレットとリリーが顔を出そうとすると、ちょうど後ろから、

「おっはよー、まーがれっとちぁん、こまんさばー」

 その声に、打ち水をしようと手桶に水を汲んでいた綾がバッと顔を上げる。

「どこ行ってたの、クラ!! お客様を控え室からご案内する役になっていたでしょう?!」

「うにゃーっ、ごみんなしゃーい。だってねっ、あのねっ!」

 抱えていた小さめのダンボール箱を、三人の上級生によく見えるように差し出すクララ。新聞紙を敷いた上に、前足に包帯を巻いたウサギが一羽。

 マーガレットがしゃらっと笑って、

「あら、うさぎ肉ラパンの料理はお献立になかったはずですけれど?」

「ひっどーい、まーがれっとちゃん、ひっどぉぉぉぉぉぉおーーーーいっ!! このコわねっ、けがしちゃったから、目がはなせなくって、でもマーサちぁんも忙しいから、だかりぁ……」

 涙をたっぷり浮かべた両目。

「まぁ、食べるわけじゃないんですのね?」

「うえーん、ぐすぐすぐす~っ」

「うーん、マーガレットったら、盗聴セットを潰されたショックからはすっかり立ち直ってるご様子ね」

 綾は苦笑して、けれど、クララに言った。できるだけ優しく、

「クララ。遅刻のことは分かったわ。でも、ウサギさんは、いろいろ衛生上の問題もあるからここにはダメよ。返してらっしゃい?」

「ふぃーん、でもねっ、アヤちぁん、いいコなんだよぉ?」

「ダメッたらダメよ。ね、聞き分けて?」

「ううっ……ひくんっ……ぢゃあ、せれーんちゃんにあずけてくるぅぅ……べそべそベそ」

 全員、シンとなった。

「せれーんちゃんて、あんた……」

「えんぷれす・たわーにいるの~。くららん、オトモダチになったの~。庭師さんが、どーぶつさんに、とってもとっても優しいの~ぉ」

「……い、いつのまに……オトモダチやて?!」

 リリーが聞き返す。マーガレットは、綾のこわばった顔を気にしていた。

 クララひとりが、うつむいてウサギの耳を撫でながら、しゅんとした声で、

「あー、でも、せれーんちぁんも審査員さんだからぁ。だめ、かもぉ……。ヒツジさんたちが言ってたもんなぁ……めいりんちゃんが来るから、せれーんちゃん、今日のおりょーりかい、楽しみでー、うれしいしー、ちょっとお忙しさんなんだってぇ~」

 クララのお喋りはときどき四方八方に飛ぶ。しかし、それが今回初めて迷惑でなかった。

「めいりんさん?!」

 マーガレットが叫んで綾を見る。綾も目を見開いて、

「って、メイリンさんッ?!!!」

 クララはにこぉ、と笑い、

「うん。くららんもね~、あの人好きぃ~~」

 有名な親日家の中国人、美食家、エッセイストでもある中国TVの看板レポーター、明琳メイリン

「来日してたなんて!!」

「急に決まったっていってたよぉ? ブタさんたちもー」

 間違いない。幻の一二五人め、グランドメイン審査員は、彼女だ。

「明琳女史には、知る人ぞ知る大好物があるのよ。凄いわ、クラ!! その話、他の人に喋ってないでしょうね? エマ姉様側の人とか!!」

 意気込む綾に、クララは、もごもごと、

「うーん……喋ってないけど……」

「ないけどッ?!」

「マーサちゃんももう、知ってたよ?」

「……はぁっ?!」

 綾達の間に、ぴきーん、と、凍りついた時間が流れた。

 動物好きという共通項をもつクララの友人、牧場暮らしをこよなく愛するマーサ・ウィンド。彼女は、賛成派か反対派かといえば、できれば牧場の生き物の世話をするのに男の子もいたほうが、と、共学賛成の立場をとっていた。

「しまった…… エマ姉様には、とっくに伝わっていたんだわ!!!」


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