第37話 「どうしてオレに、まがいものの恋をしたのか

 綾は、黙り込んだ。

 前庭を通り抜け、木立の影の駐車場の方へ案内する。

 話題を探して黙りこみ続ける綾の耳に、響也が、正面に昇る月を見たまま、つぶやいた。

「理由を聞けたから、もういい、か……。理由といえば、オレもひとつ聞きたい」

「はい?」

「どうしてオレなんかに、まがいものの恋をしたのか?」

「まがいもの!……って……!!」

 綾は息を飲んだ後、あたふたしつつ、胸をちょっと抑えて、言った。

「あの……その、そういうキザなものいいと、そのちょっと横柄な雰囲気と、クールな視線と、背の高さといい、私の理想と申しますか、まるで……。あら!」

 自分の言葉に目を見張って、両手で口を覆った。

「まるで、誰かさんみたいで?」

と、響也の静かな声。

 綾の視界が、急に潤んで歪みだした。

 青白い、大きな月の光に照らされた、花の茂みと樹木の影が落ちる小径。

「ごめんなさい、本当に、まがいものの、恋だった……みたいですわ……」

 胸が苦しい。哀しいわけではないのに、涙が、溢れそうに目尻ににじむ。

 響也がそっぽを向いて、

「へーへー、憧れのあの人ね。覚悟はしてましたよ」

 わざとため息をついてくれるのが、綾にはこの際ありがたかった。

「ごめんなさい……」

 消え入りそうに、言った。それから、おかしくなって、笑ってしまった。

「いい人ですわね、響也様」

 顔を上げ、まっすぐに、響也と視線を結ぶ。

「わたくし、明後日、必ず、エマ姉様に勝ちますわ! 絶対、あなたが学院生にならずに済みますように。それで、どうか、赦してくださいませね……」

 響也は、眼鏡の奥の怜悧な目を、珍しく柔らかく細めて笑った。

「ガンバレよ」

 車にたどり着いて、綾は、休憩していた運転手に、名流・狭間家のご令息のことを頼んだ。

 リアシートに乗り込む響也に、綾は最後に、にっこり笑って、こう言えた。

「お休みなさい。存じ上げない方ですけれど、どうか、彼女さんにも、よろしく」

「ああ」

 響也は、苦笑を返した。



 響也を乗せた自分の御用車が走り去るのをしばし見送ると、綾はパッと踵を返した。

「元気、出ちゃいましたわ」

 ミニリュックをしょい直しつつ、たたたっと、母屋に向かって駆けていく。そちらの車寄せに、父専用の車があり、玄関ホールの控えの間に、父づきの運転手が待機している。

「すみません、夜分遅くに! お父様から許可は頂いてますから、ヘルフェリッヒ様のお宅まで、出していただけません?」

 可愛らしく見える顔の角度と笑顔は自分で知っている。綾はぺらぺらと嘘をついた。

 きちんと仕事着のスーツで待機していた運転手が、帽子と手袋を持って出てくる。せかすように玄関を出ようとする綾。その背中に、声がかかった。

「あ、綾さんっ?」

「お母様!」

「どこへ行かれるの? こんな時間に……それに離れの騒ぎはなぁに?」

 母と思えないほど若々しくて、少女みたいな彼女は、暢気に小首をかしげていた。

「ごめんなさいっ、おこごとは、帰ってからおうかがいしますわ!!」

 綾は運転手の背中をぐいと押し、お願い、と手を合わせて車を出させた。



 再び、ヘルフェリッヒ邸。

 ドーベルマンが数匹、うろついているのが、見えた。

 さっきの一件で警戒したエマが、放させたのだろう。

 綾は、呼吸を静めて、息を吸い込むと、祈るような気持ちで口笛を吹いた。

――ピュー……

 昔、エマと一緒に可愛がった頃のように。

「アン!!」「ワン!!ワワン!!」

 番犬達は、駆けてきて、ハッハッと舌を出し、闇の中で、親しみのこもった目で綾を見上げた。小声で名を呼び、柵ごしに、手をのばして、よしよしと撫でる。

「いい子たちね、忘れないでいてくれたのね?」

 綾はひとしきり三匹の犬達とじゃれると、柵から両手を差し入れ、一頭の首に懐中電灯をくくりつけ、もう一頭に、マグライトを取り付けた。

「行きなさいっ!!」

 次々に、彼らの首を叩く。さっきの綾の口笛を聞きつけて、警備会社の人間達が、よくを廻って馳せってきた。懐中電灯の光。犬達が照らす光線と、交錯する。

「なんだ、誰かいるのかっ?!」

「ワワン!!」「ワン!!」

 綾は、たたっと身を翻して駆け出した。裏木戸の方へ回りこむ。

 彼らが犬達に攪乱されている隙に、木戸を潜って……

 と思ったが、

――ガチンッ!!

 普段は簡単に押し開けられる筈の裏口が、激しくひっかかった。

「チェ、チェーン?!」

 いや、針金だった。綾は、急いでリュックの蓋を開け、ペンチを手探りで出す。

「切れて……は、早くっ!!」

 小声で自分を叱咤しながら、ねじ切ろうとする。両手で扱う、慣れないペンチ。重たいし、手の平に食い込んで、痛い。

――ポンッ

 そこまでだった。肩に置かれた手に、ひっと息を飲む。心臓はひきつれるほど跳ねた。

「何してるんですか!!」

「……さ、沙記っ?!」

 綾は目を見張って見上げた。

 ボブカットになった髪、女の子にしては長身の少女。腰が抜ける。

「ど……どうやってここに?!」

「綾様こそ、なんでわざわざこんなとこに――」

「あなたを助けに来たに決まってるでしょうッ!?」

「シッ」

「――あ、ゴメンナサイ」

 警備員達が、バラバラと走ってきた。

「と、とりあえず逃げましょう綾様、また捕まったら面倒だ」

「え、ええ!」

 ぐいと手を掴んで引っ張り、勢いよく走り出す沙記。

 綾は安堵の涙でもつれそうになる脚で、彼女にくっついて駆け出した。



「お姉様、ありがとう……。でも……今さらですが……本当に、よかったの?」

 裏庭に向いた窓で、裏通りを走り出す二人の少女の姿を遠くに見下ろしながら、アンネは、ガラスに映る室内の姉に、言っていた。

「よい。メニューや食材が知れたところで困るような、なまなかなレシピではないし、しつらいでもないつもりだからな」



「ねえ、一体、どうやって、逃げ出せたの?!」

「えへへ……」

 走り出す車。バイクで併走する沙記。

 綾が聞いたのに、沙記は照れたように笑って、答えなかった。



 式部邸、裏庭。

「はーいっ、ご苦労様でしたーっ」

「恨まないでくださいねー、エスコート服のかたがた~っ」

 華やいだ声が弾け、式部邸の裏口から、げっそりと疲れ切った少年達が開放された。

「恨みようもないはずよねっ?」

「エスカドロン・ヴォランの誰かとデートできるんなら白状してもいい、って言った方もいたくらいですもの」

「えっ、あんた、もしかしてOKしはったん?!」

「ええと……」

「あああっ、この子、自分だけ彼氏作ろうとしてっ!!」

「きゃーっ、いたいいたいいたいっ」

 わいわいと、騒いでいる少女達の一団に、綾はホッとした。

「皆さま、ただいま! 沙記が無事に帰って参りましたわよ!!」

「うわーっ!! お帰りなさい綾様っ、広慈宮様っ!!」

「アヤ!! なんてことを……」

「部屋に内線かけてもいない思うとったら、そんなことしに行ってたんかいっ!!」

 マーガレットとリリーが、咎める目で見る。

「まあまあ、無事だったのですから、大目に見て?」

「まあ……結果オーライやけど……あんまり冷や冷やさせんなや、アヤ……」

「で? そちらも首尾よくいったご様子ね?」

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