第28話:【まひる】相談と報告

 あれから毎日、働かせてくれる洋菓子屋さんを探した。JRに乗り、八玉子、立川、国分寺、小金井。一日ごと、一つの駅の周りを。


 ――空上さんの言う通りだ。私、怠けてた。

 二日目で思い知る。居酒屋さんで働けていることが、言いわけになってた。週に一、二度。知らないお店をちょっと開拓、なんて気持ちで見つかるはずがない。


 五日目、お休みだった真由美も同行してくれた。

 昨日までと同じく午前十時から、吉祥寺駅を中心にお店を探す。スマホで表示されるのはもちろん、自分の目で通りの一つずつ。


 駅から五百メートルくらいの、デザートに力を入れてるというカフェ。そこに辿り着いたのは、もう一時を過ぎたころ。

 店内でケーキを食べる人も、買って帰る人も、五分くらい眺めただけで大勢やって来た。


「行ってみる」

「頑張れ」


 クリーニングした赤いコートで、真由美は外に残った。すうっと滑らかに動く自動ドアを抜け、赤い絨毯を踏んで奥へ。


「あの。店主の方は、今お忙しいでしょうか」

「オーナーでしょうか? ええと――ああ、あそこです。話しかけていただいて構いませんよ」


 レジのお客さんが途切れるのを待ち、対応してた店員さんに話しかけた。順番を譲る私を見て、その人も何となく察したんだろう。何の用か聞かれなかった。


 オーナーさんは、パントリーと背中合わせの席に居た。二人がけのテーブルにノートパソコンを置き、ショーケースにない焼き菓子の載ったお皿を脇へ。


「お忙しいところ、恐れ入ります。お時間、大丈夫でしょうか」

「ん?」


 視界に入るよう近付いたけど、オーナーさんは画面を凝視してた。目の前で声をかけ、ようやく視線だけがこちらに向く。

 瞬間。頭の上からつま先まで、さあっとスキャナにかけられた気がした。


「ええと、何かご用ですか」

「私、春野まひると言います。洋菓子を作れるお店で働きたくて、お邪魔しました」

「ああ。じゃあ、座ってください」


 ウェーブのかかった肩までの髪を、後ろで束ねた男性。四十歳くらいで、白いシャツの折り目がくっきり。

 雇ってほしいのが伝わった途端、間に合ってると言われるのがほとんど。座れと言われて、少しほっとする。


 失礼します。とお尻を落ち着けきる前に、オーナーさんは焼き菓子のお皿を押し出した。


「これ。冷めちゃったけど、まだ手を付けてないから。一つどうですか」

「えっ、いただいていいんですか」

「遠慮なくどうぞ」


 面接のマナーを調べた時、お菓子を勧められたらとは書いてなかった。

 だけどここは食べ物を売るお店で、デザートの人気が高い。試作品を食べさせてもらえるなんて機会、逃しちゃダメだ。


「いただきます」


 グラシン紙に挟まれた一つを取る。よくあるフィナンシェと似た雰囲気。でも三倍くらいに分厚い。

 両手で裂いてみた。いや裂こうとしたら、勝手に剥がれた。手応えなんかないくらい、柔らかい。


 中を見ると、クリームとかはなかった。だけど滴り落ちそうに、シロップがにじみ出る。

 黄色が濃い。マドレーヌの仲間だ。そのまま片方を、口へ放り込む。


「いい匂い――」


 食べたのはスフレケーキだったかなと思うくらい、ふわあっと溶けてなくなった。

 でもその後、強烈な香りが残る。


「何の匂いか、分かりますか?」

「マーガリンです。でも油臭くなくて、ちょっとミルクっぽいのが不思議です。あと、微かに梨も」


 普通はバターを使う。マーガリンを使ったのは、梨を活かしたかったからかな。

 ここまでは分かったけど、チーズケーキみたいな食感はどうやったのか分からない。


「へえ、凄い。最近ね、バターとマーガリンの見分けもつかない人が多くて。それだけ答えられたら上出来だったんです。でもあなたは、僕の田舎の梨ワインの匂いまで感じた」

「えっ。どうもありがとうございます」


 ――今の、審査だったの?

 緊張をほぐすための優しさと思ってた。急に喉が乾いて、ちょうどさっきの店員さんが持ってきてくれたお水を飲む。


「おいしかったですか?」

「凄くおいしいです。田舎の――おばあちゃんが焼いてくれたみたいな? 私、東京なんですけど」


 田舎と聞いて、納屋に作ったオーブンを温めるおばあちゃんが思い浮かんだ。

 そのまま言うとオーナーさんは、キーボードから手を下ろす。


「いいですね。まさにそういうつもりで作りました。梨農家の祖父がピザ窯を作ってくれて、祖母は教科書を見ながらマドレーヌを焼いてくれた。甘い物好きな僕のために」


 微笑んだオーナーさんは、もう一度皿を押し出す。もっと食べなさいということだろうけど、なんだかもったいなくて食べられない。

 手に残った半分を、じっくりと味わう。


「ええと、お名前は何だったか」

「春野まひるです」

「良かったら春野さん、うちの店に雇われませんか」

「えっ?」


 ――今。雇うって言った?

 耳を疑う。経歴も志望動機も聞かれてない。履歴書さえ出してない。


「何か問題が?」

「いえ、これから色々聞かれるのかと思ったので」

「あはは。募集の張り出しもしてない店まで探し回ってるんでしょ。それだけ熱心なら、細かいことは後でいいと思って」


 よく分からないけど、熱意を買ってもらったみたい。なんであれ、もちろん文句なんてなかった。

 返事よりも先に頷き、高揚感で渋滞した喉からようやく声が出かけた時。オーナーさんは「ただし」と付け加える。


「今すぐは、新人さんを迎える余裕がないんです。たぶんまた秋かな、正確な日が分かったら連絡するってことで良ければ」

「秋……」


 一気に膨らんだ胸が、細いため息で萎んでいく。まだ一月の今からだと、感覚的には一年先だ。

 選択肢として、なくはない。それまで居酒屋さんに居させてもらうか、また別のアルバイトを探せばいい。


「ツバを付けるだけで、後でなかったことにってのはしませんよ。心配なら念書を書いてもいいです」


 清潔な感じのするオーナーさんは、真面目そうでもある。

 それだけに、何だか申しわけない気持ちでもあった。今すぐでなくてがっかりしたことや、他にも探さなくちゃと考えてるのが。


「ええと、実はすぐ働けないと困ってて。仰っていただいてるのは凄く嬉しくて――」

「うーん。とりあえず保留で、誰かと相談されますか?」

「あっ、そうさせてください!」


 私はどうしたいのか。どうするのがいいか、気持ちが迷子になった。

 きちんと自分で言わなきゃいけないのを、オーナーさんが先回りして言ってくれる。情けないことにあっさり便乗して、たぶん失笑をもらった。


「ではまた連絡してください」

「お時間、ありがとうございました。あっ、食事をさせていただいてもいいですか?」

「もちろん。歓迎ですよ」


 オーナーさんは軽く手を上げると、再びパソコンに向かった。

 一応は履歴書を置いていくことにしたけど、もう私の存在を忘れたように見える。


 店を出て、真由美を呼ぶ。今度は普通のお客さんとして、窓ぎわの席に座った。注文を聞いてくれたのは、さっきとは別の店員さん。私と同い年くらいだ。

 あったことを全て、真由美に話す。すると彼女も、「うーん」と考え込む。


「難しいね。念書までもらったら、あんたもやめますって言いにくいでしょ」

「そうだよね」

「でもまあ二、三日くらいはいいんじゃない? もうちょい探してみて、その手応えでまた考えるとか」


 一つ見つかったんだから、探せば他にも見つかる。という気持ちが、迷う理由の中にあった。

 でもキープしておく、みたいなのは失礼じゃないか。という部分に、真由美が答えを示してくれた。


「そうだね、そうしてみる」

「何なら空上さんに相談するのもいいし」

「どうして?」


 ホットコーヒーのもったりとした湯気を吸い込みながら、彼女は意外な人の名前を出した。

 決断させてくれたのは空上さんだけど、どんなお店がいいかまで彼に分かるはずがない。


「どうしてって。じゃあたとえばこのカフェに決めるってなっても、空上さんに聞かないの?」

「言うと思うよ。採用してもらった後」


 まだ私は自分の紅茶に口をつけてない。あと三十秒くらいだ。

 構わずコーヒーを飲む真由美は「んー」と気に入らない風に唸る。


「ダメなの?」

「ダメじゃないよ。あんたの中では百パーセント決まってていい。でも確定させる前に、決めようと思うって言うのがいいんじゃないかな」


 相談でさえなく、報告。そうする意味が、私には分からない。


「私の気付かないような問題を、空上さんが気付いてくれるかも?」

「それもある。けど、メインじゃない」

「うーん、分かんない」


 もしかして、なぞなぞなの? と頭を抱えた。するとそのうち、トーストサンドがやって来た。

 ハムとトマトと、とろけたチーズ。大きく切り分けた一つに、真由美はかじりつく。


「あんたの気持ちだよ。終わった後で『いいとこ見つけたね』って言われるのと、これからって時に『いい選択と思う』って言われるのと。どっちがいいかってだけ」

「賛成は前提なんだ」

「でないと働くの嫌でしょ」


 ひと口目がまだあるのに、真由美はふた口目を口の中へ。ばりばり音がするのと、香ばしい匂い。


 彼女の言い分は、どちらかが正解ってことじゃなかった。

 決断をただ褒められるだけと、共感してもらって決断するのと。私なら後者がいいでしょと決めつけてる。


 正解なのがちょっと悔しい。答えるのを遅らすために、私もトーストサンドを頬張った。


「へえ、そんなのまで教えてもらえるの?」

「そうなんです。今習ってる先生が、自由が丘とかでお店を持ってて――」


 パントリーから、店員さん同士の声が聞こえる。さっきの若い店員さんは、まだ学校に通ってるようだ。


 *


 次の日も吉祥寺を探してみた。その次の日も。だけど見つからなくて、八日目は多麻センター駅に行ってみた。西東京では大きな駅と思って。


 しかし、やはり見つからない。皆無ではなかったけど、実は大きなグループ店の一つというのが多い。

 そのお店だけのオリジナルメニューを作るのは難しいみたいで、どうなんだろうと感じた。


 私の思い通りにさせて、なんて我がままは言わない。でもいつまでもマニュアル通りの物を作り続けるのは、工場で働くのと何が違うのかって。


 ――もうお返事しなきゃ。

 真由美の言った手応えは、なかった。吉祥寺のカフェに行ってから、三日目が終わる。

 選択肢が一つと思うと、逆にそれでいいのか迷ってしまう。


 ――空上さんに言うのは、決めてしまってから?

 調子のいいこと言ったなあって、スマホに反射する自分の顔が恥ずかしい。


【春野まひる】いつも困った時に、すみません。洋菓子屋さんのことで、相談に乗ってもらえませんか?


 彼に言えば、何か教えてくれる。私ははっきり、そう考えてメッセージを送った。

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