第19話:【晴男】なあ、頃合いだろ

 まひるちゃんたちがゴミを捨てに行って、十分が経った。何でもない時ならともかく、遅い気がした。


「だから春野ちゃんは、自分の本当に働きたいとこ見つけないと――」

「あの、すみません。ゴミってどこに捨てるんです? 遅くないですか」


 相手をしてくれる店長の奥さんに、スマホの時刻表示を見せた。午前零時六分。日を跨ぎ、年が変わっている。


「えー、真由美ちゃんとおしゃべりでもしてんじゃない?」

「それならいいんですけど」


 言う通り、二人とも大人だし、まだ心配するほどの時間じゃない。しかしどうも、店の入り口から目が離せなかった。


「ん、なんかあるの?」

「ええと、俺から勝手にはちょっと……」


 勝手に言えないと言うなら、何も言わず「ちょっと見てくる」くらいで出ていけばいい。こういうのが俺の意気地のなさで、卑怯なところだ。


「よく分かんないけど、見に行ってみよか」


 そう言ってもらえてやっと、俺も椅子を立つ。

 奥さんが先を歩き、入り口の引き戸へ手をかけた。その時、俺のスマホに着信音が鳴る。


「真由美ちゃんから電話が」

「早く出て」


 それはもちろんだ。通話ボタンを押しながらも耳に当て、「もしもし」と。


「助けて! まひるが変な奴に!」

「助けてって、どこ!」

「あたしはゴミ箱のとこ、まひるは分かんない!」


 必死に叫ぶ真由美ちゃんの声は、とても冗談と思えない。奥さんは引き戸を蹴り飛ばして開け、エレベーターの下りボタンを押した。

 俺も後ろへ続いたが、その背中を誰かが走り抜けた。見れば黒いTシャツから伸びる太い腕が勢いよく、目の前の空気を殴りつける。


 店長だ、行く先には階段が見えた。一つ下るくらいそのほうが早いに決まってる、俺もすぐ追いかけた。

 下りきった脇の鉄扉に、店長は向かう。小さなツマミを回すと扉が開き、真由美ちゃんが飛び出した。


「春野さんは⁉」

「分かんない。連れてかれちゃったのかな」


 店長に受け止められ、真由美ちゃんは辺りを見回す。俺も倣うが、誰の姿もない。階段から奥さんや、他の客が駆け下りて来るだけだ。


「誰か、上の階見て」


 真由美ちゃんを奥さんに預け、店長はそう言った。

 その可能性もたしかに。が、彼自身は外の通りに出た。素早く左右を見回し、バスの通る大通りのほうへ走る。


 さっきまで飲んだくれてた姿は、何だったのか。階段を下りただけでも、俺はちょっと息を荒くしてるのに。

 しかしまひるちゃんを見つけないと、そんなことも言ってられない。店長とは反対の駅方向へ走った。


「春野さん!」


 幸い、と言っていいのか。まひるちゃんの姿がすぐに見えた。居酒屋のビルから、五十メートルも離れてない。

 怪我はなさそうだし、見つかったのはいいに決まってる。ただ、彼女は一人でなかった。


 深夜には度を越してまぶしい、コンビニの外。煌々と照らされる地面に、まひるちゃんは座ってた。

 正確にはたぶん、腰を抜かして立てないんだろう。へたり込んで、がっくりと首を落としてる。


 すぐ隣に、腕組みで仁王立ちの男が居る。ニット帽も手袋もしていない。

 俺の知るその男は、いつも機嫌を悪くしていた。今も同じく、怒りの視線でまひるちゃんを見下ろす。


「し、品下くん――」


 全力疾走はいつ以来か。息が切れ、ちょっとめまいもする。品下と名を呼んだ後、しばらく「はあはあ」としか声を出せなかった。


「なんだお前。まだまひるの傍をうろちょろしてんのか」

「はあ、はあ。いや、今。はあ、はあ」


 会話にならない俺に、品下陵は舌打ちで答える。


「なあ、まひる。俺が居なかったら、どうなってたんだよ」


 彼女が悪事をしでかしたように、品下陵の声が責める。当のまひるちゃんは、まばたきも忘れ、じっと地面を見つめるだけだが。


「空上さん!」

「はあ、はあ、はあ。ま、真由美ちゃん」


 真由美ちゃんと奥さん。それに客で居た男性陣が数人、追いついた。俺の呼吸は、まだまだ回復しない。


「まひる! 良かった、まひる!」


 真由美ちゃんはひざまずき、まひるちゃんに抱きつく。奥さんは俺の背をさすってくれて、辺りにぐるっと視線を舐めさせた。


「空上さんが見つけてくれたの?」

「いや、なんて言うか。はあ、はあ」

「真由美さん。見て分かるだろ」


 視界にあるはずなのに、居ないように言われたのが腹立たしいらしい。品下陵は地面を踏みつけ、「俺だよ」と唸る。


 *


 十数分後、全員が居酒屋に戻った。真ん中のテーブルに品下陵が、まひるちゃんは真由美ちゃんと一緒に隅のテーブルへ。


「知らねえ男に手を引かれて、まひるがホイホイ着いていってた。そいつは誰だって聞いても、まひるは首を振るだけだった。おかしいと思ったから、俺は助けた」


 少しずつ言葉を変えながら、ほぼ同じ説明は三度目だ。これの何がおかしい、文句あるのかと品下陵は憤る。


「その男はどこへ?」

「逃げてったよ。駅向こうへ」

「こんな時間に、偶然見つけたって。どうもよく分からないんだが」


 品下陵の対面には、店長が座った。この居酒屋の主だし、まひるちゃんの雇用者だ、当然ではある。


「だからそれは、まひるとケンカしてたから。謝ろうと思ってだよ」

「あのコンビニで待ってれば、春野さんが通る?」

「そう言ってるだろ」


 相変わらず、社会人と思えない口調。それでも謝るという辺りで恥ずかしそうに視線を背け、声量を少し落とした。

 どこを向いても、めいめい座った位置から睨みつける、常連客の顔しか見えないと思うけど。


「君の話は、筋が通ってるよ。通り過ぎるくらい」

「過ぎるってなんだよ、疑ってんのか。本当のことなら、筋なんか通って当たり前だろ」


 まひるちゃんをコンビニ前まで引っ張っていったのは、おそらく品下陵とは別人だ。それは服装が違うと、最初に真由美ちゃんが言った。


 しかし誰もが、そんなバカなと疑ってる。つまり品下陵とニット帽の男は仲間で、芝居をしてるだけだろうと。


「分かった。それなら通報したほうがいいだろうね、コンビニの防犯カメラとかを見れば映ってるだろうし」

「すればいいだろ、まひるがそれでいいんなら」


 警察に知らせると店長が言っても、この男は動じなかった。しかもまひるちゃんを気遣うようなセリフまで吐く。


「春野さんがって、どういう意味だい?」

「ニットの奴は逃げた。何してんだって俺が聞いただけで。だから悪い奴と俺も思ってる。でもまひるは、黙って手を引かれてた。知り合いなら、まずいのかもなって思うだけだよ」


 そんなことがあり得るか。少なくとも、俺はそう思う。

 だがやはり、嘘を吐くなと言いきれないだけの筋は通ってる。真実を知ってるのは、まひるちゃんしか居ない。だが彼女はまだ、真由美ちゃんに肩を抱かれて震え続けた。


「うーん……」


 ひと言答えてもらえれば、話は簡単だ。店長をはじめ、多くの目がまひるちゃんに向く。


「ええ? 何これ」


 集まる視線に気づき、真由美ちゃんが首だけを振り向く。一人ずつを睨み返し、ため息を吐いた。


「あのねえ。たとえばあんたがあたしを引っ張ったら、着いていくしかないの。床に転がったって、引き摺られるだけだもん」

「そうかもしれねえけど、声くらい出すだろ」

「あんたそれ、まひるの性格知ってて言ってるよね」


 品下陵とニット帽の男は、似たような背格好だ。真由美ちゃんより格段に小柄なまひるちゃんが抵抗しても、怪我のもとなのは間違いない。

 自分の都合と誰かへの迷惑と、彼女が天秤をどちらへ傾けるかも。


「いやさっきから、なんで俺が責められてるんだ? 普通はそうって話をしただけだろ」

「普通の話なんかしてない。今はまひるが、あんたとグルの誰かに誘拐されそうになった話してんの」

「はあぁ?」


 芝居としたら一級品だ。品下陵の、心外の意味を含んだ威嚇の声は。

 それでも真由美ちゃんは圧倒されず、何か言葉を続けようとした。しかしまひるちゃんが何か言ったのか、「ん?」と彼女を抱き寄せる。


 当事者の言葉があるだろうか。きっと同じ期待で、全員が沈黙した。

 でもしばらく待っても、真由美ちゃんはこちらを向かない。やがて「ふうっ」と、店長の奥さんがカウンター内の電話を取った。


「やっぱり通報しとこか」


 受話器に触れて言ったのは、了承を得る手続きだ。返事のできないまひるちゃんはともかく、店の主にくらいは。

 店長が頷くと、奥さんは受話器を持ち上げる。


「あの、待ってください」


 という声で、奥さんは動きを止めた。

 言ったのは俺。もちろんニット帽の男や、品下陵を庇うつもりはさらさらなく。


「やっぱり、春野さんが判断できるようになるまで待ちませんか」


 これはまひるちゃん個人の問題で、俺の口出しすることじゃない。それはここが彼女の勤める場所で、責任者が居る。

 たぶんここまで黙ってたのは、そんなことを考えていたからだ。


 だけど、本当に品下陵が計画したことなら。彼女は通報を望まないと思った。

 どうするのが正解、とかでなく。まひるちゃんが望むようにしてあげたいと思った。


 だから俺は、離れて座ってたカウンター席から降りる。

 小さく三歩。ほんの僅かな距離を歩き、空いていた品下陵の隣の椅子へ座る。


「なあ品下くん、そろそろ聞き分けないか」


 真横に向いて告げると、迷っていた奥さんの手が受話器を下ろした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る