第2話:【まひる】幸せな私

 たぶん私は幸せ者だ。

 新宿駅のタカイレコード前に午前十一時。待ち合わせまであと二十分の空を見ると、どよどよ薄暗かった。

 しばらく曇り続きだったのが、今日こそ雨になると天気予報でも言っていた。なのに、まだまだ降りそうにない。


 今日のために、週末買ったピンクのふわふわニット。一緒に行ったお友だちは「あざとい」と笑った。意味はなんとなく分かる。でもそういうのじゃなく、私は本当に可愛い物が好き。

 ほら、元から持ってたネイビーのスカートとぴったりだし。


 お店のガラスに、自分を映す。水色のコートとオレンジの傘も、きっとおかしくない。

 大好きなニッフィーのネックレス。後ろで緩く分けた、色の薄い私の髪を留めるちっちゃなリボンのゴム。


 ――二十歳には子どもっぽいかな。

 私と同じ格好の、あと五ミリで百五十センチの女子に聞いてみた。でもその子も、首を横に振ってくれる。

 だって今日は、彼の地元へ行くと聞いた。付き合ってまだ二ヶ月なのに、幼なじみに紹介したいって。こんな私でいいと思ってくれてるってこと。


 ご飯を食べたり、移動して一緒に遊んだりするらしい。だから足には、お気に入りのスニーカー。まだ雨の日に使ったことはないけど、やっぱり一番いいのを履かなくちゃ。

 お店から漏れる音楽を聴いて、わくわくと幸せな時間が過ぎていく。


 ――十分過ぎたなぁ……。

 ぐるぐる辺りを見回しても、彼の姿は見えない。スマホでRINEを開いてみても、品下しなしたりょうのアイコンにNEWマークはない。

 まあ五分や十分くらい、誰だって遅れることはあるよ。


 それからまた二十分が過ぎて、待ちきれなくなった。遅くなるのは構わない。でも急病とかならどうしよう。

 そう思うと、連絡せずにいられない。急かしたらごめんねと思いながら、メッセージを送る。


春野はるのまひる】なにかあったかなって心配になりました。私は着いて待ってるので、焦らないでね。


 これできっと、大丈夫なら返事がある。

 でも結局、十二時を過ぎても連絡はなかった。というのは、彼と会えたから。目の前の道路に、赤い車が止まった。クラクションが鳴って、見ると彼の顔が覗く。


「あっ、陵さん!」


 てっきり電車で来ると思ってた。無事で来てくれたんだから、そんなことはいいけど。

 駆け寄ると、ドアの鍵の開く音がした。


「早く乗れって」

「う、うん。お邪魔するね」


 乗り込むとすぐに、勢い良くぐうんとスピードが上がっていく。座席に押し付けられる感覚の落ち着いたところで、横顔を盗み見た。


 厚手のトレーナーに、見慣れたデニム。いつもの陵さんが、まっすぐ前を向いている。

 ――良かった。怪我、ないみたい。


「遅れて悪い。高速乗るの間違えた」

「ううん。そっか、大変だったね。私RINEしちゃって、焦らせてごめんね」

「ええ?」 


 機嫌良さげだった声が、ちょっと沈んだ。ホルダーに立っていたスマホを取り、ハンドル片手に操作する。


「ああ、運転してて見れなかった。待たせて悪かったな」

「ううん、私は大丈夫。陵さんが事故でも遭ってないか心配だっただけ。本当にごめんね」


 すぐに「いいって」と笑ってくれた。他にもメッセージがあったのか操作を続け、その間も車はすいすいと道路を縫って進む。


 *


 陵さんは自動車が好きらしい。初めて乗せてもらうこの車も、彼の住む埼玉県の草茄そうか市なら特に必要ないはず。

 でも自動車メーカーのホソタに勤めていて、持たないわけにいかないと笑った。


「ていうのは言いわけで、欲しかっただけなんだけどさ」

「ううん、好きな物があるのはいいと思う。他のこともきちんとして、車まで持てるのは凄いよ」


 私は居酒屋さんでアルバイトの身。春までは製菓学校に通っていたけど、それも終わって出勤を増やした。

 本当は洋菓子屋さんで働きたいのに、なかなか見つからない。家賃と食費と奨学金の返済で、毎月ほとんどなくなってしまう。


 私は二十歳。陵さんは二十五歳。五つ違うだけなのに、凄いなと思う。

 今度は幼なじみの話を始めた。いつも自分のことを話してくれて、彼と居ると退屈する暇がない。


 それでいてお仕事のことは「休みの日にまで勘弁しろよ」と話したがらなかった。きっとフリーターの私に、気を遣ってくれている。

 優しい気持ちに心の中で、ありがとうと繰り返した。


 それから三十分くらい。暖かい車の中で、ごそごそとコートを脱いだ時、違和感に気付いた。高速道路の案内に、神奈川県の地名が見える。

 方向オンチの私にも、埼玉と神奈川が反対なのは分かった。


「あれ、陵さん。どこ行くの?」

「おいおい、もう忘れたのか。地元の連れに会わせるって言ったろ」

「うん、でも草茄ってこっち?」


 私を横目で見ていた眉間に皺が寄る。なにを言ってるのかさっぱり分からない、そういう顔だ。


「あっ、行けるのね。私、道路のこと全然知らないのに、変なこと言ってごめんなさい」


 家に帰る道を間違えるなんて。よく考えると、とても失礼なことを言った。

 間違えたら謝る。それが春野家の、正確にはお母さんとの約束。


「いや草茄じゃなくて、名古野なごやだけど」

「え。名古野って、愛知県の?」

「他にないだろ」


 他にない。うん、それはそう。だけど陵さんの家は草茄のはず。


「えっ、ええ? えっと、あの。陵さんの地元って草茄よね。実家に住んでるって」

「いや、住んでるのは爺ちゃんの家。大学受ける時に父さんの実家だったら家賃要らないって、そのまま」


 私が何に驚いているか、彼にも伝わったらしい。「あっ」とひと声あって、長いため息が吐かれた。


「……いや俺、名古野って言ったことあるでしょ。今日の話する時も、名古野の連れって何回も言ったはず」


 陵さんの声がイライラ、トゲトゲしくなった。ごめんなさい、嫌な気持ちにさせて。

 出身地を聞いたこと、あったかな。大学に入る前の話は何度も聞いた。でも名古野という地名に覚えがない。

 彼がこうまで言うんだから、私が聞き流してしまったんだろうけど。


「ご、ごめんね、うっかりしてたみたい。うん名古野ね、覚えた」

「頼むわ」


 ふうっ、と呆れたような息。良かった、それだけで表情を戻してくれた。

 ただ、気になることがもう一つ。


「あの、陵さん。もう一個いい?」

「今度はなに」

「あのね。名古野まで、時間どれくらいかかるかな。行くのはいいんだけど、帰ってこれるかな」


 ああ、やっぱり。笑おうとしてたのが、真顔になった。でも聞かないわけにいかなくて、答えを待つ。

 すると陵さんは私をちらっと見て、何か少し考えてから言った。


「四時間かからないけど。なに、明日用事あるの」

「うん。夕方だけど、お仕事行かなきゃ」


 そうか、そもそも日帰りのつもりじゃなかったんだ。だから私が明日もお休みにしていないのを呆れてる。


「じゃあ明日の朝、新幹線で余裕だな」

「え、陵さんは?」

「俺は日曜まで実家に泊まる予定だし。まひるもそれでいいだろ」


 ――えっ、待って。色々待って。

 新幹線でってことは、陵さんは送ってくれない。日曜日まで居るつもりなら、当たり前だろうけど。

 実家に泊まる予定で、私もいいだろって。それはご両親に会えってこと? 心の準備も見た目の準備もしてないのに?


 新幹線は、いくらかかるんだろう。一万円くらいかな。痛いけど、それくらいならなんとか。

 でもご両親に会うのは無理だよ。会いたくないわけじゃなくて。陵さんがそこまで覚悟してくれてるのは嬉しいけど。


「ええと、うん。じゃあ明日先に帰らせてもらうね、ごめんね。あとご実家は緊張するから、泊まるとこ探すね」

「うん、まひるのいいようにして」


 ちょっと無理した笑い。日曜日まで一緒に居たかったのかな。ご両親に紹介したかったのかな。

 私の都合に合わせて、呑み込んでくれた。


 どうしよう。

 シフトを替えられるか、聞く? それともどうにか準備して、ご実家に行く?

 どちらも私には簡単じゃなくて、すぐに決められない。あと四時間、着くまでに考えようと思う。

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