第1輪② 

 目が覚めると美味しそうな香りが鼻腔をくすぐってきた。そのせいか腹に違和感を覚える。教室の喧騒も相まって、意識がだんだんと浮上していく。顔を上げると、前の席に座っている奴がスマホを弄りながらジャムパンを食べていた。

「はよー。よく眠れたか」

「うーん、まぁまぁ。この机、寝心地悪い」

「枕でも持って来ればよかったな」

「明日から持ってくる。もう昼?」

「そだよ」

 閉じようとする瞼を擦って大きい欠伸をする。腕を上に伸ばすと、少々肩こりが楽になった気がした。

 ダルい。学校が始まった途端毎日これだ。眠気と戦いながら学校に行き、授業中に寝る。仮眠のつもりが、気がつくと昼休みになっている。

 教師陣もそんな僕の姿に呆れ果てて、無視をする者も入れば、懸命に起こそうとする者もいる。どちらにせよいい気分にはならないし、この状況が自分でもまずいことは自覚している。しかし、人間は眠気には抗えない。ツボやマッサージは気休めにすぎない。そんなことをしている間にどうせ瞼は落ち始めるのだから。

 美味しい匂いに釣られてお腹が空いたので、鞄を開いて弁当を取り出そうとしたが、弁当箱が入っていなかった。忘れ物の正体はお前だったか。空腹が際立って萎えたので、とりあえずトイレに行く。そのついでにまた保健室で世話になろう。席を立ったときに目の前の奴も察したのか「行ってら」と言ってくれた。

 この時間はどこの教室も煩い。この季節は校舎の外も煩い。世界のすべてが煩い。

 オアシスを求めて軽くなった湿気が漂うトイレで用を足して、本当の用を済ませにいつものように保健室へ行く。いい加減お腹が空いているので購買で何か買おうと思ったが、今は手ぶらで財布はカバンの中なので、保険室の先生になにか強請ろうと思った。

 夏休みが終わってからそいつとは仲良くなった。

 扉を開ける音がその合図。保健室の主は音に釣られて、待っていましたという顔で手招きした。

「いらっしゃい。ベット空いてるよ」

 主の視線を辿っていつもと違うことに気がついた。この保健室にはカーテンで仕切られた状態でベッドが三つ並んでいる。いつ来ても誰もいないので、カーテンは全部開きっぱなしになっているのに、今日は一つだけカーテンが閉じている。その珍しさに少し眠気が軽くなって、主の昼食の匂いに空腹が重くなった。

「体調不良?」

「君と同じだよ。あの子も寝不足……不眠症」

 不眠症。それが僕の眠れない原因。

 長期休暇に入ると大体の若者は決まって夜ふかしをする。長期休暇じゃなくても夜ふかしをする奴はいるが、僕は真面目な生徒なので長期休暇にしか夜ふかしをしない。

 夜ふかしをすることに深い理由なんてない。けれど、夜ふかしは僕を夜の虜にした。誰もが寝静まったときに感じる世界から切り離されたような孤独と自由。ありとあらゆる柵から解き放たれて、自分の心に素直になれる時間。流れ星の音も聞こえてきそうなほど静謐とした美しい世界。その心地よさに酔いしれてしまって、僕の夜への恋心は太陽の下でも燃え上がっている。

 明けない夜はない、と誰かが言った。朝が来なければいいのに、と僕は願った。

 そんな風にして、僕を虜にした夜はそれと引き換えに眠りを攫っていった。夏休みが終わるまでの有効期限があっさり破られてしまった。

 保険室の中はエアコンが効いているとはいえ、夏の暑さに少し眩暈がする程度には身体が夏を吸い込んでいた。本当は寝不足による貧血なのかもしれないけれど。お腹が鳴って我に帰った。

「お腹空いてるの?駄目だよ。寝不足でもちゃんとご飯は食べなきゃ」

「お弁当忘れちゃって……」

「あらら」

 事情だけを聞いて保険室の主は自作弁当を食べ進める。その様子を見ると突然居たたまれなくなって、空腹を我慢してベッドへ潜ろうと思った。

「本当は欲しいんだろ」

 主が卵焼きを僕に見せつける。その艶やかでふっくらとした黄色いものは、冷めてはいるがそれでも僕の食欲をそそるには十分だった。生暖かい唾液に口内が湿気る。主はその反応を察して悪巧みをするように言った。

「君に紹介したいことがあるんだ。今の君にはとてもぴったりなものさ。けれど、君には少々難しいようにも思える」

 箸に挟んだ卵焼きを定位置に置く。ぴったりなのに難しいとはなんなのか、わからなくて首を傾げる。

「入ってくれたら嬉しい。強制はしない。もし入ってくれたら、親愛の証としてこの卵焼きをあげよう」

 空腹時を狙ってこちらの望みを叶えさせようとする作戦か。命乞いを聞きたいがために刃物を向ける行為だ。

 しかし、疑う気にはなれなかった。それは寝不足や空腹のせいじゃなくて、僕の好奇心のせいかもしれない。

「……話を聞かせてください」

 そう言うと主は傍らの丸椅子を僕の目の前に出して、目線で座るように促した。弁当箱を机に置いて、足を組み直して話始めた。

「夜行生物部って知っているかい?」

「夜行生物部?」

 聞き慣れない言葉をリピートする。

「俺が顧問を担当している学校非公認の部活動さ。活動時間は夜。部員は俺を含めて四人。君が入ってくれたら五人になって、正式に部として扱われる」

 主は水筒を開けて一口飲む。その動作にこちらも喉の渇きを覚えた。

「たしか、君は帰宅部だよね?自力で眠れるようになるまでの期間でいい。是非、君に夜行生物部に入って欲しいんだ」

「……」

 何を言っているのかわからず、黙り込む。そして、湧き水のように次から次へと、疑問が溢れ出た。学校非公認なのに部活動として活動していること。活動時間が夜であること。顧問が同時に部員をやっていること。そして、眠れるようになるまでの期間とは。とにかく、色々な疑問が湧いて出てきた。

 回らない頭をぐるぐるさせて、思考の海に漂った。その様子を黙って見ていた主が、漂流者に浮き輪を投げるように慌てて言った。

「ああ、ごめん。まずは夜行生物部についての説明だね。さっきも言ったけど、夜行生物部は夜に活動をしている部活動のこと。君みたいな不眠症や昼夜逆転の生活をしている生徒や不登校気味の生徒を集めて色々やるカルト部活動だよ」

「カルト部活動?」

 何やら怪しい言葉と部員のイメージで相当ヤバい共同体に勧誘されていることがわかった。

「カルト部活動って言うのは比喩みたいなものだよ。実際に見てもらった方がわかると思うから、最初は見学に来ればいい」

 どうやら、やばそうな共同体に勧誘されているらしい。僕は戸惑って、慄いて、それでも少し興味があった。

「活動場所は校内の第二理科室。集合時間は午前一時。他に聞きたいことは?」

「えっと、夜行生物部っていうのはわかったんですけど、色々って例えば何をやるんですか?部員も不眠症とか不登校とか本当に怪しい宗教の勧誘みたいですし……」

 今持っている疑問を叩きつけると、主はそんなことかと書かれた顔で言った。

「夜行生物部が怪しい宗教団体かどうかは君の目で確かめて欲しいとして、主な活動内容だけどそうだなぁ」

 主は目を閉じて考えだした。本当のことを伝えようとしているのか、甘い言葉で惑わそうと企んでいるのか、その沈黙が考えさせた。それと同時に僕は、自分が随分用心深い性格なのだと思った。

「ドーナツの穴の存在証明をする。かな」

「……は?」

 寝不足で耳がおかしくなったのかと思ってリピートして確認した。

「ドーナツの穴の存在証明?」

「そう、ドーナツの穴の存在証明。それが夏休み明けの活動内容」

 もう答えは決まっていた。これは完全に黒、カルト宗教だ。

 卵焼きが食べられなかったことは残念だが、一時的な好奇心に自分の人生をベットするのは危険だ。

「すみません。ちょっとその誘いには乗れないです」

「本当に?見学だけでもダメ?」

「はい。怪しいと判断しました」

「それは俺の話を聞いての判断でしょ。百聞は一見に如かずっていうよ?」

「それでも嫌です」

「本当に?」

「本当です」

「絶対に嫌?」

「嫌です」

「後悔しない?」

「後悔しません‼」

 荒ぶった声が保健室に静かに響いた。その反響で熱を帯びた感情がゆっくり凍てついていく。保健室の主もこれにはびっくりだった。

「ねぇ、うるさいんだけど」

 凍てつく沈黙の中に鈴の音のような凛とした声が響いた。それは閉め切ったからカーテンの中から聞こえた。今日は先客がいたことをすっかり忘れていた。

「す、すみません……」

 一連の流れで僕は完全に萎れた。そんな僕を保健室の主は優しく諭す。

「一応この話は保留にしておこう。興味が出たらいつでも言って。それと今日の昼休みは寝ないでちゃんとご飯を食べなさい」

「はい……失礼します」

 部活も卵焼きも昼寝も断って、僕は保健室を出た。今の僕は僕の感情で忙しかった。

 僕は温厚で冷静な人間だと自負していた。しかし、寝不足が積み重なると自分の誇りまで奪われてしまうのかと傷心した。とりあえず、今は教室に向かうことが最善だ。昼休みが終わるまで二十分もないが、何か食べよう。購買にパンでも残っていればいいのだけど。

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