国のことわざ


 息を切らして、全力で走ったけれど。もうすでに遅かった。

 どうして、こんな日に仕事を押し付けられるんだろう。文献を解読なんて、明日以降いくらでも付き合ってあげると言うのに。


 俺は肩を落とす。

 月食は、もう終わっていた。

 ベンチに座っていた彼女が僕を見て、嬉しそうに手をふる。


「……ごめん」


 項垂れる。一緒に、皆既月食を見ようね、と言っていたのに。結局、約束を守ることができなかった。忙しいなんて言い訳だ。約束を守れない自分がイヤに――。

 そっと、彼女の手が俺の頬に触れる。


「もう、謝らなくて良いよ」


 クスッと彼女は微笑んで、俺にベンチに座るように促す。

 月食はとうに終わり、鮮やかな満月がいつもより大きく見えた。


「君子の過ちは日月の食の如し、だよ」


 と彼女は微笑む。君子はたとえ過ちを犯すようなことがあっても、日食や月食が一時的なように、すぐに改めてもとの徳性に返る、という意味合いになる。まさか論語の引用を披露されると思っていなかったので、俺は目を丸くする。


「一番、新しい月とも言るんじゃない?」


 月食が終わって、一番最初に顔を出した満月。

 流暢に、そう囁く。この国にホームステイして一年が過ぎて。彼女は異国の文化にも積極的に関わっている。


「私のせいでもあるんだけれど、ガク最近、忙しいでしょう? こういう理由でもないと、引っ張り出せないな、って思ったの」


 彼女の国の文化は、未だ謎に包まれている。教授達はかの国の風俗史が知りたくて仕方がない。かくして、彼女に一番近い僕が引っ張りだされた。彼女は僕が一緒なら饒舌だし、資料も提供してくれるが、個別では全く受けてくれない。


 文献の翻訳も、俺に一任される始末である。

 ――それだけ、魔女の国は謎に包まれていた。


「だって、ガー君との時間をジャマされるのイヤだもん」


 普段の大人びた表情からは、想像できないほどの無邪気な笑顔を浮かべる。


「月食はまた機会があれば見られるけど、この時間は今だけだから」


 そう彼女はにっこり笑う。

 月が近い。

 それと同じくらい、存在が近い。

 距離がもっと近い。


「ねぇ、ガー君。私達の国でこんな言葉があるんだけど、聞きたい?」

「え?」


 有無を言わさず、耳元で彼女は囁いた。


「あのね『オグルさん、こちら』って言うの」

「それって、どういう意味?」

「言ってみて?」

オグルさん、こちら……?」


 そう言った途端、彼女に唇を奪われる。

 こういうことだよ、って笑みを浮かべていた。分かったつもりでいたら、やっぱり分からないことだらけで。

 だから、もっと知りたいって思う。

 俺は、同じ言葉をもう一度、囁いてやった。




「ガー君、2回目はちょっと意地悪だよ?」


 そう言いながら――雲が月明かりを覆い隠して。

 温もりが伝わって、

 滴り落ちる。




________________


第188回二代目フリーワンライ企画参加。

お題

・こんなこことをしている場合じゃないのに

・鬼さんこちら

・一番新しい

・もう謝らなくていいよ

・月食


お題、全部ぶちこみました(笑)

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氷柱の魔女と魔石クズ 尾岡れき@猫部 @okazakireo

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