第10話 楠木という名を畏れ

 藤井寺の合戦は、朝廷警護の任に就てい吉野にいる正儀によって奏上された。

 戦捷の報告は誰が聞いても胸のすくような快勝である。

 京を逃れて吉野に落ちてよりこの方、久しくなかった事に宮中が沸いたのは当然であったろう。

 気の早い公家のうちには


「さすがは楠木よ、この分ならば年内にも京へ還幸出来ようぞ」


 などと景気のいい話を肴に祝い酒を楽しむ者まであったが、ひとり正儀だけは浮かない表情を浮かべていた。

 楠木の情報網はここにも詳細な報告を届けている。

 戦術的見地で考えれば、それはまさに圧勝に他ならない。

 しかし、戦略的な観点から分析すると、どうも兄の目論見通りには運んでいないのではないかと思えてくるのだ。

 兄正行がなにを考えて行動しているのかは判らないが、この合戦の結果に不満を抱いているように感じられる。

 これほどの戦果を文一枚で送って寄越すというのが、その顕れではないかと。

 さらに言えば、勝ち方が鮮やかすぎるのだ。

 足利勢三千余騎をわずか数百騎でここまで苦もなく圧倒してしまうと、このあと押し寄せてくる軍勢がどれほどの規模になるか判らないではないか。

 敵は吉野と違ってその気になれば十万騎は動員出来るほど兵力には余裕がある。

 そこまで考えて行くと、今度の合戦は圧勝に見えて実はこの後窮地に陥るほどの失敗だったと見て行動するべきではないかと、そんな不安が心の奥にひろがって行くのである。


「楠木」


 沈思していた正儀を親房が冷たい声で現実の世界へ呼び戻す。


「はい」


「帝よりのご下問じゃ。此度の合戦、敵方の軍勢三千余騎と聞き及ぶが、これほど見事に負けては面目も立たぬであろう」


「左様に」


「きっと再び攻めてこよう」


「おそらく」


「帯刀に勝算はあると思うか」


 当然の心配だ。

 しかし、帝はなにを心配しているのか。

 行宮警護で全幅の信頼を寄せている楠木軍にか。

 兄正行を案じてくれているのか。

 それとも兄を破り、勢いに乗じて一気に吉野に攻められることを恐れているのだろうか。

 どのような返答を求めているのか計りかねる。


「忌憚なく申してみよ」


 答えかねていた正儀の頭上から、親房の冷水のような声が降ってくる。


「されば、敵は兄の手強い事を知り、此度に倍する軍勢を催してくるかと思われます」


「して、帯刀に勝算ありや否や」


「我が楠木は万余の兵如きには負けぬと自負いたしております」


 言葉に虚言はない。

 ただし、草木一本知り尽くしている河内の山中ならの話だ。

 平場で合戦におよべば兵力差は埋めようがない。

 「それはさておき」と正儀は思う。

 このような争いをいつまで続けるつもりでいるのか。

 彼の考えはいつもそこに帰結する。






 敵に数倍する大軍を擁してこれを一蹴するつもりが、逆にあっけなく蹴散らされて戻ってきた。

 幕府の動揺は隠せない。

 しかも楠木勢は河内を出て幕府側を挑発しているという報告が、次々ともたらされている。

 尊氏の弟直義はいくさひょうじょうを開いて、再度の討伐軍を差し向ける事にした。

 なんとしてでも年内には平定しなければと案じていたのだ。


「直義、なにを恐れているのだ」


 評定のうちに尊氏はいくぶん悪い顔色で、それでもこの騒擾を深刻になど捉えていないぞと、そう装いながらことさらに大きな声で下問した。

 この頃の足利兄弟はまだ互いの心持ちが通じている。

 この評定に出席している中で、兄がもっとも楠木を恐れている。

 しかし、それを色に出してはいけない立場にもいる。

 足利の幕府は脆いのだ。

 実力をもって君臨しているのではない。

 威徳を持って君臨しているのでもない。

 ただ、武家の棟梁として彼らの利益を保証していることをもって信任されているに過ぎないという自覚が、この兄弟にはある。

 この一義をもって同じ源氏の一流である新田義貞を討ち、持明院統という皇統を担ぎ出してまで当時皇位に就ていた大覚寺統後醍醐天皇を吉野に追い落としたのである。

 いや、追い落とせたのである。

 逆に言えば同心する味方の利益を保証できなくなれば、再び彼らが京を追われる事になろう。

 だからこそ尊氏は内心の怯えを隠して泰然と振る舞う事に努め、直義は一刻も早くこれを平定する事に務めなければならないのだ。

 直義は尊氏の問いに毅然として答える。


「恐れているのは楠木の名にございます」


「楠木の名とな」


「正行などという若造を恐れているのではございません。我らが将の内にある楠木という名に対する畏れが、大したことのないたかが五百騎に遅れを取ったというこの一点。この一点が刻を置けば再び一兵卒にまで信仰の如き恐怖心を植え付けかねないと恐れているのです」


「それは聞き捨てならん」


 真っ先に反論したのは先の大将顕氏である。


「我ら確かに楠木の先代当主が元弘の変の折にどれほどの活躍をしたかは聞き知っておりますが、それが故に楠木の名を畏れておるなどと言われるのは心外にござる」


 それを聞いて直義は胸の内でほくそ笑んだ。

 この激烈な反応を求めての、あえての暴言だったのだ。

 顕氏は今度の藤井寺合戦の惨敗で天下の物笑いとなった。

 なにせ敵は五百騎味方は三千余騎という大軍勢であったにもかかわらず、一戦して総崩れとなって京へ逃げ戻ってきたのである。

 武将としてこれほどの恥辱があろうか。

 気骨のある武将であれば恥をそそごうとまなじり上げて向かって行こう。

 さすれば士気はいやが上にも高まるというものだ。

 それとは反対に、尊氏は鬱とした気分にさせられた。

 直義の言が真実を突いていたことが知れたからである。

 おそらく二人とも、いや、この評定に列席している者すべてが無意識裡に楠木を畏れている。

 顕氏が「楠木の先代」などと名を言わずに避けたのも畏怖の顕れに違いない。

 だが、それを指摘する訳にもいかない。

 そのような事をしてしまえば楠木に対する畏怖が意識の上に顕在化してしまい、それこそ兵卒の士気にまでかかわる事になる。


「しかしの直義、もう時期冬が来る。敵と当たる前に寒さで兵を損ずる事にはならぬか」


 それにはやま時氏ときうじが答えた。


「お言葉確かにごもっとも。なれどあまり出陣を引き延べに致しますと、敵方が往時の勢いを取り戻すやも知れませぬ。そうなればやはり当たり難くなりはせぬかと、それを心配いたします」


 確かに藤井寺の勝敗を聞きつけ、畿内の豪族内で南朝につく輩が出始めているという報せがある。

 一族を挙げてというのではなく幕府の仲裁で不利な裁定を受けた不満の徒が、自らの権利を保証する存在として南朝を頼りだしたのだ。

 この辺りに足利幕府の危うさ、兄弟の苦悩がある。

 自らを武家の棟梁として幕府を開くために行った二朝併立の先に当然生じる出来事だ。

 それを考えれば確かに一刻も早く処理しなければいけないかも知れないと判っている。

 判っていても、いるからこそ尊氏は口ではこう言わねばならない。


「憶したか時氏」


 と。

 そしてこう決定する。


「ならばその方、顕氏とともに大将として見事楠木を討ち取ってまいれ」

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